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大学に行くのは卒業証書をもらうためではなく、知識を得ることを目的に卒業する。 カイロ大学で学ぶにはアラビア語の読み書きが必要である 小池百合子「カイロ大卒」の真偽 

日本人は大学コンプレックスがあるが、大学名ではなく何を勉強したかである。外国では入学は難しくなく、卒業は至難の業、嘘を言う人間の卑劣さは嘘が嘘をよぶ、すなわち『嘘は泥棒の始まり』という諺は今も生きているのだ。

 

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈2〉JBpress (ジェイビープレス)

jbpress.ismedia.jp

          卒論の”嘘”

2020.1.11(土)黒木 亮follow東京オリンピック・カウントダウンクロック発表会に出席した小池百合子都知事(写真:西村尚己/アフロスポーツ)
 
 

(黒木 亮:作家)

 これまでたびたび週刊誌などでも取り上げられながら、決定的な証拠を突き付けるまでには至らなかった小池百合子東京都知事の「学歴詐称疑惑」。アラビア語やエジプト事情に疎い日本のメディアは小池氏の学歴詐称疑惑の追及に消極的で、このままでは、この疑惑は、永遠に疑惑のまま終わってしまうかもしれない。

 小池氏の「お使い」レベルのアラビア語を聞けば、カイロ大学卒業という学歴は即座におかしいと分かる。筆者はアラビア語を学び、エジプトの大学(カイロ・アメリカン大学大学院中東研究科)を卒業した者の責務として、複数回の現地取材を含む調査で疑惑を徹底検証した。その結果、小池氏がカイロ大学の卒業要件を満たして卒業したという証拠、印象、片鱗は何一つ見出せなかった。

 これまで他のメディアが報じてこなかった小池氏の「学歴詐称」を徹底検証するレポートの第2弾をお届けする。

 

(参考記事)徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈1〉
「お使い」レベルのアラビア語

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5884

 

「卒論制度なし」の説明は事実ではなかった

 小池氏の学歴の真偽を判断するにあたって、氏のアラビア語のレベルと並んで非常に重要と思われるのが、卒論の件である。石井妙子氏の「小池百合子『虚飾の履歴書』」(『文藝春秋』2018年7月号、以下『虚飾の履歴書』)によると、小池氏は、卒論の内容についての質問に対し、弁護士を通じて「当時カイロ大学では論文試験制度はなく」と回答したという。

 卒論の有無は、学部、学科、業年度によって異なるのは、日本もエジプトも変わらない。1973年に文学部アラビア語学科を卒業した小笠原良治大東文化大学名誉教授は卒論をアラビア語で書いて提出し、審査を受けて卒業したという。一方、筆者が会った政経学部の日本人卒業生や2003年の商学部の卒業生は、卒論提出の義務はなかったそうである。

 筆者は、小池氏が卒業したとしている1976年当時の文学部社会学科ではどうだったかを確かめるため、カイロ大学文学部社会学科を訪れて話を聞いた。その回答は「社会学科では1976年当時、卒論が必須で、現在もそれは変わらない」というものだった。

 

 1976年に同学科を卒業し、教員を務めているエジプト人男性は卒論に関して次のように語った。

カイロ大学文学部社会学科(1学年約150人)では、全員が卒論を書かなくてはなりません。4年生の1年間は卒論を書くためのプロジェクト立案、資料集め、インタビューなどに追われます。私の卒論のテーマは、『職業集団としての猿の調教師』で、分量はアラビア語で80~90ページでした。他の学生の卒論のテーマは、教育、社会統制、カイロの貧民街、犯罪学というようなものでした。4年次は、卒論以外にもフィールドワークがあり、12科目程度の講義も取らなくてはならず、試験もあります」

 同氏の証言によると、卒論は4年次の1年間(1学年は10月に始まり、翌年6月に終わるので、実質9カ月程度)をかけて材料を集め、アラビア語で80~90ページを書くもので、通常の12科目程度の授業のかたわらに作業をしなくてはならず、相当大変なものである。もし本当に卒論を書いていたら、忘れるなどということはあり得ない。小池氏が、弁護士を通じて卒論はなかったと回答していること自体、氏が卒業していない(あるいは「正規のルート」では卒業していない)ことを顕著に示しているのではないだろうか。『虚飾の履歴書』にも小池氏が卒論を書いていた様子についての証言は出て来ない。

 小池氏は、カイロ大学で何を勉強したのかについても、説明らしい説明はしていない。一方、前述のエジプト人男性は、「私は社会学と人類学に関心があるので、社会変化、健康・病気・文化、社会人類学、都市・農村・紅海や地中海付近のベドウィンの家族システム、子どもの名付け方などについて勉強した」と率直に述べている。

そもそもカイロ大学の講義に出席していたのか?

