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「なぜ拉致した?」北の指導員を問い詰め 招待所で地村保志さん



「なぜ拉致した?」北の指導員を問い詰め 招待所で地村保志さん

9/28(木) 14:54配信
福井新聞ONLINE
 平壌郊外のコンクリート2階建ての施設。招待所と呼ばれるところだ。浜本富貴恵さん=1978年失踪当時(23)=は毎朝目が覚めて、大きな花柄のような、派手なデザインの天井が目に入るたび「ああこれが現実か。夢じゃないんだな」と心が締め付けられ、涙が止まらなかったという。部屋ごとに金日成国家主席肖像画が飾られており、徐々に北朝鮮という国であることを認識していった。

 監視役の指導員は、夜になると、自宅に戻った。平壌郊外の別の招待所に連れて行かれた地村保志さん=同(23)=は、指導員がいない夜中になると、部屋に備え付けられていた真空管の古いラジオに聞き入った。電波の影響か、福岡県の放送やNHKが入った。毎晩「自分たちがニュースになってはいないか」とチェックしたが、一度も流れなかった。

 当時はラジオのチューナーを合わせるダイヤルは、自由に回せた。後に、拉致問題や核ミサイル問題などで北朝鮮が国際社会から非難され始めると、ダイヤルは固定され、情報統制が強化された。

 保志さんは指導員に「なぜ拉致した?」「帰るにはどうすればいい?」と何度も問い詰めたという。しかし指導員は「祖国統一のためだ。北朝鮮のために手伝ってほしいと、日本人に言っても来てくれないから、仕方なく拉致した」と繰り返すだけだった。

 招待所で2人は、指導員からこの国での名前を与えられた。北朝鮮にいた24年間、名前が変わることはなかった。身分証明書や病院の手続きなどでは、その名前を使った。

 2002年、保志さんらが帰国する直前に訪朝した日本政府調査団の報告では、保志さんは「オ・ソンサム」、富貴恵さんは「リ・ヨンオク」となっているが、それとはまったく別の名だ。

 拉致された直後は、2人とも映画や歌劇を何度も見せられた。一般客にまぎれて見た歌劇のステージでは、両脇に縦長の幕が設置されており、日本語の字幕が投射された。日本からの訪朝団に見せるときに使われるものだった。

 内容の多くは抗日パルチザンに関するもので、博物館では、日本軍による強制連行の写真などを見せられた。日本がいかにひどい国であるかを強調していた。

 保志さんは関係者に「北朝鮮が頑張って日本と戦って、独立を手に入れたということを植え付けようとしていたんだろう」と語っている。

 拉致されてから2カ月後の1978年9月、富貴恵さんは指導員から「日本の女性がいるが、一緒に住むか」と聞かれ「はい」と答えた。別の招待所から来たのは、同じ年に拉致された田口八重子さん=失踪当時(22)=だった。部屋にベッドを二つ入れてもらい、一緒に寝泊まりするようになった。

 「(田口さんは)背が高く大人っぽかったが寂しがりやで甘えん坊だった」(2003年10月の会見)。世話係の女性に、ハンバーグの作り方を教えることもあった。富貴恵さんは関係者に「八重子さんがいてくれたから本当に心強かった」と語っている。

 同じころ、保志さんの招待所には、新潟県拉致被害者蓮池薫さん=同(20)=が来た。指導員からは「自分の生い立ちなどは、しゃべってはいけない」と言われていたが、会ったその日に、名前や拉致された状況を確認し合った。
最終更新:9/28(木) 14:54
福井新聞ONLINE