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沖縄新聞界>八重山日報らしい特色ある記事が目を引く


琉球新報沖縄タイムスを糺す県民・国民の会    より転載


「メルマガ 第118号」 7月3日

4月1日八重山日報本島版が発刊され、約2ヶ月経ちました。 公正・中立・両論併記をモットーにする八重山日報も、ようやく八重山日報らしい特色ある記事が目を引くようになりました。

次のコラムは6月28日付八重山日報の引用ですが、沖縄2紙では決して見ることは出来ない秀逸なコラムです。 沖縄2紙の論調に麻痺した読者にとっては右寄りの印象を持つ方もいるでしょうが、良識ある読者なら決して右寄りでないことが分かるはずです。


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八重山日報 2017年6月29日

「戦争につながるあらゆるものに反対する」。…
https://www.yaeyama-nippo.com/2017/06/29/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%8B%E3%81%82%E3%82%89%E3%82%86%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AB%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B/

 「戦争につながるあらゆるものに反対する」。インタビューを受けた高齢者の男性はそう言い切った。「辺野古の座り込みには、沖縄戦を体験した多くの高齢者が参加しています」。その男性が辺野古移設反対運動に加わる理由を、アナウンサーが説明した。「慰霊の日」特集で、ある民放テレビが放送した番組だ
◆見ていて非常に違和感があったのは、辺野古での座り込みがなぜ反戦平和につながるのか、何一つ説明がなかったからだ。辺野古移設は県民の基地負担軽減に向けた政府の施策であり、戦争準備の新基地建設ではない。そう主張するのは一部の政治勢力である
沖縄県民が歴史を振り返る時、重い教訓とすべきは1609年の島津侵攻、1945年の沖縄戦だ。平和を願う住民ばかりなのに、現実には他国から二度も侵略された。沖縄ほど有事の備えを真剣に考えなくてはならない地域はないはずなのに、「戦争につながるあらゆるものに反対する」だけでは、思考停止だ
◆ひるがえって石垣島でも「自衛隊が配備されると島が火の海になる」という流言飛語が広がっている。一時期、中央や地方で流行したが、今や顧みる人もない「非武装中立論」「無防備地域宣言」のニューバージョンだ。石垣島を破綻した思想の実験場にしようというのか。

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確かに辺野古移設の工事妨害をする活動家たちを「市民ら」或いは「平和活動家」と報じる沖縄2紙の論調には批判的なコラムです。

米軍基地をその必要性には目を閉ざし、悪の権化と捉える沖縄2紙は、沖縄戦に関しても特定のイデオロギーで日本軍を憎悪の対象として報道します。

沖縄戦に関し沖縄2紙が紹介する特集・講演会などは、すべて「残虐非道の日本軍」に県民がどれだけ虐待・虐殺されたかを主題にするものばかりです。

例えば沖縄守備軍である第32軍の壕跡の説明板にも「住民虐殺」や「慰安婦の存在」など曖昧な伝聞情報を記述せよという報道がまかり通っています

5年前に仲井真前知事が第32軍壕の説明板にある「住民虐殺」「慰安婦」などの記述を削除しましたが、革新県政の翁長知事になって、またぞろこの「記述復活」を目論むサヨク学者の主張を、琉球新報は大きく報じています。


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32軍壕「慰安婦」説明板 県、記述復活に難色
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-401433.html
琉球新報 2016年11月26日 05:00

 県が首里城公園内に設置した第32軍司令部壕説明板の文言から「慰安婦」「住民虐殺」の記述が削除された問題で、説明板設置検討委員会の元委員らは25日、県庁で金城弘昌子ども生活福祉部長と面談し、検討委原案への削除字句復活などを要望した。

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※このメルマガでは写真が使用できないため、写真とそのキャプションは省略しました。

沖縄2紙による偏った学者の意見のみがあたかも「定説」であるかのように報道し、沖縄戦を真剣に検証する研究者の意見が反映されることはありません。 つまり左翼学者や沖縄2紙の意見と異なる学者の研究は完全に黙殺されます。