 小池氏の『振り袖、ピラミッドを登る』では10ページから58ページまでカイロ大学での1年目の様子が書かれている。しかし、2年目以降の様子がまったく書かれておらず、59ページ目にいきなり4年目に最後の試験に合格し、卒業できることになったとある。

 本来であれば、学年を進むにつれ、勉強は専門的になる。4年次には卒論もあり、また卒業がかかった試験もあり、相当に大変なはずで、忘れたくても忘れられない様々な思い出があるのが自然だ。

 しかし、そうした記述は一切なく、カイロに来て3回目の夏にレバノンに旅行し「快適な旅を楽しんだ」ことや、レバノンで買った中古のフィアットを引き取るため、エジプト北部の港町アレキサンドリアに4回足を運び、女の涙を武器に税関吏と交渉したことなどが書かれているだけだ。2年目以降、きちんと大学に出席した印象は受けない。

カイロ大学(写真:AP/アフロ)
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 実際、小池氏と同じ時期にカイロ大学に在籍していた人々に話を聞くと、大学では小池氏をほとんど見たことがないという人ばかりだった。

 

 文学部の建物は正門を入って右手にあり、そこで同学部の様々な学科の学生たちが勉強している。エジプト人の他、サウジアラビアバーレーンUAEリビアスーダンといったアラビア語圏の学生がほとんどなので、日本人女子学生でベールも着用していない小池氏は相当目立ったはずだ。

 しかし、小池氏が卒業したという1976年にカイロ大学文学部(歴史学科)を卒業し、現在もカイロに住んでいるアーデル・ハナフィ氏は「文学部アラビア語学科を卒業したサダト大統領夫人はしょっちゅう大学内で会ったが、小池氏は見たことがない」と言う。小池氏とカイロ大学で重なっている日本人卒業生も「(自分とはわずかの期間しか重なっていない)小笠原良治氏とはしょっちゅう大学内で会ったが、(かなり長い期間重なっている)小池氏とは1、2回しか会ったことがない」と話す。

小池氏以外の日本人は5~7年かけて卒業

 カイロ大学の学部レベルでは、小池氏を除いて5人の日本人卒業生が1970年代と80年代にいることが分かっている。いずれも相当な勉強をし、5年から7年かけて卒業した人々だ

 その中の1人、1973年に文学部アラビア語学科を卒業した小笠原良治氏はカイロで3年アラビア語を勉強した後、7年かけて文学部アラビア語学科を卒業した人で、『ジャーヒリーヤ詩の世界』というアラブ人でも書けないような専門的な著作がある。筆者もアジア・アフリカ語学院(社会人コース)で小笠原氏からアラビア語を教わったが、美しく、格調高い正則アラビア語を話す人である。

 もう1人の齊藤力二朗氏は、7年程度をかけてカイロ大学史跡学部を1976年に卒業後、ロンドンのポリグロット(有名な語学学校)でアラビア語を教え、最近までアラビア語でブログを書いていた。

 1970年代に在籍したアシュラフ安井氏(学部は不明だが、卒業生の1人は教育関係ではなかったかと言う)は目が悪い人で、アラビア語の本に顔をくっ付けるようにして読み、アラビア語は相当できる人だったと卒業生の1人は話す。帰国後はアジア・アフリカ語学院などでアラビア語を教えていた。

 以上の3人はいずれもイスラム教徒で、7年程度をかけて卒業している(安井氏については確認できていないが、卒業生によるとかなり長い期間在籍していたという)。

 このほか政経学部を1978年に卒業した沢田直彦氏(元三菱商事)と1981に卒業した鈴木規之氏(元三菱東京UFJ銀行)がいる。2人とも一度落第し、5年かけて卒業している(5年で卒業できたというのは、日本人としてかなりすごいことである)。筆者が取材した卒業生は一様に「勉強は大変だった」「しんどかった」と語っていたのが印象的だった。4年で卒業したという小池氏は、彼ら以上の努力をしていたのだろうか。

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈3〉

エジプトで横行する「不正卒業証書」
 
1月6日、東京都現代美術館で開かれた東京2020公式アートポスター展で挨拶を述べる小池百合子都知事(写真:つのだよしお/アフロ)
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(黒木 亮:作家)

 これまでたびたび週刊誌などでも取り上げられながら、決定的な証拠を突き付けるまでには至らなかった小池百合子東京都知事の「学歴詐称疑惑」。アラビア語やエジプト事情に疎い日本のメディアは小池氏の学歴詐称疑惑の追及に消極的で、このままでは、この疑惑は、永遠に疑惑のまま終わってしまうかもしれない。

 小池氏の「お使い」レベルのアラビア語を聞けば、カイロ大学卒業という学歴は即座におかしいと分かる。筆者はアラビア語を学び、エジプトの大学(カイロ・アメリカン大学大学院中東研究科)を卒業した者の責務として、複数回の現地取材を含む調査で疑惑を徹底検証した。その結果、小池氏がカイロ大学の卒業要件を満たして卒業したという証拠、印象、片鱗は何一つ見出せなかった。

 これまで他のメディアが報じてこなかった小池氏の「学歴詐称」を徹底検証するレポートの第3弾をお届けする。

(前回はこちら)
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈2〉 卒論の”嘘”
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58851

