パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

「70歳以降は幸せを感じながら生きる『幸齢者』と呼んではどうか。幸齢者自身には『年を取ってもできること』の価値を見つめ直してほしい」という

70代以降に

「イライラした高齢者」と 

「ニコニコした幸齢者」が

はっきり分かれていく"ささいな理由"

プレジデントオンライン

 

日本では、「老い」に対しネガティブなイメージを抱く人が多い。高齢医療の専門家・和田秀樹さんは「70歳以降は幸せを感じながら生きる『幸齢者』と呼んではどうか。幸齢者自身には『年を取ってもできること』の価値を見つめ直してほしい」という──。(第4回/全4回) 【写真】和田秀樹氏の著書『幸齢者』(プレジデント社)  ※本稿は、和田秀樹『幸齢者』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

 

■「幸齢者」を目指した賢明な生き方  

人間、70代にもなれば、以前ならできていたことが次第にできなくなっていきます。そのことを思い知らされるような体験をすると、つい腹立たしくなったり、悲しい気持ちになったりする。当然のことかもしれません。  とはいえじつは、70代でもかなりのことがまだできるのです。  ですから「できないこと」はもはやできなくなったのだ、と受け入れつつ、まだ残っている「できること」、つまり残存機能を今後も維持したり、いまの自分に何ができるのかについて、じっくりと見つめ直したりする――。  これが、「幸齢者」を目指した賢明な生き方だと思います。

■「できること」は立派な取り柄  

パラリンピックは、障碍者に残された機能をいかにフル活用できるかを競う大会です。高齢者には、この「パラリンピック的発想」が必要です。  「できること」を現在の自分の取り柄として目を向ける姿勢が、自分を助けることになるはずです。なにも“ずば抜けた才能”である必要はありません。若い人から見れば傑出した能力とはいえないようなことでも、この年代以降の人にとっては、「できる」ことそれ自体が立派な取り柄になるのです。  40代のころは、周りの人と同じスピードで歩けることに喜びを感じることはまずないでしょう。しかし70代になって40代の人と同じ速度で歩くことができれば、それはとても素晴らしい残存機能ではありませんか。  毎日のごはんを料理して、たまにお客さんに自分が漬けた漬物を出すことができる。一人で買い物に行くことができる。誰とでも分け隔てなく話をすることができる。素直に人を頼ることができる……。そうした、ごく“ささやかなこと”ができるだけで、人生の支えになります。  裏を返せば、そうした“ささやかなこと”に幸せを感じられるようになる。それこそが、年をとることのよさでもあると思います。

  •  

■「ものわかりのいい高齢者」を装うのはやめよう  

“ささやかなこと”に幸せを感じられるようにしたいと言いつつも、だからといって必要以上に丸くならないようにしてほしいものです。  「もう70を過ぎたんだから、若い人に合わせなくちゃ」「世の中のトレンドなんだから、受け入れなくちゃ」などと、ものわかりのいい高齢者を装う必要はありません。  むしろ少しぐらい頑固でもいいから、自分が長く生きて考えてきたことや、経験を通じて培ってきたものを伝えるぐらいの気持ちになったほうが、高齢になっても自然な生き方ができる気がします。

■「年寄りの昔話は嫌われる」は本当か  

たとえば50代、60代の現役のころは、若い世代に自分の経験を話しても冷淡な反応しか返ってこなかったかもしれません。「そんな昔話は聞きたくない」「いまはもう、そういう時代じゃない」……といった反感も察してきました。  それがわかっているから、「年寄りの昔話は嫌われる」と、ついつい思い込んでしまいます。  現役を退いた70代が何か言ったところで、相手にされない可能性はたしかにあります。「そんな考え、もう古いですよ」「いまの世の中には通用しませんよ」と否定されるかもしれません。  でも私は、どんなに高齢の方であっても、その人がポツンと漏らしたひと言に「なるほどなあ」「そのとおりかもしれないなあ」と感服することがよくありました。言われたときはすぐにピンとこなくても、自分自身が年を重ねることで、「そういう意味だったのか」と頷(うなず)いてしまうこともありました。

■自分の思うところを主張し続けていい  

ですから、自分が「こうあるべきだ」と思うことを主張し続けていいのです。それが正しいかどうか、誰にも判断できないことがいくらでもあるのです。  高齢になってくると、何かふと考えが頭に浮かんだときでも、相手の意見に反論したくなったときでも、何も言わずに黙り込むことが多くなります。自分の考えを「もう古いのかな」「偏屈に思われるかな」と封じ込めてしまうことがあります。  でも、相手や周囲の意見が正しいというわけではありません。いろいろある考えの中の1つでしかないのです。  まして政治や経済、人生観の問題に、「ただ1つの正しい答え」などあるはずがありません。答えはいくつもありますし、時代が変わればまた違う答えが出てくるでしょう。  どんな分野の常識でも、数年もしないうちに覆されたり、まったく新しい考え方が出てきたりするのは珍しいことではありません。

