ウイグルの農業使節団なのか中国の農業視察団なのか?
生産建設兵団 の関係であれば これは
中国版「屯田兵」なのである彼らの存在が ウイグル人に 暗い影を与えているという事を知らない日本人が多い。
「ウイグル人農民がニコニコしてぶどうの収穫」等 NHKや民放の映像は果たして本物であろうか?
新華社通信が同居するNHKが本当の中国ことを伝えられるのか?
この熊本の記事も中味が知りたい。
「一村一品学びたい」 ウイグル研修団来社
貼り付け元 <http://www.oita-press.co.jp/localNews/2011_129539927178.html>
貼り付け元 <http://kok2.no-blog.jp/tengri/2005/08/post_e2c8_1.html>
兵団は自身の行政機構をもち、管轄内の厚生、教育といった政府機能を満たしている。新疆政府はたいていはこれらの地域の行政を干渉することはない。明言されている新疆生産建設兵団の目標は辺境地域の開発、経済開発の促進、社会の安定と調和の保証、及び東トルキスタン独立運動への対抗である。50年のその歴史の中で兵団は農場、町、都市を建設し、何百万もの移住者(多くは漢人)を新疆に定住させた。
「中国の屯田システムの流れを汲む兵団はゆえに辺境地域にあって食料自給自足であった。黒龍江省、内蒙古自治区、新疆を含む人口希薄なフロンティア地域に設置された。(注:朝日新聞でコラムを書き、流沙の塔の解説もした、ジャーナリストの莫邦富は黒龍江省の兵団にいたようだ。)新しく建国した中華人民共和国は長年経済生産から遠ざかっていた非共産軍の兵士をどう扱うかという問題を抱えていた。中国政府はそれで新疆生産建設兵団を共産党第一野戦軍、国民党軍、イリ国軍(東トルキスタン共和国軍)(!)により構成した。新疆生産建設兵団は1954年に設立され175000人の要員であった。
兵員は男女構成比のバランスが取られ比較的高学歴である、中国の他の地域からの若者によって構成されていた。1962年にイーニン(クルジャ)で暴動がおこり、何千人もの難民がソ連に向かったときの危機は中国政府に多くの人員や資源を新疆建設兵団に転換せしめた。1966年までに新疆建設兵団の兵員数は148万人になった。
1980年代に新疆は再び、民族的、宗教的闘争、ウイグル独立運動及びソビエトの包囲のプレッシャーを感じるようになった。1981年新疆生産建設兵団は再構築され、その明確な目的はフロンティア地域の農耕や経済開発と同様に東トルキスタン独立運動、イスラム原理主義、ソビエトの包囲に対決することとなっ た。」
貼り付け元 <http://kok2.no-blog.jp/tengri/2005/08/post_e2c8_1.html>