パルデンの会

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ついに明らかにされたモンゴル・チベット相互承認条約 2/2



ついに明らかにされたモンゴル・チベット相互承認条約 1/2 
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モンゴル・ロシア関係を意識してチベット分割を提案
 3者代表団で合意が得られたが、中国政府が合意を後に撤回しているため、会議は失敗と言えるが、この会議で英国が自分たちの勢力範囲をより明確に 規定するため、チベットの領域が現在チベットと呼ばれる地域と、省として「内地化された地域(現在の四川省青海省など)」に分けることを提案した。
 これは、その当時のモンゴルが同様に内外の2つに分かれていた状況とその外モンゴルの部分をロシアが分割した「外側のモンゴル」を影響下に入れようとしたことを手本にして提案されたものであった。
 のちにチベット自治区は、提案どおりに2つに分割され、中国から見て外側だけがチベット自治区となるのだが、このときにはその提案が、この会議で の合意に中国が撤回する理由に挙げられているのは、歴史の皮肉である。いずれにしても、このようなチベットの分割の提案は、明らかにモンゴルとロシアの関 係を意識していたことが見受けられる。
 また、英国、ロシアもお互いの話し合いで、中国の宗主権は認め、勢力下において実を取る方を選んでいた。
 そのため、チベット・モンゴル間の条約によって、事実上の承認以上の独立が認められることになれば、モンゴルやチベットに他国から大使が送られるようになる可能性があり、自分たちの国の権益が侵されかねないことも、無視に近い態度を取った理由と考えられる。
 清朝の版図の継承国家を自認する中国も当然、この条約には否定的な態度を取った。中華民国において初めての憲法の役割を果たした19123月 11日に施行された中華民国臨時約法の第3条には、内外モンゴルチベット中華民国を構成する領土と明記されており、中国が認めるということはあり得な かった。
 日本政府に関して言えば、英国と同様、ペテルブルク経由で最初の情報を得ていたようである。さらにハルビン、北京でも同じ情報を得、3カ所から日本政府に伝えられていたことがモンゴルの歴史学者Ts・バトバヤル氏によって明らかになっている。
 日本も大きな関心を持っていたことが分かるが、さりとて何かできるかと言えば、何もできなかったであろう。
 なお、この条約の冒頭では、チベット、モンゴルが独立する旨が書かれている。
 多くの学者が言及していることだが、清朝は帝国として存在したが、その版図はすべて1つの中国として扱われていたわけではない。
 元首たる皇帝は英国国王がインド皇帝を兼ねていたように、チベット、内外モンゴルチベット、中国などを束ねた元首として清朝の皇帝が君臨していた。とすれば、ひとたび清朝の皇帝が退位し、帝国が崩壊すれば、諸地域が独立するのは当然のことである。
なぜこれほど長い期間公開されなかったのか
 さて先ほど積み残した疑問であるが、なぜこれほど長く公開されなかったのか?
 その後のモンゴルとチベットの歴史をたどっていくならば:
 モンゴルは、1915年にモンゴル、中国、ロシアの3カ国で話し合われたキャフタ条約で中国の宗主権の下、自治を獲得したことになったが、1917年、後ろ盾であったロシアで革命が起こると、中国から軍隊が派遣され1919年、自治が取り消されてしまう。
 しかし、1921年、モンゴルは再度の革命に成功、 20世紀前半に強いソ連の影響の下、国家建設に邁進する。1945年、すでに実質独立を達成していたが、国民党政府の要求で改めて国民投票を実施、独立に多くの票が集まり、正式に独立することが決まった。
 その後1990年代まで社会主義が続き、その後は、民主主義の道を歩んで現在に至っている。
 この間、1925年にモンゴルからラサ常駐の代表を派遣することを試みるも、すでに社会主義国となり、ソ連などでは反宗教キャンペーンも行われている時代であったため、拒否された。
 こうしてモンゴルは社会主義になって生き延び、チベットは、唯一、相互に国家を承認したモンゴルを拒絶し、英国と中国という狭い外交ルートしか持てなかったことが、その後の運命をかなりの部分決めたように思える。
 中国にソ連と友好関係を持つ社会主義統一国家が成立し、英国がインドから手を引き、チベットへの影響力が後退した後、中国がチベットを占領することを邪魔する勢力はなかった。
 もちろん、1946年の独立以降1960年代までソ連と中国から技術と労働力を得ていたモンゴルには、1913年の条約の原文を公開する理由がなかった。
 1960年代以降、中国との関係が冷え切り、1979年にはダライ・ラマがモンゴルを訪問するまでになったが、社会主義を否定することになりかねないからか、条文の公開は行われなかった。
 1990年以降、民主主義体制になり、貧しい時期が続いたが、2000年以降急速に発展し、中国とも渡り合える自信がついたところでの公開ということなのだろうか。
 なお、チベット側の条約の原文は1953年に持ち去られたと、ある学者は根拠を示さぬまま、先のウランバートルでの会議で語っている。こちらの公開は非常に難しいだろう。

終わり