カイロ大学長も存在を認める「不正卒業証書」問題

 SNSもなく、政府に不利な記事は一切書けないメディアしかなかった近年まで、表ざたになることはなかったが、実はカイロ大学などエジプトの国立大学では、長年にわたって教授や職員が関与し、“不正卒業証書”の発行が行われてきたと根強く言われている。英語では「complementary certificate」と呼ばれ、直訳すれば「プレゼントの証書」だが、実態は“不正卒業証書”である。

 この事実は、筆者が会った数多くのエジプト人が証言している。というより、否定するエジプト人は1人もいなかった。それどころか、カイロ大学の学長自身も、2015年のテレビ・インタビューで、今も“不正卒業証書”の問題があることを認めているのだ。

カイロ大学とアイン・シャムス大学(カイロにある別の有名国立大学)の職員は、サダト政権(1970~81年)・ムバラク政権(1981~2011年)下において、大学で勉強したこともない多数の国内外の政治家、有力者、その関係者に学士の“不正卒業証書”が与えられたと述べた。

有力政治家の一声で名門大学卒の書類が

 また、エジプト最大の国営日刊紙「アル・アハラーム」や「アルジャジーラ」などで20年以上にわたって記者を務めたベテランのエジプト人ジャーナリストによれば、「エジプトの有力政治家が『この人物を卒業生にしろ』と命じれば、学長は職員に命じて卒業証明書や卒業証書を作らせる。職員は入学記録や初年度の成績などを参考に成績表も偽造し、大学内の記録も含めて形式的に完璧にする。したがって書類だけを見れば瑕疵がない」という。

 筆者が「それは政治家のプレッシャーに屈してそうするということか?」と訊くと、苦笑して「プレッシャーは必要ない。エジプトでは当たり前のこと。事務的に処理されるだけ」と答えた。

文学部の建物から見たカイロ大学構内(筆者撮影)
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 同様の証言は他にも得られた。カイロ大学マスコミュニケーション学部を卒業したカイロ在住のジャーナリストは、やはりサダト政権・ムバラク政権下において、多数の“不正卒業証書”が発給されたと指摘している。

 また日本の援助関係機関で管理職を務めるカイロ大学工学部卒のエジプト人男性は「金やコネでカイロ大学の卒業証書を手に入れることは、十分あり得る。日本の重要人物の関係者ならば、日本との関係をよくするために、(カイロ大学が)エジプト政府と話してのことかもしれない」と言う。

 日系新聞社のカイロ支局にリサーチャーとして勤務する女性は「政治家が『この人物を卒業したことにしろ』と言えば、当然、卒業したことにされて、“不正卒業証書”が発行される」と語ってくれた。

 

 カイロ大学を含むエジプトの国立大学の“不正卒業証書”問題は今も続いている。

 2015年にはカイロ大学のガーベル・ガード・ナッサール学長がエジプトの民放CBCに出演し、7、8年前(すなわち2007、2008年)から大学教授、職員、政治家などが関与して、“不正卒業証書”が発行されていると述べているのだ。これらはSNSやエジプトの全国紙の全面広告を通じて宣伝され、カイロ大学をはじめとする国立大学の卒業証書を発行しているという。これにより、エジプトに来たこともないクウェート人やサウジアラビア人が医学や歯学のディプロマ(学士と修士の中間)や修士の学位を得たりしている。

 またナッサール学長自身、“不正卒業証書”発行業者がカイロ大学の職員の手引きにより、大学内の講堂を使用し、資格取得のための講習をしているのを番組の2週間前に偶然目撃したという(関係した職員は解雇)。「証書を2枚買えば、3枚目はタダ」というスーパーマーケットのような業者の広告も出ており、ナッサール学長は「こういう不正が起きるのは、エジプトだけだ」と嘆いている。

(参考動画)https://www.youtube.com/watch?v=gUd6mUqmoAk&app=desktop
(同学長のインタビューは上の動画の1時間4分15秒のところから)

いくらでもある「不正卒業証書」発行のエピソード

 2017年には、教育分野に強いエジプト人女性ジャーナリスト、ダリヤ・シェブル氏(カイロ大学のマスコミ学部で学士と修士を取得、エジプトの私立大学で准教授を務める)がFacebookなどのSNS上で“不正卒業証書”を販売している複数の業者に接触し、実態を記事にしている。

 ある業者は、「大学内部の記録まで捏造して“不正卒業証書”を発行する場合は40日、そうでない場合は20日で納品できる」と言ったという(大学内部の記録を捏造できるというのは、学内に協力者がいることを意味する。業者の1人は「自分にはカイロ大学、アイン・シャムス大学、ファイユーム大学、ザガジグ大学内に協力者がいる」と話した)。

 またシェブル氏が業者に依頼したところ、業者が実際に彼女の名前でカイロ大学のメディア・サイエンスの博士号の証書を発行し、ヨルダン人の知人にカイロ大学の医学士(外科)の証書を発行したという。

