パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

国際セミナー北朝鮮・ その1 拉致被害者最新情報と救出戦 略」に参加した李英秀氏(仮名)の報告要旨


今年も 「拉致問題解決のための国民運動月間」も過ぎてしまった。
しかし 拉致を取り巻く周りの政治状況も 国連、米国、日本選挙、韓国選挙という大きな
政治課題で動いている。 少しでも前向きな方向への前進を願う。

少なくとも昨日の選挙により 拉致を置き去りにした 民主党社民党自民党の議員達には
落選と言う天罰が加えられた。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆
(2012.12.17-2)李英秀・金賢姫氏報告-国際
セミナー配布資料


12月14日に実施された国際セミナー北朝鮮拉致被害者最新情報と救出戦略」に参加した
李英秀氏(仮名)の報告要旨と、ビデオ報告した金賢姫氏の報告要旨を予めまとめたものを当日
配布しました。

以下に、その全文を掲載します。
■李英秀・金賢姫氏報告-国際セミナー配布資料

1.最新拉致情報-脱北者の証言
国際セミナー2012.12.14
李英秀(仮名)
1965年慈江道生まれ 韓国軍捕虜の息子 父は2006年死亡
1981年~1991年 人民軍入隊 1980年金日成教示「在日帰国者、韓国軍捕虜の家
庭からも一家に一人軍隊に入れて徹底的に革命思想を植え付けよ」が出たため入
隊できた。
1991年~1994年 軍除隊後、炭鉱配属を拒否し耀徳(ヨドク)収容所に。家鴨の
世話を任される 保衛指導員と結託して高位層政治犯と家族知人との連絡をして
謝礼を得る裏仕事をする。出所後も継続。
1996年~2007年 作戦部資材調達係
2007年 脱北

親しい友人だった作戦部幹部の息子Aから聞いた拉致情報
Aの父は肝硬変。金正日の配慮でドイツで手術したが、回復しなかった。Aは父を民間療法で
直そうと考え、私とともに薬草を求めて地方を回った。××年、Aの父が死んだ。
金正日世襲に合わせて、幹部が死んだとき、「代を継いで革命する」として息子を継がせる
ことがあり、Aは作戦部指導員となる。

1.2002年小泉訪朝のときのAとの会話
A「将軍様が大きな失敗をした。誰か2、3人責任とって死ぬかもしれない。狐のような小泉に
騙されて拉致を認めた」「拉致本を当にしたのか」
A「したから認めた」

「なぜ知っている」
A「親父が日本担当、親父が亡くなっていてよかった」

「だいたい何人拉致したか」
A「多い」

「何に使う」
A「考えてみろ」

「関心ないから分からない。国交正常化になるのか」
A「分からない」

「なるなら、対日貿易で儲けたい。松茸は日本で一番高く売れる」
A「拉致した日本人は使えた奴も使えなかった奴もいる。間諜教育で日本語を教
えた。方言教育までしている」

「お前も日本語教育を受けたか」
A「受けていない。普通1対1でやる。工作員は皆、仮名を使っていてだれが何
しているか分からない」

2.2004年年末か2005年はじめ 平壌の食堂
「耀徳生たちは口が固い。めぐみという日本女性のにせ遺骨を送って連絡所は頭
が痛い。

横田めぐみは見てはならないものをみな見ている。知っていることが多い。帰し
たら連絡所の秘密をみな知られてしまう。秘密を知っているものが3、4人いる。
2人が連絡所にいる。2人は別のところにいる。

70年代金正日が後継者になり、工作機関と保衛部を掌握した直後、工作機関に
『対南工作は制約が多いので、現地人を包摂して、テロなどをさせる工作員とし
て使え。そのために拉致して家族を持たせて人質にせよ』と指示を下した。

そこで、北朝鮮人と外見が似ているアジア人の中で、過去朝鮮を侵略した日本
人を多く拉致することになった。しかし、最終的に信じられず外国人を工作員
して外国に派遣はせず、朝鮮人工作員の現地化教育のために使った。日本資料の
翻訳もさせた。その時まで作戦部には対日担当部署がなかった。

拉致被害者の結婚は普通、朝鮮人ではなく外国人同士でさせた。非武装地帯を
越えてきた米軍人のなかで使える者はスパイとして使い、それができない者は映
画俳優などに使った。

2002年9月、小泉は100億ドル出すといったので金正日はだまされ、拉致を認め
て失敗した。当初、金正日は全員帰そうとしたが、作戦部は秘密が漏れると反対
した。金正日は2日ほど考えて、作戦部にだれを帰すか、帰さないかの分類をさ
せた。結果として交渉がうまくいかなかったので作戦部で幹部が多く飛ばされた。
父が死んでいて良かった。もしも父が生きていたら責任を取らされてクビになり
家族は耀徳に送られていたかもしれない」

3.高英姫死亡(2004年8月13日)直後
高英姫は日本語をよく使った。その関係で幼くして拉致された日本女性に関心
をもっていて、しばしば会って日本語で話していた」

4.2006年12月か2007年1月脱北時
脱北ブローカーが自宅を訪れ、韓国にいる父親の弟の写真を見せて韓国行きを
勧めた。そのブローカーは、「日本人拉致被害者の情報を持ち出すとカネになる」
といったので、平壌に行きAを訪問。

「カネになる拉致の資料を頼む、良い就職をさせるという約束を破った代わりだ」
A「拉致日本人の資料は、いくら俺でもできない」

「生きているか」
A「生きている」

「何人知っている」
A「4人」
「髪の毛を入手したい」
A「それはできない。10日くらい待て」

数日後、証明書写真4枚が横に並んでいるコピーを持ってきた。

A「この4人は生きている日本人拉致被害者だ。裏に日本名が書いてある。文献
(書類)についていた写真。作戦部管理の女性2人と対外連絡部管理の男性1名、
女性1名。めぐみは特別管理しているので俺も接近できない」

「どこで管理するのか」
A「普通、招待所で管理するが、朝鮮名を与えて朝鮮人にしているから登録は外
国人がたくさん住むテソン地域にしてあるが実際はそこに住んでいない」

「めぐみの朝鮮名は何か」
A「最初は○○○だったが(※覚えていない)、死んだとして偽遺骨を出したあ
とハン・スネに変えた」

「結婚して家庭生活をするのか」
A「結婚させて子供も産ませる。相手は主として外国から連れてきた人間で朝鮮
人ではない。たくさん拉致したが使えない者も多かった。工作員として育てるか
工作員教育に使う。めぐみは拉致しようとしたのではない。日本海側の海岸に侵
入して調査部工作員に会ってきた工作員が、海岸で幼い子ども一人に目撃された。
幼いので殺すのもできず連れてきた。めぐみは、最初は工作員として使おうとし
て訓練したがだめだったので、金正日政治大学で工作員の教育に使った。金正日
政治大学ではある場所で6ヵ月か1年、1対1で教育するから自分の先生以外は
知らない」

恵山で川を渡るとき、ブローカーが「持ってきた写真は、捕まったら没収され
るから預かる」と言ったので、家族や友人の写真といっしょに日本人の写真を預
けブローカーに盗まれた。ブローカーは後日北朝鮮で処刑された。


 続く