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深層中国 ~巨大市場の底流を読む 第69回 株価暴落の背後にある論理 ~「管理される」ことが当然の社会の限界

WISDOM


深層中国 ~巨大市場の底流を読む 第69回 株価暴落の背後にある論理 ~「管理される」ことが当然の社会の限界

経営・戦略 田中 信彦2015年07月24日

「判断停止社会」のもろさ

 「中国経済は“何でもできる”権力者と、それに乗って儲けようとする人民という構造の上に成長している。改めて言うまでもないが、これは甚だ危なっかしい構造である。権力者が“何でもできる”ことが経済成長の重要な要素だとすれば、権力者が“何でもできるわけではない”ことが明らかになれば、成長の土台は崩れる。平たく言ってしまえば、中国が常識ある“まともな”体制の国になればなるほど、経済成長の条件が崩れていくと言っているのに等しいからである。」

 これは1年半前、2014年1月に書いた連載第56回「『全知全能』の権力の終わり~『政府頼み』の限界でバブル崩壊の懸念も」の一節である。今回の中国株式市場の暴落が即「成長の土台が崩れた」ことになるとは思わないが、上述した「甚だ危なっかしい」構造が露顕したことは間違いない。

 中国の代表的な株価指数である上海総合指数は、年明け以降6割急騰し、6月12日の5166.35ポイント(終値)を直近のピークに3週間ほどで30%以上急落した。日本円で数百兆円という金額が吹き飛んだといわれる。

 この急騰と暴落、そして、それへの権力者の対応を通じて改めて認識したのは、この国の「政府=権力」の存在感の大きさであり、権力に対する人々の、良く言えば期待、悪く言えば依存心(甘え)の強さである。この国では権力が強力なあまり、世の中すべてのことが権力の意向によって動くと大多数の人々が思っている。そのため、自らの判断軸を持たず、権力の思惑に沿って、それを利用して自らの利益を謀ることが当たり前の生き方とされている。このような一種の「判断停止社会」のもろさが露呈したのが、今回の出来事だったと思う。

 株式市場というものが本来どうある「べき」かはさておき、中国の普通の人々にとって現実の株式市場がどう見えていたのか、どう行動するのが合理的かつ当たり前だと思っていたのか。そんな視点から今回の出来事を考えてみたい。

海外は中国政府の強引な対策に驚く

 今回の一連のプロセスでは、株価の下落そのものが中国経済に与える影響よりも、むしろ暴落時に政府当局が見せたあまりに強い反応、対策の強引さに世界の注目が集まった。

 暴落時「自主的に」市場での取引を停止した銘柄は全体の半分以上にも及び、売買停止は個々の企業の判断とは言うものの、背後に当局の意向があったと見るのが常識だ。売買高も通常の2割ほどに低下、投資家たちの掲示板では市場の一時閉鎖を求める声も相次ぎ、市場は一時、半ば機能停止状態に陥った。さらには大口投資家などに対する保有株の売却制限、証券会社に対する2兆円を超える強制的な「買い」出動の指示、金融機関などによるETF(上場投資信託)の購入、「悪意の」空売り疑惑に対する警察権力の介入など、「オープンで自由な市場」という観点とは相いれない、露骨な「救市」(マーケットを救う、の意)策が次々と実施された。

 こうした中国当局の行動に対して、海外は驚きの反応を示している。ウォールストリートジャーナルは7月15日、「中国の株式市場介入、海外投資家は落胆」という記事を掲載。海外の投資家が中国の株式市場から資金を引き揚げる動きがあることなどを伝えている(日本語版ウェブサイトによる)。

 言うまでもないが、市場とはオープンかつ透明、公平であることが最重要で、金融当局はそれを担保するいわば行司役に徹するのが筋だ。今回の下落は大きなものではあったが、株価が急上昇を始めた今年3月初旬の同指数は3100ポイントほどで、今回の暴落後でもまだ利が乗っている投資家はたくさんいる。「ここ1~2ヵ月の上げ方を見れば、このくらいの調整はむしろ自然」というのが多くの専門家の感覚であり、中国政府がまるで狼狽したかのような破格の強硬手段を取ってきたことに驚いたのである。

 しかし中国人の視点からこの間の問題を見ると、見え方は違ってくる。もちろんここで言う「中国人」とは、いわゆる大陸、社会主義中国で育ち、暮らしている人々のことである。中国国内の論調では、政府の「救市」策に驚きは全くなく、むしろ「今まで何をしていたんだ。さっさとやれ」という反応が普通である。投資家たちの掲示板では、まれに「政府の介入は市場原理を歪め、将来に禍根を残す。控えるべき」という正論も見られるが、少数派だ。それどころか「今回の暴落は政府のミスであり、いわば人災である。損害を補填しろ」といった意見も少なくない。

