December 4, 2012
中国の
チベット族居住区で、
中国共産党の高圧的政策に抗議して
焼身自殺を図った
チベット族は、2009年以来、80人以上にのぼる。その1人が3月26日、自らに火を放った27歳の男性ジャンフェル・エシ(Jamphel Yeshi)さんだ。
焼身自殺を決意したジャンフェル・エシさんは、インド、デリーの北はずれにあるチベット難民の居住区マジュヌ・カ・ティラ(Majnu ka Tilla)に暮らしていた。居住区ができたのは1963年、最高指導者ダライ・ラマ14世が中国軍の侵攻から逃れてインドに亡命した4年後のことだ。
エシさんは友人たちからジャシ(Jashi)と呼ばれ、窓のないワンルームのアパートにチベット族男性4人と暮らしていた。彼のマットレスは今も、ダライ・ラマなどの高僧のポスターが貼られた一角にある。ほかの4人の寝床とともにU字形に配置され、薄い戸棚には所有していた本の多くが残り、仏教やチベットの政治、歴史の本など、手垢が付くほど読み込まれている。
焼身自殺する前夜、ジャシは陽気に振る舞っていた。マジュヌ・カ・ティラから500キロ弱離れたダラムサラの友人2人が訪ねてきていたからだ。インドのダラムサラにはダライ・ラマが住み、チベット亡命政府の拠点でもある。
その夜集まった7人の若い男たちの話題は、中国の国家主席、胡錦濤氏のインド訪問、そして翌日に首都デリーの繁華街で行われる中国共産党統治への抗議行動についてだった。
翌朝、ジャシはいつものようにルームメイトたちより早く起きた。まず、マジュヌ・カ・ティラの仏教寺院に行き、参拝者に茶を出す仕事を手伝った。部屋に戻ると、小さなバックパックと大きなチベットの旗を手に取った。そして毛布をきちんと畳み、まるで祭壇に供えるように、ダライ・ラマの本とチベットの歴史の本をのせた後、抗議行動の参加者を運ぶ5台のバスのうち1台に乗り込んだ。
バスには、近所の友人ケルサン・ドルマ(Kelsang Dolma)さんが乗っていた。2011年3月以降、チベットで前例がないほど頻発している焼身自殺について皆が話している。今日の抗議行動でも焼身自殺するチベット族が現れるかどうか、話題は集中する。ドルマさんはジャシが背負うバックパックを軽くたたき、「これはガソリン? 火をつけるなよ!」と冗談を言う。
ジャシはにっこり笑った。
抗議行動の会場まであと数キロの場所でバスは停車した。デモ行進には、チベット族の大義への関心を集める狙いがある。参加者たちには、主催者がペットボトル入りの水を配っている。参加者の多くが付けているピンバッジには、胡錦濤氏の顔と血まみれの手が重なるように描かれていた。
インド人による抗議行動が日常的に行われているジャンタル・マンタル(Jantar Mantar)に着く頃には、3000人ものチベット族が集結していた。
その頃、ジャシはこっそり抜け出して1つの門をくぐり、短い私道を通って砂岩でできた古い建物に入った。そして、ガソリンを全身にかぶる。肩から流れ落ちて服に染み込み、靴の中まで入ると、彼は火をつけた。
20歩ほど走り、バンヤンの巨木の下に倒れ込む。そこはまだ門の中で、外にいる群衆のところまでたどり着かなくては。ジャシは立ち上がって再び走り出し、今度は50~60歩進む。門をくぐって群衆の中に入ると、人々は火ダルマになったジャシのために道を開けた。歯をむき出しにするジャシは、満面の笑みを浮かべている。それとも極度の痛みに苦しんでいるのか、今となっては誰もわからない。
地獄が出現した。人々は泣き叫び、ペットボトルの水を炎に向かって必死に振り掛ける。ジャシの友人ソナム・ツェテン(Sonam Tseten)さんは、炎を消そうとバックパックをたたきつける。しかし、中には携帯電話が入っており、その重みで友人を傷付けるかもしれない。バックパックを投げ捨てたソナムは、シャツを脱いだ。「彼の上半身をシャツではたくと下半身が燃え上がり、下半身をはたくと上半身の炎が大きくなった」とツェテンさんは当時を振り返る。
