パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

ついに明らかにされたモンゴル・チベット相互承認条約 1/2




ついに明らかにされたモンゴル・チベット相互承認条約1/2

締結からなんと100年、封印されてきた理由とは?
2013.05.08(水)
あまり知られていない話だと思うが、国立大学では何度もチベット語科設立の申請が文部科学省に却下されて いるそうである。理由は簡単で、チベット語が「国家の言語ではないから」である。学生だった時分にチベット語の先生が話してくれたことだが、その後も学科 がないことから考えると今も却下されているのだろう。
 日本語では、「何カ国語、話せますか?」と何の気もなしに質問するが、「国語」ということで数えれば、英語は50カ国以上の国の公用語や国家語であり、字義通りに理解すれば、英語だけで50カ国語以上を話せることになる。
1つの国に1つの言語は日本だけの常識
『ロシアとチベット』中央の写真はアグワン・ドルジエフ
 逆に少数民族の言語はどこの国家語でも、公用語でもないことが多い、つまり少数民族の言語をどんなにたくさん知っていても0カ国語知っている、ということがあり得る。
 質問している側にとって、もちろんそれが知りたいことではないことぐらい分かっている。しかし、日本では日本語だけが存在しているように見えるからか、1つの国家には1つの言語が存在するような幻想が、無意識に働いているように見える。
 これは母語と言わず、国という言葉がはさまった「母国語」という言葉を使ってしまうときにも働いてしまう心理のようだ。
 しつこいが、このような原則からすれば、チベット語は日本政府にとって、「0カ国語」と見なされていることになる。国語という表現は、透明に見えても、話が例えば学部設置基準となると、言葉通りに解釈され、目に見える障害にもなり得るのである。
 それはさておき、今から100年前、そのチベットを国家として扱った国があったというのが今回のお話である。
 それは1912年の冬のことであった。チベットから、モンゴルの首都イフ・フレー(現:ウランバートル)にあるラマ僧がやって来る。アグワン・ド ルジエフである。彼は、ダライ・ラマ13世の教育係を務めた人物で、ダライ・ラマに信用され、ロシアとチベットを結びつけるのに尽力した人物であった。
 それよりも特筆すべきなのは、彼がロシアの出身であるということであった。
 ロシアにも仏教地域がある。人口からすると全人口14000万人の中の100万人足らずで、比率にすれば1%に満たない数である。しかし、ロシア連邦において仏教は伝統宗教1つと認められている。
 ロシアの仏教徒の多くは、モンゴル系やテュルク系である。アグワン・ドルジエフはバイカル湖周辺に住むモンゴル系のブリヤート人出身である。彼は 18歳で出家し、国境を越え、モンゴルへ仏教を修めに向かったが、それでは飽き足らず、チベットにまで行って修行を積み、ダライ・ラマ13世の側近にまで 上り詰めた。
 迫り来る英国の圧力を受け、外交のバランスを取るためにロシアとチベットとの外交関係を模索した外交官としても活躍、1903年、英国がチベット に攻め入ったときにはいち早く危機を察知し、ダライ・ラマを連れてモンゴルまで逃避行の旅を行った。結局は、1904年にダライ・ラマ抜きで英国と条約が 締結され、ほぼ保護国のような状況になってしまったのだが。
モンゴル・チベット相互承認条約
『モンゴル=チベット間の1913年の条約』国際会議の論文集。上右がダライ・ラマ13世、上左はジェプツェンダンバホトクト8世。中はチベット語での条約の原文。下はモンゴル語での条約の原文
 そして今回は、モンゴルとの交渉のため、首都イフ・フレー(現ウランバートル)へやって来たのである。
 交渉の末、1913111日(チベットの暦では124日)に結ばれたと言われるのが、モンゴル・チベット相互承認条約である。
 この条約は、先に独立宣言をしたモンゴルと、この条約に勢いを得て、1カ月後の19132月、独立を宣言するチベットの間に結ばれた条約であり、お互いの独立を確認し合う、という意味では非常に重要な条約であった。
 条約の詳しい内容は多くの人が翻訳を試みている。例えば、サイト「白雪姫と七人の小坊主達」の2013111日付のブログ「チベット・モンゴル条約百周年!」などを参考にしていただきたい
 この条約が結ばれたことは、当時、モンゴルに常駐していたロシア全権代表コロストヴェッツを通じて、ロシアへと伝わり、英国にはロシアを通じて、条約の条項の詳しい情報とともに伝わったと言われる。
 このような条約が締結されたことは、チベットを、モンゴル同様、ロシアの影響下に引き入れようとしているのではないかという猜疑心を、すでにチベットをほぼ勢力範囲に収めつつあった英国に、生じさせたようである。
 このような条約が締結されたことは、英国にとってにわかには信用できなかったようだ。
 同じ1913年から始まった、チベット、英国、中華民国が参加したシムラ会議において、英国側代表団のチャールズ・ベルは、ダライ・ラマに、モン ゴルとの間に条約が締結されたのかに関し強く回答を求めたが、ダライ・ラマの答えは、「仏教のために活動してほしいと望むといったような一般的な内容の手 紙を送った」との回答であった。
 英国とチベットの間で、190497日に締結された条約の第9条によれば、チベットが他国と締結した条約と同じ条件の条約を英国は結ぶ権利を 持つことになっていた。そのことからすれば、モンゴルとの間に結ばれた条約に関しても、英国は締結する権利を有することになる。
