慶応2年、堺に 生まれた河口慧海は、明治33年幾多の困難を乗り越えつつ、ただ一人チベットに入国しました。 各国の言語や社会情勢を学び、また高地の気象・自然・医療を勉強した彼は、世界の屋根ヒマラヤを越え当時厳重な鎖国状態にあったチベットへ入ったのです。
慧海の目的は、仏教の源泉を尋ねることにあったのですが、日本 人として初めてのヒマラヤ踏破者となり、世界的に貴重な経典・仏像・民族資料・新発見17種を含む多数の高山植物標本をもたらすことになりました。これらの資料群は、彼が草分けとなった日本チベット学のみならず、他の学問の進歩にも多大な貢献を成したのです。 苦難の旅を綴った彼の「西蔵旅行記」は、チベット研究の第一級資料として今なお広く読まれ、国際的評価の高い文献になっています。
河口慧海像寄贈 堺ライオ ンズクラブ (碑の説明文より)
南海電鉄本線・七道駅前ロータリーにある 河口慧海の石像記念碑から<チベット>へのトリップ
若かりし頃の慧海・・・
このような格好でネパールを越えて厳しい鎖国政策をとっていたチベットに潜入したのです。
慧海は、仏教が日本に伝わって千年以上経つのに仏教を理解している人が少ないのは何故か?
それは日本に伝わっている仏教の経典が難しいからだ。漢訳経典であるため、
読んでもわからないのでは ないか?という思いを強くしたのです。
慧海の幼少期と得度などを含んだ仏教の修行を育んだ 生地 堺を訪れました。
街は十字の碁盤の目ように作られていますが、16世紀からの細い路地がそこにあり、慧海が生まれ育った環境は、家は変われども 何かしら感じられる街であった。
古い商家が残り、戦災でも焼けずに残った 七道の町であった。
こういう写真を並べると 中仙道とか
日光街道とかを思い浮かべるが、大阪のベッド
タウンであり 仁徳御陵など日本歴史のある時期
に脚光を浴びた堺である。大勢の外人が東京の
谷中に日本風情を求めてこられるが、関西空港
から「慧海の日記」の英訳を持って こられる方
も少なくないと聞く。 そう!私もその一人なのだ
堀に囲まれ(現在埋められている)その一帯に
存在する数多のお寺! 慧海を育んだはずだ。
堺では 生麦事件と同様な 土佐藩によるフランス人襲撃事件があり 土佐藩11人が切腹し日蓮宗妙国寺にて手厚く葬られているという、江戸時代末期 小栗上野介は幕府の方針で 横須賀に製鉄所、造船所を作り
江戸末期の文明開化を前にした西洋技術の導入をはかり、それをフランスに託した、
施設が完成したものの 財政に窮した幕府は フランスとトラブルになり、施設を占拠されることになり、
結局支払いを済ませ事なきを得た、しかしこれを含めた江戸末期の幕府の財政を問われて 小栗上野介は
明治政府に処刑されるが、堺事件はそのころの 日本とフランスとの関係の一頁なんであろう。
横須賀の米軍接収のドックの全面補修を20数年前に率いた筆者には 何かこのころから チベットへ導かれ始めていたのかもしれない、 合掌
堺には明治以前にもこのような歴史があり 横浜、神戸などと違った育み方があったのでしょう。