一連の抗議行動で最初の焼身自殺は1998年、ハンガーストライキの最中に今回と同じ場所で起きた。炎に包まれたトゥプテン・ゴドゥップ(Thupten Ngodup)さんはジャシと同様、即死を免れ、ラーム・マノーハル・ローヒヤー(Ram Manohar Lohia)病院に収容された。翌日、ダライ・ラマが見舞いに訪れ、頭に巻かれたガーゼの上からそっと言葉をかけたという。記録によれば、「心の中に中国政府への憎しみがあるのに、見て見ぬふりはいけない。あなたは勇敢に意思表示した。しかし、憎しみを動機にしてはならない」と話したという。ゴドゥップさんはこの言葉を受け入れた。
ゴドゥップさんの文字通り燃え上がる抗議は一度きりの出来事で終わった。10年以上が経過した2009年2月、再びチベット族が焼身自殺し、2年後の2011年3月にもう1人が続く。その後、後を追う者が急増した。自らに火を放ったチベット族は2012年11月までで80人を超え、近代ではほとんど例を見ないこの抗議行動が続発している。
捨て身の抗議行動が相次ぐ中、「中立な立場を維持しなければならない」とコメントを出すのみで、ダライ・ラマはほぼ沈黙を貫いている。
ダライ・ラマは観音菩薩の化身としてチベットの人々に広く崇められている。しかし、中国共産党に対する“中道的なアプローチ”は成果を上げていない。中国首脳部は現在、チベット亡命政府の主席大臣との面会も拒絶しており、状況はむしろ悪化しているように見える。伝統的にチベット族が暮らす地域に漢民族を大量に移住させ、チベットの宗教に対する弾圧は深刻度を増している。寺院には監視カメラが設置され、ダライ・ラマの肖像画には穴があけられている。遊牧民は定住を強要され、チベット語の授業もままならない。
ジャシは12時45分にラーム・マノーハル・ローヒヤー病院に到着、13時19分に正式に収容された。友人たちが病院の入り口で引き渡すとき、ジャシは最後の言葉を口にした。「なぜ連れてきた?」。
この短い言葉を発するだけでも大変な努力を要したに違いない。医師の診察によると、内臓が焼け焦げていることがわかった。有害な煙や炎を吸い込んだためだろう。やけどは体表の98%以上に及んでいた。
身分証明書などの書類が入っている赤い布袋の中から、チベット語で手書きされた手紙が見つかった。まずダライ・ラマのチベット帰還を求めた後、忠誠心と“精神的な指導者”の必要性、自由について語る彼の言葉を引用しよう。「失われた自由、600万のチベット族は風に吹かれたバターランプのようにさまよう」。
「目標に向けて最後の行動を決断するとき、財産があればそれを使い、教育を受けていればその成果を出すべきなのだ。自分の人生はだれにも左右されないと心に決めたなら、命を惜しむ必要がどこにあるだろう」。
“世界の人々”に向けて“チベットのために立ち上がる”よう求める言葉で手紙は締めくくられている。
ジャシは手紙のほかにも、ごく短い文章を2つ残していた。1つは感傷的な母親への賛歌だ。もう1つは“さまよう少年”と題されている。
「愛する母の子宮からこの世に生まれた瞬間、私は基本的人権も思想の自由も持たず、外国の支配下に置かれていた。だから私は祖国と決別し、インドに亡命するしかなかった。現在はデリーの小さな部屋で昼も夜も過ごしている。朝起きて東を向くと、涙が止めどなく流れてくる。これは決して朝露のようなかりそめの想いではない」。
病院に収容されてから43時間後、ジャシは息を引き取った。体の98%に火傷を負って生き延びた者はいない。
マジュヌ・カ・ティラに暮らすジャシのルームメイトたちは、以前とほとんど変わりない生活を送っている。白い壁には、亡き友“ヒーロー、ジャンフェル・エシ”の小さなポスターが2枚貼られている。しかし、感情の高ぶりは終わった。仕事を探す努力はしているが、チベット難民には賃金労働の資格がない。真昼の暑さの中、マットレスでうとうとしながら、太陽が沈むのを待つ日々だ。
ジャシの死から数カ月後、ダラムサラの友人が再びアパートを訪れ、ジャシの生前にも口にした同じ残酷な冗談を言う。「またここに来てみたら、相変わらず誰にも彼女がいないし、仕事もしていない。ただ死を待っているだけの役立たずめ!」。1人がこう切り返す。「君は次の焼身自殺を煽りに来たのか? 次は僕の番だ。でも、心配はいらない。僕は万全の準備を整えるから!」。ジャシ以降はまるで通らない冗談になってしまった。誰が次の番なのか皆わからない、それがチベット族の現実だ。
Photograph by Dar Yasin, AP