御通行中のみなさん こちらはチベット支援のパルデンの会と申します。
ただいま「パンダはチベットの動物であり、中国の動物ではない」 との主張を皆さんにお伝えしております。
現在チベットと言うと 「チベット自治区」が皆様の理解だと思いますが、もともと1959年に ダライ・ラマ法王がインドに亡命されるまでは、 チベットは独立国で 現在の 四川省、青海省、雲南省、甘粛省の全部あるいは一部が自治区以外に 中国政府に侵略され 占領され、領土に組み込まれております。
中国共産党政権の出来たあと 1950年より侵略は始まり1959年には チベット領土がすべて中国に組み込まれました。 1950年の初頭から チベットの東の端が侵略され、四川省、甘粛省の一部として組み込まれ、その区域高地部分とは実は パンダの成育区域でした。 中国軍が進入後 チベットの山に生えていた豊富な森林を瞬く間に切り倒し、中国沿岸部に資源として持ちり、その跡地も 豊富な地下資源の収奪をおこない、自然に満ちた地が、荒地になり下がり、1960年代には、山の保水量が減り、洪水、山崩れが頻繁に起きるようになり、パンダの生育地やパンダの移動道は消滅してしまいました。
それ以上に問題は 度重なる乱開発のため 植生がかわり パンダの成育に不可欠な『 竹 』の生育も阻害され、パンダの飢えがはじまりました。 パンダの絶滅機具種とされた理由は、環境の変化と 食料の枯渇が大きな原因となっております。
パンダの絶滅の危機は 中国そのものの 自然に対する乱開発が理由なのです。
そこで 国連が絶滅危惧種として登録して 種の保存をはじめたわけですが、同時期においては中国国内において 毛沢東末期の 『文化革命』がはげしく行われ、チベットにおいては 中国の支配に反対する人々、中国政府にたてつく人、宗教(チベット仏教)に従事する人たちが 大量に刑務所や 労働改造所とよばれる強制収用所に放り込まれ たくさんのチベット人 老若男女が死亡したといわれています。
死亡原因は所内の日常的な暴力と その時代中国全土に広がった『文化革命』でおきた 急進の社会変革が
日本国内でチベット支援として有名な 桐蔭大学のペマ・ギャルボ先生は この辺の出身です。
ましたが、その動きはすべて 竹のカーテンの裏に隠されて弾圧は進み、現在までチベットは
人権を阻害されて 言葉も、宗教も、文化も奪われて 90年代、2000年へと時間は過ぎてきております。インドに亡命政権を樹立した ダライ・ラマ法王が 平和主義を唱えて1989年にノーベル平和賞を受賞し中国との間で チベット人の人権を守り 高度の自治を目指した 中道政治を提唱しましたが、チベット人の人権はいまだ変わらず、逆に 2008年 オリンピック開催以降は 弾圧も激しくなっています。
ヨーロッパオリンピック委員会に約束するも 守られず オリンピック前に
ダライ・ラマ法王は 早くこの状況を終わらせるため、この春に チベットの政治から身を引き、仏教の代表者としてのみ活動し、チベットを 議会制民主主義の国として 亡命政権と中国国内チベット人地域が一体となり 分離・独立という原則を放棄した事を宣言していますが、まったく対応をしていない中国共産党政府です。今ではダライ・ラマ法王を「分離主義者」と呼ぶようになり、他国がチベット問題に言及した場合には「内政干渉」だと批判している現状があります。
12人の僧侶たちが 体に ガソリンをかぶり、口にガソリンを含んで 自ら 火をつけて抗議の灯明と
なって、全世界に衝撃をあたえました。 日本でも報道はされていますが、あまり大きく伝えられて折らず、また焼身自殺という「自殺」ということばで中国に遠慮した報道となっていることは恥ずかしいことです。
守るための身を使った 「攻撃手段そのものかもしれません」
本当に 悔しい、残念な 焼身抗議がおきているわけです。
6人の死亡は確認されていますが そのほかの僧侶たちの生死、状態はすべて中国政府によって
隠蔽されています。
このパンダ園にはたくさんの日本人が観光で訪れ、たくさんの外貨をパンダ園や周囲の観光地で落としていますが、訪れている日本人には チベット人の悲劇や チベットの現状や パンダがなぜ絶滅危惧種になったのかまったご存知ないのが実情です。
1970年代の 田中首相の 日中国交 以降 中国側の悪い情報は日本人に伝えない政府や、学校の先生
と言った 反日の人々によって歴史や史実が書き換えられ、真実の情報は隠されてきました。