モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。
 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。
 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。
 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。
 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。
 だが、こうした見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。
 元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。
 では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。
 続く弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。
 一方、フビライが3度目の日本遠征をやめた理由はベトナム侵攻で敗北したからとの説が有力だ。
 ハノイ国家大学人文社会科学大学のグエン・バン・キム副学長によると、モンゴル軍は1258年、85年とベトナムの陳朝を攻め、タンロンなどを攻略したが、1288年のバクダン川の戦いで大敗。多くの軍船を失った。同川では、軍船の足止めのために使われた木杭が出土している。「フビライにとってバクダン川の敗戦が膨張政策を見直す契機になったのは間違いない」とキム副学長。
 服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈禱(きとう)をした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」
 しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲(わいきょく)され、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになる。
 対馬などにはモンゴル侵攻時に殺された日本の戦死者の墓が今も残る。だが、オーストラリア国立大学のナランゴア教授によれば、それらは歴史として受け入れられ、今では、現在の日本モンゴルとの和解・友好の象徴になりつつあるという。時代と人々の意識によって、レガシー(遺産)の意味も大きく変わるということなのだろう。(編集委員・宮代栄一)
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■世界史的視野が必要
 「元寇」という言葉が生まれたのは江戸時代。寇は「侵略」を意味する言葉だ。
 モンゴル帝国の伸長に関しては一国にとどまらない世界史的視野での議論が欠かせないため、近年は元寇も、ヨーロッパや東南アジアなどを含めた「モンゴル襲来」「モンゴルインパクト」の一環として論じられることが多い。先月も東京・昭和女子大学で国際シンポ「ユーラシアにおけるモンゴルインパクト」が開催された。
《訪ねる》
 長崎県松浦市鷹島神崎遺跡(国史跡)にはモンゴルの軍船が沈む。市立鷹島歴史民俗資料館と鷹島埋蔵文化財センターでは引きあげられた船体などが見学可能。福岡市元寇史料館(要予約)は貴重な蒙古関係資料を展示する。
《読む》
 「神風」説を否定し、学界の内外に一大センセーションをまきおこしたのが、服部英雄氏の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)。新井孝重氏『戦争の日本史7 蒙古襲来』(07年、吉川弘文館)は従来説等をバランスよく俯瞰(ふかん)する。