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天安門事件から34年、東京で抗議集会

天安門事件から34年、東京で抗議集会 「求めていたのは自由」

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朝日新聞デジタル

 東京都文京区本郷4丁目の文京区民センターでは、1989年に中国の民主化を求めた人々らが武力弾圧された天安門事件から34年の4日、天安門事件の犠牲者を追悼する抗議集会が開かれた。当時、運動の学生リーダーの一人だった周鋒鎖さん(55)は「私たちが求めていたのは民主主義と自由。とても平和的な活動だった」と話した。 【写真】学生リーダーの1人でその後、指名手配をされた周鋒鎖さん=2023年6月4日午後2時52分、東京都文京区本郷4丁目、岩田恵実撮影  当時、清華大学の学生だった周さんは民主化運動で学生らを指揮。事件後、指名手配された。現在は米国で中国の人権問題について取り組む民間団体を設立して活動している。  来日して集会に参加した周さんは当時学生たちが着ていた「民主自由」と書かれたTシャツや広場から去ろうとしていた学生が銃撃され、止血に使ったタオルなどを紹介。「『武力弾圧を忘れるな』と強調されるが、民主化を求めた過程も中国の歴史と未来において大事なことだ」と述べた。

朝日新聞社

 

天安門」知らぬ世代東京で集う 異例の追悼集会

 
  
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在日中国大使館近くで、中国政府に抗議する周鋒鎖氏(左)ら=4日、東京都港区
 
在日中国大使館近くで、中国政府に抗議する周鋒鎖氏(左)ら=4日、東京都港区

 天安門事件から34年となった4日、東京都内の各所で犠牲者への追悼集会が開かれた。事件があった1989年より後に生まれた中国人の若者らも主催者に加わった。習近平指導部の抑圧的な統治下で将来に希望を見いだせない中国国内の人々に連帯を示した。事件当時を知らない世代が主催者として参加するのは異例だ。

 日本での集会はこれまで、事件当時の関係者が主導してきたが、今回、昨年11月に中国各地で人々が厳格な新型コロナウイルス対策に白い紙を掲げて抗議した「白紙運動」に触発された中国人留学生らが参画。帰国後に当局の圧力を受けるリスクを冒しており、指導部に対する若者の不信感の強さがうかがえる。

 

天安門事件から34年 犠牲者遺族は「謝罪と懺悔を待つ」

三塚 聖平  産経新聞

 

北京の天安門を訪れた観光客ら=4日未明(共同)
 

【北京=三塚聖平】中国で学生らの民主化運動が武力鎮圧された天安門事件から4日で34年となった。犠牲者追悼や責任追及の動きを阻止するため、中国当局は今年も厳戒態勢で臨み、北京市内の事件と関係する場所では多数の警官らの姿が見られた。

天安門広場から西に約6キロの場所に位置する木樨地(もくせいち)の地下鉄駅周辺では3日夜、無線機を携帯した私服警官とみられる男女が優に100人を超える規模で配置されていた。木樨地は、1989年6月3日深夜から4日未明にかけて人民解放軍部隊と市民が衝突、多数の死傷者が出ており、遺族らによる追悼活動を警戒した措置とみられる。路上で立ち止まる通行人に厳しい目を向けていた。

事件の遺族グループ「天安門の母」は4日までに発表した声明で、「われわれは、政府が事件の犠牲者遺族に謝罪し、人民にざんげすることを待つ」と求めた。「政府は、人々の心の中の残酷な事実の記憶を消そうとしている」と批判した。声明は116人の連名で、この1年間で7人の遺族が死去したという。

 

習近平政権は、天安門事件に関して武力鎮圧を正当化している。中国外務省の毛寧(もう・ねい)報道官は2日の記者会見で、天安門事件から34年を迎えるにあたり、事件は「政治風波(騒ぎ)」だったとし「中国政府は既に明確な結論を得ている」という従来の主張を繰り返した。その上で「(事件を)口実に中国を中傷し、内政干渉するいかなるたくらみも目的を達することはない」と強調した。

天安門事件34年 殺戮の事実認め謝罪せよ

 

 

<社説>天安門事件 歴史の「封印」いつまで

2023年6月5日 07時41分  東京新聞
 中国は今年も負の歴史の「封印」を解くつもりがないようだ。学生たちが民主化を求めた運動を武力弾圧した一九八九年六月四日の天安門事件から三十四年。中国政府は、事件の再評価に背を向けたままだ。
 中国政府は事件について毎年、記者会見等で「一九八九年に起きた政治風波(政治的もめごと)」と繰り返してきた。今年も四日までに、新たな歴史的評価は示さなかった。中国の公式発表でも三百十九人が命を落とした事件であるのに、犠牲者を悼み、その真実を公開しようとする誠実さはまるで感じられない。
 人民解放軍が人民に銃を向けた惨劇は、海外では中国の圧政の象徴としてよく知られる。だが、大陸では一種タブー視されており、事件を知る一部の人さえ「6・4」と隠語で呼ぶ。学校で教えられることはないため、多くの若者は事件の存在さえ知らず、国内でネット検索しようとしても規制されており、調べられない。
 二〇二一年に公表された中国共産党の「第三の歴史決議」では、事件は「政治風波」や「動乱」と呼ばれた。中国はこの三十四年間、事件を「風波」という軽い言葉で総括し、さらに、それを「封印」して、歴史の闇に葬り去ろうと血道を上げてきたように映る。
 事件で子どもを殺害された親らでつくる「天安門の母」は五月下旬に声明を発表した。高齢化が進むなか、この一年で会のメンバー七人が他界したと明かし、「政府はこの残酷な出来事の記憶を人々の心から消し去ろうとしてきた」と批判。政府に謝罪や責任追及などを求めたが、今年も一顧だにされなかった。中国は、時が過ぎて、関係者がすべて亡くなり、事件がすっかり風化するのを、目も耳も閉ざして待っているかのようだ。
 だが、強権統治への民衆の反抗は既に胎動を始めているように見えなくもない。昨年秋には、習近平政権の「ゼロコロナ」政策による厳しい防疫措置に公然と抗議するデモや暴動が一時、中国各地に広がった。中には「共産党退陣」を求めるスローガンまで掲げられ、北京市民の間には、第二の天安門事件につながりかねないと懸念する声もあがったという。
 中国は「封印」を解くべきだ。歴史的事件に正面から向き合い、反省してこそ、「天安門の再来」は避けられるのではないか。