 さらに、アイン・シャムス大学の“不正卒業証書”で検査部門の医師として働いている人物に会い、アイン・シャムス大学医学部の“不正卒業証書”で実際にクリニックを開業し、整形外科医として患者を治療している人物が存在すること、ミニヤ大学工学部(建築学)の“不正卒業証書”でUAEの建設会社でエンジニアとして働いている人物がいることも突き止めている。

 エジプトの薬剤師協会は取材に対し、“不正卒業証書”を利用して多数の入会申し込みがなされていると回答し、同弁護士会も過去2年間で約30件の“不正卒業証書”を利用した入会申し込みがあったと回答した。またカイロ大学工学部は学部のスタンプが盗まれたことを認めた。

(参考記事)https://www.masrawy.com/news/news_various/details/2017/12/7/1215652/شهادات-جامعية-للبيع-سنوات-الدراسة-يختصرها-السماسرة-في-أيام-تحقيق-

 2018年には、エジプトの大学の“不正卒業証書”を多数作成し、1枚500クウェートディナール(約18万円)で売っていたエジプトの高等教育・科学研究省の職員2人とクウェート人1人がクウェートの刑事裁判所から2年間の保護観察処分類似の判決を受けた。

(参考記事)https://www.arabtimesonline.com/news/two-egyptians-kuwaiti-indicted-in-fake-degrees-case/

 まだある。2019年には、カイロ教育局のパフォーマンス評価フォローアップ・調整部のディレクター(部長)が自分自身のアイン・シャムス大学教育学部の博士号を偽造していたことが発覚し、検察の捜査を受け、起訴される見通しであると報じられた。

アラビア語ニュースサイト)
https://www.youm7.com/story/2019/8/6/%D8%A5%D8%AD%D8%A7%D9%84%D8%A9-%D9%85%D8%AF%D9%8A%D8%B1-%D8%A7%D9%84%D8%AA%D9%86%D8%B3%D9%8A%D9%82-%D8%A8%D9%80-%D8%AA%D8%B9%D9%84%D9%8A%D9%85-%D8%A7%D9%84%D9%82%D8%A7%D9%87%D8%B1%D8%A9-%D9%84%D9%84%D9%85%D8%AD%D8%A7%D9%83%D9%85%D8%A9-%D8%A8%D8%AA%D9%87%D9%85%D8%A9-%D8%AA%D8%B2%D9%88%D9%8A%D8%B1-%D8%B4%D9%87%D8%A7%D8%AF%D8%A9/4364570

 

腐敗指数が高いエジプト

 ドイツにある腐敗(特に汚職)問題に取り組む国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」が1995年から毎年発表している「腐敗認識指数(The Corruption Perception Index)」の2018年版では、エジプトは世界180カ国中105位(ランキングが低いほど腐敗がひどい)。ブラジル、コートジボワールエルサルバドル東ティモールザンビア等と同順位である。

 1位(最も汚職が少ない)はデンマーク、日本は18位、フランスは21位、米国は22位、中国は87位である。36~38位には、筆者が金融マン時代に汚職を見聞きしたスロベニアキプロスリトアニアなどが並んでいるので、ごく大雑把に言って、大学の証書がそのまま信じられるのは30位くらいまでではないだろうか。

“不正卒業証書”を持っていても、学位として認められないのは当然である。

 学位とは何かということに関し、以前JBpressで東大の伊東乾准教授が「村上春樹の無自覚な不正学位取得会見が示す病根」という記事で分かりやすく述べている。村上氏が母校の早稲田大学での記者会見で「当時の話ですが、フランス文学に安堂信也さんという、翻訳でも有名な方がいまして、彼のラシーヌ(17世紀の劇作家)の講義を取っていました」「授業には出ませんでしたが、出ないと卒業できない。授業に出られない事情を説明したら、『じゃあ、君の店に一度行ってみよう』ということで、(ジャズ喫茶のあった)東京の国分寺に来てくれた」「で、店を見て、『君もいろいろ大変だなあ』って、スッと単位をくれた。いい人でしたね。ラシーヌなんて、1行も読んだことなかったけど」と話した。

 その内容に対して伊東氏は、「これは単位の不正取得そのもので、安堂信也教授は、現在であれば何らかの処分を免れません。不正に取得した単位で卒業したと称している本人の卒業証書は当然返納、卒業資格は剥奪が妥当な内容でしょう」「例えば、米ハーバード大学マサチューセッツ工科大学、英ケンブリッジ大学で、自分が取得した単位や卒論が、本来の水準に達していないのに、教員が不正に合格させた事実を大学当局同席の場で公表したら、どういうことになるでしょう? 不正採点を行った教員は、当然責任を問われ、また取得した不正単位は剥奪、卒業証書は返還し、卒業資格停止が妥当な判断に一点の疑いもありません」と指摘している。

 

(参考記事)村上春樹の無自覚な不正学位取得会見が示す病根
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/54648

