パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

TCC講演会: 「 川喜田二郎とチベット」

テーマ : 「川喜田二郎チベット」
高山副会長とペマ・ギャルポ所長が語る“チベット二郎の思い”―

イメージ 1
1958年、故川喜田会長は団長として、河口慧海も通った道を辿りツァルカ(高度4250メートル)という チベット人村に住みこみ調査をしました。前半は、この大変貴重な記録映画『秘境ヒラマヤ』を上映し ます。また、当時調査隊に加わった高山副会長に、映画では語られていない秘話や解説をしていただき ます。後半は、高山先生の講演及びペマ所長と二人で“チベット二郎”と呼ばれた故川喜田会長の思い 出などを、語り合っていただきます。またチベット人留学生によるチベット料理もお楽しみ下さい。

に参加しました。
川喜多二郎先生はビジネス界では KJ法の問題解決法を提案され、ブレーンストーミングを通じて
発想を豊かにして、問題の本質を探り出す面白い 手法です。
この発想が 遠くチベットの地に入り、文化人類学の調査を行い、その結果をまとめるときに
使うようになり 発展されたことを聞き、非常にびっくりしました。

京大の調査隊を率いて 1958年、ネパールから ヒマラヤに接した秘境の チベット人部落に入り
そのときの調査を記録映画として 読売「秘境ヒマラヤ」として残し その当時河口慧海の歴史も話題

になり、広くチベットが知られる走りとなった、学術探検隊でした。

この映像では ラマ教としてチベット仏教と、ボン教を比較して紹介し、火葬,鳥葬、土葬なる
チベット式の風習も我々の世界に伝えた事でも、有名でした。

その当時(昭和33年)高度成長が始まるくらいで まだまだ戦後の様相は残していたころですが、
川喜多探検隊は ネパール、インド、チベット、中国の熱い動きの中で ヒマラヤに分け入って
折られたわけです。 もちろん チベットでは平和が乱され、あちらこちらに中国に対する
蜂起が始まり、 1959年3月には ダライ・ラマ法王の脱出と亡命政権の樹立があり、この探検隊は
その少し前の 冬が来る前にその地を去ったようです。

もちろん先生は戦前からこの辺の人文研究をなされておられたようですが 本日先生の研究の論文の中

に 温量指数(暖かさの指数)と アジア文明を位置ずけたものがあり、
イスラム、ヒンズー、中国、チベット と 中国とチベットの根本的な相違を述べられたものが
講演の中で 先生の研究の一つとして紹介されて折られました。

イメージ 2
イメージ 3
こんなにチベットを愛した川喜多先生が 最終的には「ネパール」にのみ研究が進んでいったのは その後の この地域の 政治バランスが不安定であったのも一因でしょが、 またその辺を 次回聞きたいと思っております。 ご存知の方は教えてください。