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「内燃化」する?中国の民主化運動 人権活動家の馮正虎氏



「内燃化」する?中国の民主化運動 

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中国・上海の自宅前で、外国メディアの取材に応じる人権活動家の馮正虎氏。中国当局から帰国を拒否され、成田空港で約3カ月間寝泊まりを続けた=2010年2月12日

 

貼り付け元  <http://www.jiji.com/jc/v?p=toa_contents_000101&rel=y&g=phl>

 

 大江志伸(江戸川大学教授)

時事通信社】 中国の温家宝総理が第十一期全国人民代表大会第三回会議で行った政府活動報告は、経済発展モデルの転換などを通して格差是正に取り組む方針を強く打ち出した。経済と並ぶもう一つの注目点である政治体制改革については触れなかった。だが、その足元では、民主化、人権運動の「内燃化」とも呼ぶべき 動きが出ている。 さる二月十二日、 一人の中国人男性が成田空港から、 上海の自宅に帰着した。 中国の人権活動家、 馮正虎氏、五十五歳。 ほぼ一年ぶりの我が家だった。 馮氏は一九八九年の天安門事件で武力弾圧を批判する声明を出し、 中国企業発展研究所所長の職を追われた。

 以後、 民主化や人権活動を続けてきた馮氏は、 二〇〇九年二月、 市民の陳情に同行した北京で拘束され、 国外に出ることを条件に釈放される。

 一橋大学大学院への留学経験があり、 実妹が日本人と結婚し千葉県に在住しているため、 馮氏は出国先に日本を選んだ。中国政府の締め付けがピークとなる天安門事件二十周年 (六月四日) が過ぎるのを待って帰国の途に就いたが、 上海の空港で入国を拒否される。 以来、八回帰国を試みるも、 その都度、 強制的に日本行きの飛行機に乗せられる追放措置が繰り返された。

 馮氏は中国政府に抗議するため、 日本に入国せず、 二〇〇九年十一月から成田空港・入国審査前の制限エリアで寝泊りする 「籠城」 行動に出る。その間約三カ月、 携帯電話を使ったミニブログ発信や一般紙の報道を通じ、 籠城への関心と支援の輪が徐々に広まり、これが馮氏の帰国実現を後押しする結果につながったといえる。

 中国大陸では、 共産党政権に対する様々な抵抗・抗議運動が日夜繰り返されている。 馮氏の 「籠城」 行動は舞台が日中両国にまたがり、一部国内紙が報道したことで、 世人の知るところとなった。 その点、 九牛の一毛かもしれないが、 執拗な妨害をはねのけ帰国した馮氏の行動は、中国国内における新たな政治潮流を示す一例であることは間違いない。

 奇しくも、 馮氏が帰国を果たした前日の二月十一日、 国際社会が注視する中、 反体制作家、 劉暁波氏の控訴審判決が北京市高級人民法院 (高裁)であり、 懲役十一年、 政治権利剥奪二年が確定した。 劉氏の罪状は国家政権転覆扇動罪だった。 二〇〇八年末、 劉氏が起草しネット上で発表した 「〇八憲章」や六件の論文で、 中国共産党一党独裁を批判し、 「中華連邦共和国の建設」 を訴えたことが、 同罪に当たるとされている。

 劉氏は、 一九八〇年代、 気鋭の評論活動で頭角を現した。 米国の大学で研究生活を送っていた八九年、天安門事件が起きるや帰国して学生らの運動に参加。 一年八カ月の獄中生活の後、 言論活動を通じ中国の民主化を訴え続けてきた経歴は周知の通りだ。影響力の拡大に手を焼いた当局は、 海外出国を働きかけたが、 劉氏は 「あくまで国内にとどまり、 体制批判を続ける」 との姿勢を崩さなかった、 と伝えられる。今回の重刑確定は、 当局の抵抗封じであるとともに、 劉氏自身にとっては、 徹底抗戦の延長であり、 覚悟の入獄だったといえる。

 中国の主だった民主化・人権活動家は、 天安門事件に関与した学生や在米ウイグル人ラビア・カーディルさんのように、弾圧を受けて国外に脱出するか、 亡命に追い込まれるケースが多かった。 共産党政権が国際批判をかわすため、 「釈放」 「出国」を外交カードに利用した事例も多い。