 エジプトの国立大学の“不正卒業証書”は、村上春樹氏のケースどころではない不正である。あらためて繰り返すが、不正卒業証書を持っていたからといって、学位としては認められない。これは当然のことである。

徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈4〉

「不正入学」というもう一つの疑惑
2020.1.15(水)黒木 亮
     
昨年9月、楽天ファッションウィークのレセプションパーティーに登場した小池百合子東京都知事(写真:つのだよしお/アフロ)
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(黒木 亮:作家)

 

 これまでたびたび週刊誌などでも取り上げられながら、決定的な証拠を突き付けるまでには至らなかった小池百合子東京都知事の「学歴詐称疑惑」。アラビア語やエジプト事情に疎い日本のメディアは小池氏の学歴詐称疑惑の追及に消極的で、このままでは、この疑惑は、永遠に疑惑のまま終わってしまうかもしれない。

 小池氏の「お使い」レベルのアラビア語を聞けば、カイロ大学卒業という学歴は即座におかしいと分かる。筆者はアラビア語を学び、エジプトの大学(カイロ・アメリカン大学大学院中東研究科)を卒業した者の責務として、複数回の現地取材を含む調査で疑惑を徹底検証した。その結果、小池氏がカイロ大学の卒業要件を満たして卒業したという証拠、印象、片鱗は何一つ見出せなかった。

 これまで他のメディアが報じてこなかった小池氏の「学歴詐称」を徹底検証するレポートの第4弾をお届けする。

(前回記事はこちら)
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈3〉 エジプトで横行する「不正卒業証書」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58857

編入に厳格な規定を設けるエジプトの国立大学

 小池氏は著書などで1972年10月に1年生としてカイロ大学に入学したとしている。しかし、石井妙子氏による『小池百合子「虚飾の履歴書」』(「文藝春秋」2018年7月号、以下『虚飾の履歴書』)では同居女性が、「小池氏が入学したのは1973年10月で、2年生への編入だった。小池氏は『父がハーテム氏(筆者注・当時エジプト副首相兼文化・情報相)に関西学院の数ヶ月間とカイロ・アメリカン大学の数ヶ月間を足して1年間とみなしてくれと頼んで認められ、授業料も入学金も無料になった』と喜んでいた」と証言している。これは同居女性の1972年11月19日付の手紙に綴られているそうである。

『虚飾の履歴書』では、当時別の大学に通っていた日本人女性も小池氏が1973年10月にカイロ大学の2年に編入したことに驚いたと書かれており、筆者が取材した複数のカイロ大学の日本人卒業生も小池氏が2年に編入したことを記憶していた。

 カイロ大学を含むエジプトの国立大学への編入に関しては、厳格なルールが設けられている。編入をするには、エジプトの国立大学のカリキュラムと同等の内容・時間数で他大学で単位を取得し、かつ一定以上の成績を得ていることが必要である。この点はカイロ大学のCentral Transfers Office(中央編入事務所)で確認を取った。2016-17年度の場合は、工学部と医学部の場合は他大学でイムティヤーズ(excellent)以上、実務系学部の場合はジャイイド・ジッダン(very good)以上、理論系学部の場合はジャイイド(good)以上の成績を取っていることが必要である。

 

 また前述のジャーナリスト、ダリヤ・シェブル氏に確かめたところ「国立大学と私立大学はまったく別の体系で、カイロ・アメリカン大学で仮に10年間勉強し、単位を取得しても、カイロ大学では1年生から始めなくてはならない。これがエジプトの法律である」という答えだった。他大学で1年も終えていない(単位を取得していない)人間が編入を許されることはまったくあり得ない。

 小池氏は関西学院大学には最大で半年程度しか通っておらず、小池氏が籍を置いたカイロ・アメリカン大学のCASAは単なる語学学校で、単位や学位を取得することはできない。もし多くの日本人が証言するように実際に小池氏が1973年に2年生に編入していたとすれば、それ自体が不正編入以外の何物でもない。それは、最初から卒業資格がなかったことを意味する。

入学資格の有無について小池氏は無回答

 米国では2019年に、有名人などが自分の子供のSAT(大学進学適性試験)の点数を上げて、有名大学に不正入学させる組織に対し、チャリティを装って賄賂を払った事件で51人が起訴されるという事件が起きた。そのうちの1人でテレビドラマ『デスパレートな妻たち』に出演した女優のフェリシティ・ハフマンは14日間の実刑判決を受け、去る10月にカリフォルニア州の女性刑務所に収監された。ハフマンの娘ソフィアは大学には入学しておらず、SATを再受験するようだと報道されている。スタンフォード大学は同組織に親が650万ドル(約7億円)を支払い、スポーツ推薦枠を悪用して入学しようとした中国人学生を、提出書類に不正があったとして退学処分にした。

 エジプトの国立大学への編入条件をまったく満たしていないと思われる小池氏に対して、入学したのは1972年か1973年か質問状を送ったが、回答はなかった(小池氏への質問と回答の全文は第6回に掲載予定)。

