嫌な マスコミの 人間たちである。
だから どんどん マスコミ・出版の会社がつぶれるわけだ。
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誘拐事件の“見世物小屋報道”について
既に、事件の背景や細部について、あまりにも多くの憶測が垂れ流され、必要以上にあけすけな推理や分析がやりとりされている。個人的には、被害者の少女が無事に保護され、容疑者の身柄が確保された旨が既に報じられている以上、これより先の報道はとりあえず不要なのではあるまいかと考えている。
ニュースを享受している人々による粗雑な当て推量や、仮定の物語や、憶測から発する魔女狩りや、不安を煽り立てる偏見混じりのプロットや、胸の悪くなるような猟奇的な描写は、被害者やその家族にとって、また、よく似た年齢の子供を持つ親やほかならぬ子供たちのために、有害なだけではない。容疑者に近い年齢の学生や、同じ趣味を持っていると目される広範な人々にとっても、事件のもたらす雑多な言説が新たな脅迫や偏見を生み出しつつある。とすれば、出歯亀とパパラッチ以外には誰も得をしないこの種の見世物小屋ライクなニュース商売は、早々に店を畳んで然るべきだ。
私自身も、自前の推理を披露することは控えるつもりでいる。
ここでは、事件報道の周辺で起こっている言い争いについて考えるつもりだ。
つまり、言葉を換えて言うなら、現在配信されたり放送されたりしている事件の関連情報は、事件解決のための情報収集でもなければ、同型の事件の再発を防ぐための啓蒙の意味でもない、単なる興味本位の暴露と憶測に偏した下世話狂言なのであって、そんなものに鼻を突っ込むのは恥辱である。と、一流オンラインビジネスマガジンの読者であるならば、ぜひともそう考えなければならないということだ。
警察なり裁判所なりが事件を解明するのは、これは当然の話だし、そうせねばならない仕事でもある。
ただ、事件を取材した報道関係者が、知り得た事実をすべて明らかにすべきなのかどうかについては、議論が必要だ。当然、その際には、商業的な嗅覚よりは、人権上の配慮が優先されなければならない。
今回のケースでは、被害者の生命の安全はなんとか守られている。
とはいえ、被害者が失われた家族の時間を取り戻し、社会復帰を果たすためには、なお多大な時間が必要なはずだ。そのために、静かな環境が不可欠であることもはっきりしている。
もちろん、報道機関には「報道の自由」があるのだろうし、「知る権利」も、無闇に否定して良い権利ではない。
が、報道の内容に公共性があるのならいざ知らず、本件に限って言うなら、被害者の監禁のあり方の詳細を暴き立てて周知せしめることに、特段に緊急の要請があるようには思えない。
とすれば、これ以上の取材は、できれば自粛するべきところだ。
ただ、公共性は無くても、需要はある。
取材される側には、取材されたくない事情があり、報道してほしくない気持ちがあるのかもしれない。
が、取材する人々には取材したい意図があり、報道したい欲望がある。
というのも、この種の監禁事件は、読者の興味を強く誘引するコンテンツだからだ。
その証拠(というわけでもないが)に、週刊文春の本日発売号の見出しは、
《美少女(15歳)を2年間監禁 千葉大生(寺内樺風23歳)の歪んだ情欲》
となっている。
見出しのアタマが「美少女」で、最後は「情欲」である。
昭和の成人映画と見まごう、見事な扇情ジャーナリストぶりだ。
行間から
「へい、いらっしゃい」
というダミ声が響いている。
もうひとつ、私が注目しているのは、事件の外形的なありかたとは別に、第一報が伝えられて以来、
「少女はなぜ2年間も逃げられなかったのか」
というポイントについての議論が白熱している点だ。
個人的に、この議論の行方には、大いに注目している。
というよりも、こんな瑣末なポイントに関して議論らしきものが成立してしまっていること自体に、ちょっと驚いている。
とすると、2年間の間、彼女が逃げずにいたことを不自然だと考えるテレビ視聴者や新聞読者が出てくることは想像がつく。
ここまでは良い。
問題なのは、その結果として出てくる
「少女はなぜ逃げなかったのか」
という問いが、被害者である少女自身の責任を追及する言説や、少女と犯人の間に人間的交流があったとする物語を採用する見方や、少女の性格的偏向や彼女の家庭の特殊さを言い立てるタイプの分析に着地している点だ。
いずれも、無責任かつ有害な言葉であり、暴力と呼ぶことさえできそうなお話だ。
似たような言葉は、ネット上の匿名の悪い子ぶりっ子だけでなく、テレビ番組に出演しているコメンテーターや公共のメディアで発言する有識者の口からも漏れ出てきている。
「監禁されている子供が、抵抗の自由を失うことは、むしろ必然で、その点に疑問を呈する言説は、そのまま被害者への心ない仕打ちだ」
「被害者が逃げなかったことについて、被害者を責めるのは見当違いであるのみならず、暴力だ」
「監禁下の環境にある子供の行動や心理について、外部の素人が軽々しい言葉を発するべきではない」
「少女が2年間逃げなかったことを理由に加害者との間の心の交流の物語を妄想する人々こそ、自分の心に歪みがあることを自覚するべきだ」
本稿執筆時点で、164件ほどのコメントがついている。
ひと通り読んで、暗澹たる気持ちになった。
私個人の細かい感想は述べない。
ぜひ、読んでみてほしい。
なぜなのか、小学生の頃に飼っていた熱帯魚のことを思い出した。
グッピーのような魚でも、過密飼育下では、弱った個体を全員でつつき殺すみたいな行動をとる。
そこまでは言い過ぎだろうか。
ならば、せめて“弱った個体”になる経験が、我々には必要なのかもしれない。