■自分に筋を通す生き方  

つまり、唯一絶対の正義が存在しない以上、自分の考えや答えも1つの見方として言葉にしていいはずです。少なくとも、相手や周囲に合わせる必要はありません。  長く生きてきて自然に備わった考えを、そのまま表に出す。自分自身に筋を通すとは、そういうことではないでしょうか。  じつは私は、そのことに10年くらい前に気がつきました。  それまでは、勉強するのは「答えを出すため」だと思っていました。学びたいこと、知りたいこと、わからないことを勉強するのは答えを求めることだと思っていました。  ところがだんだん、「どんなものにもただ1つの答えはない」と考えるようになりました。医学常識だって変わっていきます。  つまり、どれが正しい答えなのかは半永久的にわからないままなのです。むしろ、答えや選択肢を複数同時に持っていられること、それが本当の賢さだと思うようになりました。

■70代からの「勉強」とは  

そうだとすれば、人生勉強とは、さまざまな可能性を求める行為になってきます。「こういう可能性もある」「そうはならない可能性もある」と考えながらいくつもの答えを探していく、それが本当の勉強なのではないかと思うようになりました。  自分がいま「確かだ」と持っている答えも、本当は正しくないかもしれません。  世の中にはときどき、一方的に自分の考えを押しつけてくる人がいます。そういう人に対して、私はこう反論することにしています。  「でも、その説が絶対正しいという根拠はありませんよね」 「その答えは、ずっと先々まで正しいと思っていられますか?」  そう言えば、たいていの人は、「まあ、それはそうですけど……」とおとなしくなります。

■学ぶ楽しさに終わりはない  

ただ1つの答えを見つけるのでなく、いくつもの答えを考えられるようになるのが、本当の勉強です。いろいろな可能性を探っていくのが勉強だとわかれば、学びに終わりはなくなります。  答えが1つ見つかっても、「それだけだろうか」「ほかにも可能性はあるんじゃないか」と考えれば、まだまだ勉強は続きます。  勉強と聞くと、高齢の方は「もういいや」と敬遠しがちです。「難しいことはもう頭に入ってこない」「いまさら勉強したって目指すものがない」と考えてしまいます。でも、本当にそうでしょうか?   70代でも80代でも、テーマを決めて勉強に取り組んでいる方はたくさんいます。みなさん、元気で輝いています。たとえば、地域の図書館や公共の施設ではさまざまな分野の学習会が開かれて、年代を問わず学んでいる人が大勢います。

■高齢になったからこその「勉強」とは  

勉強という言葉は、どうしても受験勉強を想起させます。答えはたった1つしかない。その答えをたくさん暗記することで高い評価を得て、ライバルを蹴落とす。そういうイメージが強いことでしょう。  初等・中等教育の段階では、暗記や詰め込みは大事です。でも高等教育や社会に出てからは、そういうものはあまり必要ありません。  さまざまな知識を身につけ、答えをいくつも知っていくこと。さらに、その知識をもとに自分で考えをまとめていくこと。それこそが勉強だと考えれば、高齢者でも構えないで参加することができます。

■いくつになっても1日1日賢くなるのが人間  

実際、70代で大学の科目単位の講義を受けたり、大学院に入り直してやりたかった勉強を再開させたりする人もいます。  そういう人たちに共通するのは、「もっと知りたい」という素朴な向学心です。  ただ1つの答えを探すのではなく、いろいろな考え方や見方を知りたい、いまよりももっと賢くなりたいという、いくつになっても残り続ける向学心が人間にはあります。  本を1冊読む、講義を聴く。勉強すればそのぶんだけ賢くなります。1日1日、少しずつ賢くなっていく。  70代だろうが80代だろうが、これはやはり大切なことであり、嬉しいことだと思います。

 

---------- 和田 秀樹(わだ・ひでき) 精神科医 1960年、大阪市生まれ。精神科医東京大学医学部卒。ルネクリニック東京院院長、一橋大学経済学部・東京医科歯科大学非常勤講師。2022年3月発売の『80歳の壁』が2022年トーハン・日販年間総合ベストセラー1位に。メルマガ 和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」 ----------

精神科医 和田 秀樹