そんな現状で、6月30日付八重山日報に第六面トップの大見出しが読者に新鮮な印象を与えました。

玉津元石垣市教育長の沖縄戦に関する講演会の記事です。

沖縄戦研究の課題指摘
玉津前石垣市教育長が講演
米軍基地否定
客観性の欠如

沖縄戦の講演を行ったのは元石垣市教育長の玉津博克氏は、沖縄の歴史が専門の研究者です。

玉津氏は石垣市教育長時代、八重山地区教科書採択協議会の会長を務め、従来の沖教組主導の教科書採択を法令に則って採択するように変更したため、左翼大学教授や沖縄2紙の大バッシングを受けた人物として知られています。

玉津氏のように沖縄2紙の論調に反旗を翻すような人物の講演会など、これまで沖縄2紙の記事で見ることはありませんでした。

ところが、玉津氏の沖縄戦に対する独特の研究成果を、八重山日報は大きく報道したのです。

沖縄2紙の従来の報道ですと、沖縄戦で必ず強調される日本軍の住民虐殺の例として「スパイ扱いで虐殺された民間人」などの記述に対し、
玉津氏の検証によると、「スパイは実在した」というのです。

八重山日葡より該当部分を抜粋してみましょう。

「10.10空襲については、沖縄占有するための基礎情報の収集のために行われた可能性を指摘。 空襲前に米軍が作成した資料を提示し、戦争が始まる前にはすでに米軍はスパイを地元に送り込み地元住民しか分からない情報を得ていたこと、それらが歴史教育で触れられていないことを述べた。」

これまで沖縄2紙の報道で沖縄住民が「スパイ扱いで虐殺された」と知らされていた県民は、玉津氏の指摘に目からウロコの感だったのでしょう。

講演を聞いた島袋径子さんは「沖縄戦のスパイについても、なぜ日本軍が住民を殺したのか不思議に思っていたが、実は違っていたことがわかった」と述べました。

山田ますみさんは「スパイに関する話が目からウロコだった。 今まで納得できなかった部分が納得できた」と述べました。

なお玉津氏は、集団自決について「自決命令は遺族が「援護法」の適用を受け、援護金支給を得るため、赤松大尉が偽証し、下していない命令を下したことになったこと説明しています。



【おまけ】

沖縄戦におけるスパイについて記したブログを抜粋・引用します。
興味のある方はクリックで全文ご覧下さい。

沖縄戦、「スパイ虐殺」の真相
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/c649cb97b533d81da84bfa1cb83ac147


沖縄戦の証言者の中に、身内の者が「スパイ容疑で日本兵に惨殺された」いった話を良く聞く。

係争中の「集団自決訴訟」でも、被告側は「日本軍はスパイ容疑で無辜の沖縄住民を虐殺した」と、争点とはまったく外れた論議を持ち込んで、「悪逆非道の日本軍」の印象操作に余念がないのは周知の通り。

「うつろな目の少女」(オカッパ頭の少年)で一躍有名人になった大城盛俊氏も自分の母親が「スパイ容疑」で殺されたいう。

⇒「うつろな目の少女」の秘密!
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/e5be940bea6ab75eefe06f427fc26d25

上羽修著『母と子でみる44 ガマに沖縄戦刻まれた』のなかで、その経緯を次のように述べている。


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収容所で悲しい知らせを受けた。再婚していたお母さんが、大城少年が一番初めに避難していたワチバルの壕まで会いにきたことがあったが、その帰り、日本兵にスパイ容疑で射殺されていたのだ。お母さんがこともあろうにスパイという汚名を着せられ無残に殺されたことを知った大城少年は、どんなにつらかっただろうか。

沖縄住民をスパイ視した日本兵による陰惨な虐殺事件が、沖縄の各地で起きている。ここに収容されていた住民も、山に潜む敗残兵に射殺されるという事件が起きた。彼等の論理ではアメリカに投降した者はみんなスパイであった。

「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」

アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった。

戦後、大城さんは右目失明と右足の障害のため良い仕事につけず、本当に苦労したという。

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沖縄戦にまつわる「スパイ」の話しは、ことの性質上明確な証拠・書類の類は残っておらず、数件の例を除いて、ほとんどが伝聞による「スパイ虐殺」が主である。