 なおカイロ大学はアラブ世界では名門の大学で、医学部、工学部、政経学部などには優秀なエジプト人学生が多い。ただし世界的な評価はさほど高くはない。

 英国のQuacquarelli Symonds社が発表している世界大学ランキング(QS World University Rankings)の2020年版では世界521~530位、エジプト国内では2位で、熊本大学長崎大学と同程度である。エジプトの1位はカイロ・アメリカン大学(私立・米国系)で世界395位(神戸大学と同順位)、3位はアイン・シャムス大学、アレキサンドリア大学、アシュート大学(いずれも国立)で世界801~1000位である。

アブドル・カーデル・ハーテム氏とのコネ

『虚飾の履歴書』には、小池氏の「不正入学」に手を貸したエジプト人の大物政治家の名前が出ている。同居女性は小池氏がエジプトの有力政治家だったアブドル・カーデル・ハーテム氏のコネでカイロ大学の2年生に編入したと証言している。

 ハーテム氏は1917年アレキサンドリア生まれ。士官学校カイロ大学ロンドン大学を卒業し、ナセル中佐(当時)が主導した自由将校団の若手メンバーとして1952年のエジプト革命(王政打倒クーデターで、翌年共和制に移行)に参画した。

 1957年に国民議会議員、大統領府副大臣、1959年にラジオ・テレビ担当国務相、1962年に文化相、国民指導・観光相、1971年に副首相兼文化・情報相となり、その後は長らく国民評議会(上院に相当)議長とエジプト・日本友好協会会長を務め、2015年に97歳で没した。

 1974年2月(当時は文化情報担当副首相)には公賓として来日し、田中角栄首相、三木武夫副首相と会談し、宮中で天皇陛下に拝謁した。1982年には日本政府から勲一等旭日大綬章を授与されている。

 1974年のハーテム氏の来日に際し、和田力駐エジプト大使は外務大臣に宛てた公電で「最近のエジプト政局の動きの結果、従来から実際上首相を代行して来たハーテム副首相の地位が一層強化されたことはる次(筆者注・たびたび)報告の通りであるが、副首相たる立場で今般6名の報道関係者を伴って日本を訪問することは、エジプトとしては全く異例であって、同副首相の国内政治勢力如実に示すものであるし、また上記の通り同副首相がこの訪問を如何に重視しているかを示す証左でもある」と述べている。

 2016年にカイロで出版されたハーテム氏のアラビア語の伝記『アブドル・カーデル・ハーテムの日記-10月戦争政府の首班』(著者はエジプト人ジャーナリストのイブラヒム・アブドル・アジーズ氏、邦訳未出版)には、「エジプトのための日本との友好」の箇所に、ハーテム氏は中曽根康弘氏と1954年以来親交があり、中曽根氏から友人の娘であるとして当時学生だった小池百合子氏を紹介され、面倒を見ていたこと、小池氏がハーテム氏をGod fatherとか心の父と呼んでいたこと、小池氏に毎月14エジプト・ポンドの小遣いをやっていたことなどが記されている(小池氏は『振り袖、ピラミッドを登る』の250ページに、エジプト政府から毎月12ポンドの奨学金を受けていたと書いている)。

中曽根康弘氏(左)とハーテム氏
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 一方、小池氏の著書『おんなの人脈づくり』(昭和60年刊)には、自分の父(小池勇二郎氏)が中曽根氏を昔から知っており、自分自身は小学生の頃くらいに中曽根氏と初めて会い、当時、毎年冬に中曽根氏から群馬の白ネギがどさっと送られてきて兄と食べたことが書かれている。

 1973年10月6日、エジプト・シリア両軍が第3次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領された領土の奪還を目指し、スエズ運河ゴラン高原に展開するイスラエル軍に攻撃を開始したことで、第4次中東戦争が勃発した。

 エジプトを支援するOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油価格を1.4倍に引き上げたため、第1次石油危機が発生。彼らに「非友好国」とされた日本は石油供給量削減措置を受け、経済危機に陥った。政府は三木武夫副首相、小坂善太郎元外相らをサウジアラビア、エジプト、アルジェリアに派遣し、日本を「友好国」に変えるよう訴えて歩いた(いわゆる「油乞い外交」)。

そしてアラブの盟主であるエジプト(アラブ連盟の本部はカイロにあり、ナセル時代(大統領在位1956~70年)以来、エジプトはアラブ民族主義の象徴的存在だった)に頼り、中東産油国との関係改善を図ろうとした。

 エジプト政府の方も、1972年にソ連顧問団を追放し、親米路線へと大きく舵を切ったものの、「インフィターハ」(門戸開放政策)で貧富の差の拡大、インフレ昂進、対外債務増大に苦しんでいた。