 市場の原則からすれば暴論だが、それが個人投資家の間で半ば「正論」として受け入れられている雰囲気がある。中国政府がまるで狼狽したかのように破格の「救市」策を打ってきた背景には、こうした人々の受け止め方がある。

 ではなぜ人々はそのような受け止め方をするのか。そのことを考えるには、中国の人々が暮らしている社会の背景を理解する必要がある。




「管理される」ことは生活の前提

 現実の中国社会は、実に権力者による管理の多い社会である。
 「一人っ子政策」という名で知られる「子供を持つ」ことに対する厳格な管理はまだ生きているし、中国には戸籍(戸口)制度というものがあって、だいぶ緩くなってきたとは言うものの、今でも中国の国民はどこに住んで、どこで働くか自由ではない。多くの場合、現地の政府にお伺いを立てて許可をもらわないと、合法的に住むことも働くこともできない。今や大都市では車を持つにも事実上の総量規制(ナンバー発給制限)やナンバー末尾の数字による運転不可日の制限などがあり、ネット上では、事実上世界のスタンダードと言っていいGoogleフェイスブック、ユーチューブなどに接続させないという管理が存在している。

 個人のプライバシーに対する感覚も大きく違う。中国社会ではすべての国民が身分証明書番号で統一管理されており、これらは居住地の行政および公安機関、勤務先、銀行や証券会社などの金融機関、税務局、交通チケットの購入、旅先での宿泊、携帯電話やインターネット接続の実名制などを通じて電子的に一元管理されている。国民の行動や生活状況は、ほぼすべて把握が可能だ。

 さらには中国全土の道路という道路、ほぼすべての公共空間には、くまなく監視カメラが設置されており、中国では自宅やオフィスの中にいるのでない限り、どこを歩いても車で通っても、その行動は録画されている。そしてそのことを中国政府は積極的に公言している。プライバシーも何もあったものではないが、中国の人々はこうした現状に慣れていて、不快感を唱える人は少ない。むしろ「別に何も悪いことはしていないから構わない。生活が安全になったほうがいい」と肯定的に見る人が少なくとも私の周囲ではほとんどだ。

 言い方を変えれば、「権力」というものが良くも悪くも非常に身近で、日常生活のすぐそこにいる。そして権力のやろうとすること(=政策)とは国民が異を唱えるような性質のものではなく、天災のように天から降ってくるもので、避けようがないものである。やや極端な表現ではあるが、こんな感じが現実に近い。

 権力による日常生活の管理と株式市場と何の関係があるのかと思われるかもしれないが、中国の人々は「権力が自分たちの日常を管理しているのだ」という感覚に慣れ切っていて、それが当たり前、いわば社会生活の前提になっているということが言いたいのである。

 一党独裁の統治システムはすでに60年以上も続き、70代後半以上の世代を除き、こういう生活しか体験したことがない人が圧倒的多数を占めている。人々は「社会とは権力者が管理するもの」と天真爛漫に考え、そういう仕組みに沿って動く。国民の自由度が極端に低かった1960~70年代の「文化大革命」の時代は言わずもがな、1978年に始まった改革開放政策からすでに40年近く経とうとしている現在ですら、この社会は「原則不自由、権力が許したことだけ可」という枠組みは変わっていない。それはあまりに当たり前すぎて、国民自身は「管理されている」ことすら意識していないことが多い。

 それが「良いことか、悪いことか」という話ではない。私がその状態を「支持しているか、いないか」という話でもない。この社会ではそれが普通のことであって、多くの国民はそういう状態の下で生活しているということを忘れるべきではない。

「政府の思惑に乗ったほうがトク」

 このように権力者が社会生活を管理することが当たり前の社会になると、何が起こるか。それは冒頭で触れたこの連載の第56回でも紹介したように、権力者に「管理される人々」はそれに反発するよりも、このいわば「全知全能」の人たちを利用しようとするようになる。相手は基本的に「何でもできる」のだから、やることは成功する可能性が極めて高い。だったら妙に反発するよりも、相手の思惑に乗ってしまったほうがトクで、効率が良い。これは国民にとってはリスクが低く、ある意味ありがたい話である。

 かくして中国では、人々が不動産のような大きな買い物をしたり、投資をしたり、自分の職業を選択したりする際に、まず考えることは「権力者が何を考えているか」である。権力者が土地制度を改革し、不動産を市場化して政府所有の土地売却で利益を上げたいと思っていることがわかれば、不動産の値段が下がるはずはないから、誰もが不動産を買う。そしてその行動は多くの場合、成功した。