上記証言者の大城氏の場合も、「日本兵がスパイ容疑で母親を射殺した」という話も、米軍に収容されたときそこで聞かされた伝聞であったが、当時12歳の大城少年に事実確認は無理であったのだろう。

本文は大城少年が「母親が殺された」と聞いたせいか、日本兵に対する憎悪に満ちており、次の文にもそれがよく表れている。

アメリカ兵は住民に親切だったのに対し、日本兵は住民にとってははなはだ危険な存在だった」

そして、事実確認もしないまま大城少年の心に植えつけられた日本兵への憎悪は、本人は無意識なのだろうが、次のようなスパイ行為へとエスカレートしていく。

「私たちはその日本兵を殺そうと、アメリカ軍の憲兵日本兵の隠れていそうな壕を教えてやりました」

何気なく読み飛ばしそうな一文だが、これには重大な意味が含まれている。
これはスパイの自白文である。

もし大城少年とその仲間が米兵を日本兵の隠れていそうな壕に案内する光景を、日本兵に目撃されていたら、それは紛れもない「利敵行為」であり、りっぱな「スパイ行為」である。

スパイというと、「007」のジェームス・ボンドや、CIAの秘密情報員を連想する人もいるかもしれないが、沖縄戦時のスパイは大体次のように類別される。

(1)通称CICと呼ばれた連合国軍総司令部第441部隊
(2)米軍の捕虜になった後、勧誘されスパイになった沖縄住民
(3)本人は無意識にスパイ行為をしていた沖縄住民
(4)日本軍の疑心暗鬼で「スパイ容疑」で処刑された無辜の沖縄住民

(1)のCICとは、Counter Intelligence Corpsの頭文字をとった通称で、日本語の話せる日本人二世を中心とし、その一部は沖縄戦以前に「南方帰りの県人」として沖縄に潜入していたいわれる。 沖縄上陸後は公然と捕虜になった沖縄住民をスパイに勧誘していたが、終戦後沖縄が米軍占領下の時代になっても、沖縄住民の共産化防止を任務として暗躍していた。

(2)の例は、明確な資料として残されてはいないが、琉球政府主席(知事)を務めた当間重剛氏が捕虜になったときの捕虜収容所で、CICにそれとなくスパイ勧誘されたと思われる様子が氏の自伝で次のように述べている。


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・・・その前に私は日本語のしゃべれるCICに呼ばれた。私の身分はすでに明らかにされていた。「これをやったらどういう結果が生まれるだろうか」と、そのCICが紙に書いてみせたのがplebiscite。“国民投票”とか“人民投票”とか、言う意味だ「国民投票やって、何をきめるんだ」「日本に帰りたいか、アメリカに帰属するかを沖縄の人たちに決めさせるんだ」「それは日本帰属に決まっているよ。アメリカにつきたいというのはいないよ」そしたらこのCIC「そうかな」と言ったきり、それから口をきこうともしなくなった。
私が、ぐるぐるあちこちひきずり回されたのはその後まもなくたってからであった。

あのころ、私は伊良波で全く対照的な人物像をみた。一人はいかにも古武士的な風格の裁判長で、もう一人は敬虔なクリスチャン検事正だ。検事正は山下という人で、戦前からのクリスチャンだったようだ。捕虜になってからは、戦時中のようにクリスチャンであることに肩身のせまい思いをする必要もなくなり、今度は却って胸に十字架をぶらさげて歩くようになった。

一方、古武士的な裁判長は、CICに対しても“お前たちは今に負けるよ”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICに対しても“お前たちは今に負ける”と主張して譲らなかった。裁判長の頑固さをCICは“危険思想の持ち主”と思ったのか、あるいは“いじめてやろう”と思ったのかどうかは知らんが、この人だけは、ひとりトゲ鉄線の中に囲まれ、日本に帰るまで「あっち掃除しろ」「こんどはこっちだ」とこき使われているようだった。
民間人は捕虜になると、いろんな班にわけられた。DDTを散布する衛生班、食料を配る配給班。一般労務をする労務班等々。
(「当間重剛回想録」1969年3月25日)

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捕虜になった民間人をスパイにする(2)の例は、本島のみならず離島でもあったようで、先島戦記刊行会代表の瀬名波栄氏が『沖縄春秋』(1974年1月発行)に寄稿した「離島戦史の裏面」と題する文に次のような記述がある。