いずれにせよ、モンゴル政府がその条約の存在を明らかにするまでは、モンゴルとチベットの間で結ばれたという条約は存在しないのではないかと言われ続けた。
 詳しい条文の内容が、様々な形で外に出てはいたが、原文が存在しない状態が長く続いた。
1913年の条約原文が公開されたのは2007
 チベット語の原文が公開されたのは2007年のこと。モンゴル語モンゴル文字)とともに2つの言語で条約の原文が公開されたのは、2010年 101314日、『モンゴル=チベット間の1913年の条約』と題された国際シンポジウムにおいてであった。原文は両方とも長くモンゴル国外務省の特 別公文書館に収められていたのである。
 なぜここまでこの原文が長く秘匿されていたかについては後で検討したいが、米国、ロシア、日本、ドイツ、インド、台湾などから研究者が参加したこ の会議の報告集は、ようやく2012年に出版された。なお、モンゴル以外の研究者は英語で発表を行ったようだが、出版物として出ているものは今のところモ ンゴル語だけのようである。
 その内容は、条約とその効力に関する問題(第1部)、それを他国がどう受け止めたかについて(第2部)、最後にチベット、モンゴルの独立とこの条約の関係に関してなど(第3部、第4部)といったものである。
 掲載された報告から、多くの研究者が自分たちの発見した資料と見識を持ち寄り、様々な側面で議論されたことが分かる。
 何よりもこの条約は、その締結した両国の相互承認は法的な効力があるのかどうかが重要な議論となっている。と言うのも、チベット側の代表は、チベット出身者ではなく、ロシア出身のアグワン・ドルジエフであったからである。
 インド・ダラムサラから参加したダシ・ツェレン氏はこの点に関して、アグワン・ドルジエフがチベット政府を代表できる人であったことを彼が使っていた複数の称号をもって論証した。
 さらに同じくインドのジャンバ・サムダン氏も、19128月にダライ・ラマからロシア皇帝に手交された親書には、アグワン・ドルジエフは、チベットを代表し、外国と条約を結ぶ権利を与えた旨が書かれていることを紹介し、論証を補った。
 なお、チベット亡命政府の教育局のチュント・ツェレン氏は1911年のチベット暦の5月、チベット=インド国境近くのチベット側の町、ファイル (Phagri)で、ダライ・ラマとアグワン・ドルジエフと会ったというダライ・ラマの側近の記録があり、恐らくその時にダライ・ラマから密命を受けたの だとしている。
その根拠としてモンゴルの元首となるジェプツエンダンバとダライ・ラマの間での何度かやり取りがあったことを示しているが、モンゴルが独立宣言(1911121日)をする前であるので大いに疑問である。
 ただし、1910年にチベットへ進行した清朝の軍隊を避け、インドへと逃れたダライ・ラマが、1911年、清朝の崩壊後、統制の取れなくなった清 軍を排除して、ラサに帰還したのは19131月。当時インドからチベットへと入境を試みていた青木文教によれば、ダライ・ラマと一緒にチベットに入ろう としたがうまくいかなかった。
現行の国際法上も十分に効力がある
 ダライ・ラマ1912623日にシッキムのカリンポンを出発した。チベット暦は約1カ月ほど遅れるため、5月に会見した記述は問題がない。とすれば、1912年の書き間違いであろう。
 また、モンテビデオ条約など、国家の承認に関して現行の国際法に照らして、十分、この条約が効力があることもプリンストン大学のヴァン・ウァルト・ヴァン・プラーグ氏によって論証された。
 さらに、ロシアから参加したアグワン・ドルジエフと同じブリヤート出身の研究者ツェレンピロフ氏からは、この条約にチベット語の草稿がブリヤートの中心地ウランウデに存在することが発表された。
 原文と照らし合わせた結果、草稿にある両国家元首などの仏教的な称号の削除、関税を無税にする規定(草案3条、原文6条)を「昔のまま」と変更したことなど、条文のかなりの改変に手が加えられていたことが分かった。
 仏教の称号の削除は、宗教色を消し、国家色を前に出すため、「昔のまま」という表現は、当時のチベットの状況を考えるなら、このような曖昧な表現 で、この条約が知られたとしても、英国が新たな貿易に関する契約を結ぶ口実にすることを避けるためだったのではないかと考えられる。
 なお、草稿がアグワン・ドルジエフの出身地で見つかっていることから、条約自体、アグワン・ドルジエフが作成したのではないかとの見解を示されている。
 しかし、そのような条約の存在を国際社会はどう受け取ったのか。立場は様々ながら、この両国に関心を持つ国は条約締結を知っていながら、ほぼ無視に近い態度を取ったと言えるかもしれない。
 ロシアは条約の締結2カ月前、1912113日にロシア・モンゴル協定を締結し、モンゴルを(中国の宗主権を維持したままでの可能性もあるが)事実上承認したと言える。
 しかし、同時にチベットの権益に関しては1907年に行った英国との話し合いで、チベットは英国の勢力範囲としていたこともあり、このような条約が締結されたことは、英国からあらぬ疑いを生じさせる厄介なものとの認識があったようである。
 ただし、ロシアは内にチベット仏教を信仰する人々を抱える国であるため、総本山を完全に英国が手中に収めることは、国内への影響も考えると望まし くなかったことも事実である。なお、『ロシアとチベット:ロシア諸公文書館所蔵文書集1900年-1914年』(ロシア語)では、同じ仏教徒ということ で、日露戦争時期、日本を警戒する文書を何度も残している。
 英国にとっては不安要素となりかねなかった。そのため、条約締結からまもなく、中華民国チベットの代表を招いて、チベットの地位を決めるシムラ会議が1913年から1914年まで行われたのである。
続く