エジプトの対日窓口を牛耳ったハーテム氏

 こうした苦境の中、新たな資金源として期待したのが日本だった。そして対日窓口となり、一手に日本関係を牛耳ったのがハーテム氏である。

 前述の和田力駐エジプト大使の公電には「ハーテム副首相は10数年前から日本に対しては多大の親近感をいだいており(現に日埃(筆者注・埃=エジプト)友好協会会長を務めている)、日本とエジプトとの友好関係の促進を念願としており、個人的にもこの日本との密接なる関係を政治的資産として生かしてゆきたいと考えて居り、いわばその政治生活を一貫して「日本にかけ」て来た人物であり」と記されている。

 和田大使から外務大臣宛の別の公電(1974年1月29日付)では、和田大使と面談したハーテム氏が「三木副総理の御尽力により借款金額が1億ドルに達したことは感謝にたえない。日本政府、特に三木総理には自分からの深甚なる謝意をご伝達いただきたい。早速大統領(筆者注・サダト)に報告するが、大統領も非常に喜ばれることは疑いなく、自分としてもこれで大統領に対しても顔が立つ」と述べたことが記されている。

 前述のハーテム氏の伝記には、自分の政治的業績として、第4次中東戦争以降、スエズ運河再開、オペラハウス建設、小児科病院建設、製鉄会社建設の4件のプロジェクトを中曽根氏に依頼し、日本から20年間にわたって4億ドルの借款を引き出すことに成功したこと、7回訪日し、天皇陛下から勲章をもらったことなどが書かれている。

ハーテム氏の伝記の筆者イブラヒム・アブドル・アジーズ氏(左)と筆者
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 さらに1989年2月1日付の読売新聞では、ハーテム氏自身が1974年に天皇陛下に拝謁した際のエピソードとして次のような秘話を披露している。

オイルショック当時、当時の三木副首相がカイロの私の家にやってきて、アラブ産油国による対日石油禁輸に伴なう日本の深刻な窮状について話した。そこで私は24時間の猶予を求め、その間サウジアラビアのファイサル国王(故人)に電話、日本は友好国だから、ブラックリストから外してほしいと訴えた。国王はエジプトのいうことならと理解してくれて、輸出を再開するよう早速、命令を出すと約束してくれた。陛下は三木さんと私のこのやりとりを十分知っておられたようで、開口一番、『国民に代わってお礼申し上げたい』とおっしゃった」

 要するにハーテム氏は、日本とエジプトの友好関係、経済関係の発展に深く関わり続けて来た大物で、日本の総理大臣とも親交を持つどころか、天皇陛下への謁見を許され、さらには感謝の言葉をいただくほどの人物ということだ。

 エジプト政府の中でカイロ大学を管轄しているのは高等教育・科学研究省で、小池氏が卒業したとしている1976年当時の大臣はエジプトの著名政治家であるムスタファ・カマル・ヘルミー(1976年3月から1978年10月まで高等教育・科学研究相)だった。ハーテム氏とヘルミー氏はともにサダト大統領の側近で、お互いに近い関係にあった。また当時の学長のスーフィー・アブ・ターリブ氏は1978年に国会議長となり、1981年にサダト大統領が暗殺された直後には臨時大統領代行を務めた人物で、やはりサダト大統領に近い人物である。こういうインナー・サークルが協力すれば、“不正卒業証書”を出すのは簡単である。

古代美術品や副葬品を海外要人に贈呈しまくったサダト大統領

 ナセル、サダト両大統領の政策立案に参画し、国民指導相、情報相などを歴任し、アラブの声と言われた全国紙『アル・アハラーム』の編集長も務めた著名作家ムハンマド・ヘイカル氏の著書『サダト暗殺』(1983年刊)には、サダト大統領がカイロ博物館や古代局の保管室から古代美術品や副葬品を大量に持ち出し、外国の政治家などにプレゼントし、莫大な国富を流出させたことが書かれている。

 ユーゴのチトー大統領に高さ47.5cmのホルス(天空と太陽の神で頭部は鷹)の像、ソ連のブレジネフ書記長に高さ22cmのイシス(エジプト神話の女神)と乳児ホルスの像、イラン王妃に宝石のネックレス、イランのシャー(国王)にトート(知恵の神でトキかヒヒの姿)の銅像、シャーの娘婿にオシリス(生産の神で王冠をかぶった男性)の像、ヘンリー・キッシンジャーにトートの像、ニクソン米大統領夫人に23個の金と17個の宝石のネックレス、ニクソン大統領に宝石を象嵌したイシスの銅像ギリシャのオナシスに大理石の壺、ジスカールデスタン仏大統領に高さ34cmの木製のトート像(頭と足は銅製)、1975年のヨーロッパ、米国訪問の際には長さ65cmと57cmの宝石のネックレス2つ、木製のトート像(尾と足は銅製)20個をプレゼントして歩いた。

 さらにメキシコ大統領夫人には高さ23cmの木と銅製のトート像、フィリピンのマルコス大統領夫人には高さ41cmのトート像。1976年8月には高さ114cmの高価な像12個、オシリス銅像とサッカラ出土の雄牛像を含む別の12個を古代局の保管室から持ち出し、同年11月には、イラン王妃にネフェルティティが所有していた長さ64cmの金のペンダント付きネックレスなどをプレゼントした。