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沖縄戦も一段落した昭和20年の7月頃(6月頃の説もある)宮古平良町の成川部落で沖縄出身者とみられる挙動不審の男が現れた。その態度に不審の点が多々あるのに気がついた部落民が、その旨憲兵隊に通報、憲兵隊が現場へ急行して取り押さえて調べた。 その男は最初、名護出身のアラサキ某と名乗り、クリ舟に乗って漁労中、難に遭い宮古島に漂着したと申し立て、スパイ容疑を極力否認したが、陳述があいまいでそのうえ所持品の中からスパイ行為を裏付けるようなメモ帳が現れ、ついに包み隠すことができず、米軍のスパイである旨を自白した。

それによると、同人は米軍のもとで抑留されていたが、スパイになるように強制され、他の仲間三名と共に潜水艦に乗せられ、一人だけ宮古島近海で下ろされ、ゴムボートで狩俣海岸に上陸した。 任務は、宮古島の陸海軍部隊の兵力概況と高級指揮官の階級氏名を探ることが主で、脱出の際は海岸で信号弾を使用して合図すれば、時を移さず米潜水艦が救出にくる手筈になっていた。宮古に潜入したのは自分だけで、たの三名のことは知らない。
上陸後しばらく人目のつかない所に潜んでいたが、そのうち手持ちの食料が尽き、食料を求めて出てきたところを捕まった。

憲兵隊ではこれに基づいてスパイ容疑は動かせないと断定、司令部に報告、指示を仰いで処断したようで、銃殺刑に処したという説が強いが、当時後方を担任していたM参謀の回想によると、西表島へ監禁したのではないかとも言う。 もし殺害したとしたら痛ましい戦争犠牲者ともいえる訳だが、当時の日本軍は追い詰められて勝算を失ったせいか、スパイ対策には神経過敏と言えるほど気をつかっていたようで、沖縄人を色メガネで見る向きが少なくなかったようである。
(「沖縄春秋」1974年)


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(3)の本人が無意識に「スパイ行為」に走った例は「うつろな目の少女」の大城少年が典型だが、本人や周囲の人が無意識だけに、これが発覚して処刑された場合でも、被害者側としては「無実の罪」を訴えるだろう。

(3)と(4)で処刑された場合の峻別は、客観的資料や証言に乏しく、さらに「反日本軍イデオロギー」がこれに加わると、事実の解明には困難が伴うと思われるが、いずれにせよ今後の研究・調査が待たれる。




ここからは、告知です。
※この告知に関しては下記の事務局へお問い合わせ下さるようお願いします。


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【告知】

 祖国を守るために尊い命を捧げられた英霊に追悼と感謝の誠を捧げ、私たち若者が、世界の友人たちと相携え、世界の平和・友好・繁栄に寄与する誓いを発信するため、靖国神社で「青年フォーラム」を開催します。

日時:8月15日(火) 開会13:30(受付12:30 開場12:45)
場所:靖国神社境内 参道特設ステージ(大村益次郎銅像そば)
集いの内容:
 〇我が国はじめ全ての戦歿者へ黙祷
 〇日本と世界の未来を担う若者からの提言(我那覇真子ほか)
 〇特別提言 靖国のこころを次代へ ※英霊来世(エーレイライズ)「約束」奉納

主催:「感謝の心をつなぐ青年フォーラム」実行委員会

共同代表:(五十音順)
 ・赤木衛(特定非営利活動法人JYMA日本青年遺骨収集団理事長)
 ・小川榮太郎(一般社団法人日本平和学研究所理事長)
 ・井上和彦(ジャーナリスト)
 ・室舘勲(株式会社キャリアコンサルティング代表取締役

事務局:
日本会議 〒153-0042 東京都目黒区青葉台3-10-1-601
電話03-3476-5611 FAX 03-3476-5612 (担当:外村)

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※原文では「靖国」の表記は旧漢字が使用されていますが、その旧漢字は環境依存のため、当メルマガでは文字化けを防ぐために平易な表記にしています。


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 最後まで読んで頂きありがとうございます!
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