ウクライナに対する西側の軍事的支援が続くと、ロシアは陸・海・空軍を総動員した大規模軍事演習で対抗している。26日(現地時間)、ロシア・タス通信によると、ロシア軍はウクライナ国境付近と黒海・北極海の海域でも大規模な軍事演習を行っている。今やウクライナ事態は「ステイルメイト」を過ぎて「ゲーム開始」に突き進む雰囲気だ。ステイルメイトはチェスで両者ともに手詰まりとなり、勝者を決められず引き分けで終わるゲームで、一部ではプーチン大統領がこのような対峙状況そのものを狙っていたと分析した。だが現在は、双方から高まる軍事的な緊張は誰も退くのが容易ではない方向に進んでいる。
米国の国内総生産(GDP)はロシアの14倍、国防費支出は17倍を越える。世界最強の軍事・経済大国を相手にしたプーチン大統領の「度胸だめし」はどこで始まるのか。米国シンクタンク「海軍分析センター(CNA)」のロシア軍専門家マイケル・コフマンは、先月英国日刊紙フィナンシャル・タイムズ(FT)とのインタビューで「プーチン大統領は武力を通した政治的目的の達成で、どの政治指導者よりも優れた成績を収めてきた」と評価した。実際に「21世紀のツァー(皇帝)」と呼ばれている今日のプーチンを作った決定的瞬間に3度の戦争が絡んでいる。
◆「新人政治家プーチン」を有名にした2度のチェチェン戦争
1999年8月9日にボリス・エリツィン元大統領によって首相に任命された時でさえ、プーチンは新人政治家といっても過言ではなかった。1975年大学卒業後、ロシア情報機関KGBで活動したプーチンは1990年ドイツ統一後、サンクトペテルブルクに戻った。その後、サンクトペテルブルク市長アナトリー・サプチャークの補佐官として政界に入門する。プーチンが1996年に中央政府への進出を決めてから2000年大統領職に上がるまでに4年もかからなかった。
この背景にはエリツィン元大統領の寵愛の以外にも2度のチェチェン戦争で見せたプーチンの「強いロシアへの郷愁」がある。
1999年8月7日、イスラム原理主義の分派ワッハーブ派を追従する指導者シャミル・バサエフがチェチェンとダゲスタンを合わせたイスラム共和国建国を試みてチェチェン戦争が再び勃発した。エリツィン大統領は事態発生2日後に、同年5月に任命されたセルゲイ・ステパーシン首相を解任して、その職にプーチンを座らせた。ステパーシンが解任された主な理由には、エリツィン退任後、その一家の将来を保障する人物として「不合格」判定を受けたことが挙げられるが、第1次チェチェン戦争で失敗したエリツィンの立場としては強いロシアを見せる首相が必要だった。
この時、プーチンは「アルカゴリック(アルコール中毒者)」というエリツィンのニックネームで代弁された弱いロシアとの決別を見せた。プーチンはチェチェンの首都グロズヌイに大量破壊武器を動員するなど無慈悲な攻撃を浴びせて首相指名から5カ月後の2000年2月、グロズヌイ陥落に成功した。新人プーチンはこれを機に同年5月の初めての大統領選挙で53%の得票率を記録して大統領職に就いた。
プーチンのブルドーザー鎮圧は2002年にも繰り返された。チェチェン反乱軍が戦局を逆転させようとモスクワ国立劇場を占領して850人余りを人質に取った時、プーチンはテロリストとの妥協を拒否した。人質129人が犠牲になった無理な鎮圧作戦は全世界に衝撃を与えた。西側はプーチンが政治的危機に陥ると予想したがロシア国民は退かないその姿に熱狂した。プーチンは2004年の再選で71.3%という圧倒的な支持を獲得した。ロシアはその後、原油価格が上昇し、2000年代の中国経済の急成長で世界原材料価格も高騰するなど「類例がない黄金期」を享受した。
◆国内を越えて「西側と対抗する指導者」になったプーチン
プーチンは2008年、連続3選が憲法で禁止されていることから側近であるドミトリー・メドベージェフに大統領権力の座を譲って自身は首相であり実質的「上皇」として君臨した。偶然にもこの時、プーチンにとって2つ目の戦争が起きる。ロシア南部の国境を接しているジョージア(旧グルジア)が同年8月に独立しようとしていた親露志向の南オセチアとアブハジアに対する鎮圧を試みると、プーチンはジョージアを侵攻して5日後に降参させた。
南オセチア紛争開始日である8月8日は2008北京オリンピック(五輪)開幕式があった日で、当時ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は五輪開幕式でロシア侵攻の事実を耳にした。この紛争はNATO(北大西洋条約機構)の東進政策に対するプーチンの武力示威デモでもあった。1990年ドイツ統一当時、西側はソビエト連邦共産党のミハイル・ゴルバチョフ書記長に「NATOの管轄領域は東側に進まない」と約束したが、これは守られなかった。ソ連が崩壊した後、1999年チェコ・ポーランド・ハンガリーを皮切りに、2004年ロシアと直接国境を接するバルト3国(ラトビア・エストニア・リトアニア)まで次々とNATOに加入した。
南オセチア紛争は、NATOが2008年4月にルーマニア・ブカレストで「ジョージア、ウクライナ両国のNATO加入の念願を歓迎し、NATOの外相が(加入手続きの)次の順序であるメンバーシップ行動プラン(MAP)適用時期を決める」という宣言文を採択したときに予告されたものだったのかもしれない。夏季五輪期間に起きた紛争に世界は驚いたが、2008年9月ロシア内のプーチンの支持率は歴代最高水準の88%まで上昇した。
2012年大統領選挙に再び出馬したプーチンは64%の比較的低い支持率で当選すると、2014年クリミア半島を強制合併して過去の公式をなぞった。2011年から2019年まで原油価格が下落してルーブル価値が下落するなどロシア経済は逆行したが、ロシア国民はプーチンが問題ではなく解決策だとみなした。クリミア併合以降、プーチンの支持率は再び80%台を回復した。
◆「米・NATO、過去とは違う…プーチン、従来の公式では失敗する可能性」
今回のウクライナ事態でもプーチン大統領はこれまでの3度の「戦争勝利公式」にそのまま従っている。25日、米CNNによると、ロシア公営放送ではプーチン大統領が依然と西側の脅威からロシアを守る救援者のように描かれている。
ただし、実際はロシアがウクライナを侵攻する場合、今度はプーチン式成功公式が失敗に帰する可能性が高いと専門家は指摘する。米国の外交専門紙フォーリン・ポリシーは「ロシアは最近のジョージア、ウクライナの侵攻で、軍事的費用を低く、死傷者を少なくおさえるモデルを使った」とし「米国とNATOがウクライナに数十億ドルを支援して、各種武器を送っている現状況では深刻な被害を受ける可能性がある」と展望した。著名なコラムニストのトーマス・フリードマンは最近ニューヨーク・タイムズ(NYT)への寄稿文を通じてこのように警告した。「プーチンがウクライナの首都キエフを占領すれば、そこが新たなアフガニスタンになるだろう」。