 これらはすべて古美術品や副葬品で、『サダト暗殺』にはこれ以上の例が記されており、現在の金額に換算して数千億円は下らないと思われる。これに比べれば、カイロ大学の卒業証書の100枚や200枚くらい、どうといこともないだろう。

サダト暗殺』の中で著者ヘイカル氏は「サダト大統領の晩年の数年間くらい大々的で、組織的規模で略奪がなされた例はない。腐敗はエジプト社会の最上層部から底辺にまで広がった」「彼の外国政治家やその他に対する気前のよさは、目立った。そしてこれは、一方通行ではなかったはずだ。つまりサダトは、贈物の送り手だったと同時に、貰い手でもあった」と述べている。

 そして、エジプト航空ボーイング社から707型機を6機買い付ける際に、875万ドルがスイスの匿名口座に支払われたこと、イラン製のバスやスペイン製の鉄鋼を高価な価格で政府が買い付けたので国会議員が議会で取り上げようとしたりしたが、沈黙させられたこと、カイロの電話網の全面的改修や輸入価格を下回る価格でのセメントの輸出問題、カイロの地下鉄や原子力発電所に関する契約などでも似たような腐敗臭がしていたこと、息子がサダト大統領の娘と結婚したオスマン・アフマド・オスマン氏が所有する大手建設会社アラブ・コントラクターズ社が公共工事で莫大な利益を吸い上げていたことなどを列挙している。

 こうした腐敗と経済的疲弊に対する民衆の怒りが沸騰し、1977年1月、エジプト各地で暴動が発生、1981年9月、イスラム諸グループ、コプト教徒、野党勢力、知識人など1536人の逮捕という政府による大弾圧を経て、1981年10月6日、軍事パレード観覧中のサダト大統領が射殺されるという劇的な事件へとつながって行った。

 小池百合子氏が“卒業証書”を得たエジプトはこういう国で、「腐敗認識指数」105位という順位から見て、今も状況は大きく変わっていないと思われる。

ハーテム家と小池家の深く長い付き合い

 小池氏の父・勇二郎氏はハーテム氏のコネで事業をやろうと目論んでいたとカイロ大学の日本人卒業生の1人は指摘する。勇二郎氏は、中曽根康弘氏を知っており、(真偽のほどは別として)石原慎太郎氏などの有力政治家もよく知っていると吹聴していたので、ハーテム氏のほうも、勇二郎氏を日本との関係で利用したいと思っていたことは想像に難くない。

 現在カイロに住み、小池勇二郎氏をよく知る日本人男性は、1999年か2000年頃、当時埼玉県知事だった土屋義彦氏が娘の品子氏(現衆議院議員)や埼玉県職員など10名ほどの随員をともなってカイロを訪れた際に、市内にある「ディプロマティック・クラブ」で開かれた晩さん会で、小池勇二郎氏が「ハーテムとは旧知の仲なんだよ」と言い、ハーテム氏と親密に話をしているのを目撃し、それとは別の機会に2度ほどハーテム氏と会った際には、ハーテム氏が小池勇二郎氏に関して肯定的に話すのを聞いたという。

 ハーテム氏のほうも、ムバラク大統領になってからは政治の第一線を退いており、自分でビジネスをやるために勇二郎氏以外にも、様々な日本人に助力を依頼していた。前述のカイロ在住の日本人男性も、1998年か99年頃、ハーテム氏から直接電話を受け、話を聞きに行ったところ、電気製品か機械の日本での販売に関し、助力を依頼されたという。

 筆者は2018年9月にハーテム氏の息子であるターリク・ハーテム氏(カイロ・アメリカン大学の経営学の教授、日本エジプト友好協会会長)に会って話を聞いた。彼によれば、小池家とハーテム家との結びつきは長年にわたる強いもので、小池氏が1992年に政治家になってからも、勇二郎氏は時々カイロの高級住宅地ザマレクにある父ハーテム氏のもとを訪れていたそうである。

 2011年のエジプト革命の際には、百合子氏が父ハーテム氏に電話をかけてきて、同年、リビア訪問の際にスケジュールを調整してカイロに立ち寄ったと言う。ターリク氏自身、勇二郎氏が2013年に亡くなる直前に彼に会い、2015年に父ハーテム氏が死去したときは百合子氏に日本エジプト友好協会を続けるよう勧められ、2017年には日本の百合子氏の家を訪問したという。

 ハーテム氏と小池百合子氏はそれくらい親密な関係にあった。そして小池氏のエジプト留学時代、すでにハーテム氏は国内で絶大な権力を持っていた。国立大学の”不正卒業証書”がまかり通るエジプトでのことだ。その気になれば、入学資格のない異国の留学生を、一流国立大学の学部生に押し込んだり、“卒業証書”を与えることなど造作もないことだったに違いない。