 株式投資も同じで、半年前、昨年12月にこの連載の第64回で私が「株価上昇は中国を変えるか ~進み始めた金融『市場化』の道」という文章を書いた頃、上海の友人たちは「政府が株価を上げたがっている。絶対に儲かる」と口々に話し、中には不動産を売却して日本円で億に近い資金を株に投入した友人もいた。結果的に株価はそこからわずか半年で6~7割上昇した。彼(女)らの多くは、4月に明らかになった信用取引規制強化の動きを見て、政府が株式市場の過熱を警戒していることを察知し、保有株の少なくとも一部は売却するなどの手を打った。そして6月12日、当局が信用取引の規制と空売り規制の緩和を公表した直後から今回の暴落が始まった。要するに株を買う人の多くが、政府の動きしか見ていないのである。




カネを渡すか、力で押さえ込むか

 かくして権力者が国民を管理しようとすればするほど、統治される人々の間には権力者に対する依存心と集団的思考停止が広まる。万一、政府の行動が失敗しても、それは権力者が勝手にやった(国民は頼んでもいないし、権限を付託した覚えもない)ことだから、自分たちに責任はない。その尻拭いは権力者自身がやるのが当然だ――という考え方になる。もちろんそうでない自立した思考を持っている人もいるけれども、それは高度な教育を受けたり、海外での生活経験があったりする少数の人々だけである。

 一方の権力者のほうも、自分たちの言うことやることに人民からあれこれ口を出されるよりも、黙って言うことを聞いてくれたほうが楽なので、思考停止は基本的に歓迎である。中国の人々はこれを「愚民政策」と呼ぶ。多くの人が自分たちは政府から「愚民」と扱われていることを知っているが、逆らっても何の益もないので、高度な判断は権力者に任せ、自分はひたすら利益だけを狙う。おカネがあれば、この窮屈な社会でもかなり快適な暮らしができる――という判断をする。その結果、社会では自己責任の論理がどんどん希薄になっていく。それは当然のことだろう。人は誰でも自分の意志で決めたのではないことに責任は取れない。権力者が決めたことには黙って従うが、結果の責任は追及する。いわば黙って「愚民」を演じるのである。

 やや芝居がかった言い方をすれば、こんなことだろう。


ハイハイ、私は愚民です。自己判断の能力はありません。ご領主様の言うことは何でも聞きます。その代わり、損害が出たら責任取ってくれるんでしょうね――。

 中国には2億人近い個人投資家がいる。そして、そのほとんどはスマートフォンの株式売買ソフトやその附属する掲示板、中国版LINEの「微信(WeChat)」などでつながっている。これらの人々がある日、一斉に市政府前の広場に「散歩」に出たら、もうどうしようもない。権力者は民の無言の恫喝に日々さらされている。「結果を出さねばならない」という強迫観念があるのである。

 政府が今回の株価暴落に対して、世界の常識からは異常とも思えるほど巨大な「救市」対策を取ったのは、こういう背景がある。中国の普通の人々からしてみれば、中国の株式市場は世界の常識で考える「市場(マーケット)」ではなく、中国の権力者が統治を有利に運ぶための装置でしかない。そこに国民を呼び込んでカネを集めておいて、それが消失したのだから、その穴埋めを権力者の力で行うのは極めて当然の理屈である。それができなかったら、民は怒る。怒った民を黙らせるには、カネを渡すか、力で押さえるしかない。今、中国の権力者はその両方をにらみつつ、戦々恐々とした日々を送っていると思う。

 今回の暴落に際して中国の当局者がとった対策は、株式市場の「べき論」からみれば許容できるものではなかったに違いないが、中国の為政者としては仕方のない対応だったと思う。とにかく当座の策として国民をなだめないことには、何が起きるかわからないからである。だが、本当の問題はここからだ。とりあえず暴落は押し止めたものの、一気にV字回復という雰囲気ではない。まさに冒頭に書いたように、権力者が「何でもできるわけではない」ことが明らかになれば、成長の土台は崩れる。

 株価が今後、反発し、緩やかに上昇していくようであれば、とりあえずの安定は保てるだろう。そうなってほしいが、うまくいくとは限らない。最悪の場合、「力」をより前面に出した対応を権力者が取らなければならない状況に追い込まれる可能性もある。まさに「愚民政策」のツケが回ってきたというしかないいが、私としては自らの利害にかかわることなので「ざまあみろ」と喜んでいるわけにもいかない。今すぐ何か大変なことが起きるとは思っていないが、何があっても対応できるよう、少し身辺を身軽にしておいたほうがいいかなと上海の友人たちと話し合っているところだ。


(2015年7月24日掲