 帰国に踏み切り人権活動の再開を宣言した馮氏、 信念に従って泰然と獄についた劉氏。 二人の行動は、 「出国」という形で厄介な異分子を除去してきた当局の古典的手法に真っ向から挑戦するものだ。 天安門事件後に米国移住した元学生組織幹部、 周勇軍氏のように、拘束覚悟で民主活動家が帰国するケースも出始めている。 中国の民主化運動の 「内燃化」 と形容できる新たな潮流を感じさせる。

 「内燃化」 には様々な事情があろうが、 最大の要因はやはりネット社会の急拡大だろう。 前述したように、馮氏は携帯電話を使ったミニブログの情報発信で支援の輪を広げていった。 劉氏がネット上で発表した 「〇八憲章」 は、当局の規制にもかかわらず瞬時に中国内外に流れた。 当初、 作家、 学者ら三百人強だった賛同署名者は一万人前後に達したという。 国内にとどまり、世論形成の最大の武器に育ったネットを通じて主張を広げ、 政治、 社会の変革を迫る--。 劉氏の計算がそうなら、 現時点ではかなりの部分達成したことになる。

 この 「内燃化」 の潮流が奔流となり、 変革への呼び水となるのかどうか。 展望は不透明だ。 サイバー言論の空間拡大に比べ、 現実社会では、抑圧、 分断、 懐柔という旧態依然の手法で異議申し立てが封じられる状態が続いているからだ。 劉氏のケースを見ても、 懲役十一年という重刑で抑圧して、賛同者と分断し、 劉氏以外の憲章起草者らは拘束せず、 事態拡大の防止と懐柔を図る狙いが透けてくる。 上海に帰還した馮氏も、 厳しい環境下での活動となろう。その困難さは容易に想像できる。 というのは、 筆者自身、 読売新聞記者として北京に駐在していた時、 心ならずも中国の情報機関、 国家安全部と 「対峙」した経験があるからだ。 事件を報じた一九九八年十月七日付、 『読売新聞』 記事の一部を紹介しよう。

 「中国の北京市国家安全局はこのほど、読売新聞中国総局・北京支局記者 (39) の取材活動に違法な点があったとして、 国外退去を通告、同記者は六日、 日航機で帰国した。 同記者は先月二十七日、 国家安全局に同行を求められ、 事情聴取を受けるとともに支局などの捜索で所持品を押収され、この後二十八日、 今月四日にも取り調べを受けた。 調べの過程で、 当局は押収された資料の中に 『国家機密』 とする文書があるとし、その所持は国家安全法に違反すると指摘した。 中国当局は取材源を明かすよう繰り返し要求したが、 同記者は一貫して供述を拒否した」。

 当時、 総局長だった筆者は、 捜索の立ち会い、 事情聴取手続きの確認、 国家安全局や中国外交部への抗議に追われた。そして最も神経を使ったのが同僚記者とその家族、 筆者自身の 「身体の安全」 だった。

 「記者の行動は通常の取材活動の範囲内だった」 (読売新聞編集局長談話) にもかかわらず、取材源を頑として明かさない記者に対する取り調べは苛酷なものだった。 国際基準である母国語での供述すら認めなかった。 記者や筆者は二十四時間態勢で監視され、眼光鋭い屈強な安全部員が周囲を取り巻くなどの 「圧迫尾行」 を繰り返された。 深夜の睡眠妨害もあった。 記者の退去後は、帰国準備中の家族に執拗な嫌がらせが続いた。

 中国国内の民主化、 人権活動家や批判勢力に対する 「力の行使」 は、 さらに苛酷なものだろう。 多様な抗議行動の多発は、抑圧される人々の量産を意味する。 しかも、 当局の弾圧を逃れ、 出国するケースは極めて稀だ。 共産党政権は、 「内燃化」する民主化運動のシリンダー内エネルギーを自ら蓄積していることを直視すべきだ。

 共産党政権が準備を進める 「ネット実名制」 や言論統制の強化では、 真の安定は得られまい。 国力伸張目覚しい今こそ、政治改革論議を着実に進める好機であるはずだ。

 

貼り付け元  <http://jp.f37.mail.yahoo.co.jp/ym/ShowLetter?MsgId=498_4282762_190923_2361_12259_0_3796_44906_4278604778&Idx=1&YY=90026&inc=25&order=down&sort=date&pos=0&view=a&head=b&box=Inbox>