パルデンの会

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拉致被害者、有本恵子さんの父、明弘さん死去

「昭和の父」はもういない 拉致被害者有本恵子さんの父、明弘さん死去に思う 中村将

 
有本明弘さん
 

真夏の強い日差しとアスファルトの照り返しで汗が止まらない。セミの声が何重にも聞こえた。

兵庫県明石市の鉄工所。金属音が鳴り響き、火花が散っていた。溶接作業中の工員に大きな声でたずねた。「社長はいますか」。工員は事務所を指さした。

「よう来たな」。機械油のしみがついた作業着姿の有本明弘さんは笑顔で招き入れてくれた。ちゃぶ台の上にはすしおけが2つ。冷蔵庫から缶ビールを出してきてくれた。25年以上前のこと。恐縮しながら話を聞いたのを思い出す。

さいころから物静かだった三女、恵子さん(65)=拉致当時(23)=は英語が好きだった。大学卒業の直前、英国への短期留学を両親に打ち明けた。「こんなに静かな子が大丈夫か」。明弘さんは反対したが、恵子さんはアルバイトで稼いだ留学費用をすでに払い込んでおり、翻意させることはできなかった。

行かせたことを悔やんだ。まさか、留学中にだまされ、北朝鮮に拉致されるなどとは思ってもみなかった。

昭和一桁(ひとけた)世代。世界恐慌など経済の混乱に加え、日中戦争勃発の影響で戦時体制に移行し始める中で育った。よく働いた。頑固だが、恵子さんのことを聞くと、目を細めた。話は止まらない。娘に惜しみない愛情を注いできたことが伝わる。

無責任な地元選出の政治家、話を聞こうとしない非情な外務省、無関心なメディアへの批判が続き、家族の苦しみ、やるせない怒りを滔々(とうとう)と語った。「政府がしっかり交渉してくれないと、娘は帰ってこない」。当初からそう言い切っていた。

日航機「よど号」を乗っ取り北朝鮮に渡った元共産主義者同盟赤軍派のメンバーの元妻(70)が平成14年2月、よど号犯や北朝鮮工作員とともに恵子さん拉致に関与したことを告白すると、明弘さんは怒りを堪え、「長い間手がかりがない状態だっただけに、拉致について話してくれたことへの喜びも大きい」と絞り出した。

 

「一番悪いのは北朝鮮や。だけど、何もできない日本政府もおかしいんとちゃうか」。家族会発足から28年。政府に対し、口うるさいことを言い続けてきた。進展しないいらだちから、「なんどいや(どういうことだ)」と播州弁で時の首相に声を荒らげたこともあった。娘を取り戻したい気持ちでいっぱいだったのだ。

足腰が弱った晩年は集会などの場に車いすで参加し、娘を思う気持ちを伝え続けた。老骨にむち打ってでも上京したのは最後まで望みを捨てずにいたからだ。胸が痛む。

「日本を信じる」と言い残し他界した増元るみ子さん(71)=同(24)=の父、正一さんや、全身全霊をかけて最期まで奪還を訴えた横田めぐみさん(60)=同(13)=の父、滋さんらに続き、明弘さんも逝った。

娘を愛した頑固であきらめない「昭和の父」はもういない。昭和に起きた事件は、平成に少し動いたものの、令和の時代になってもなお終わらない。解決できない現実を、政権や政府はどう受け止めているのか。「本当に残念だ」石破茂首相)。その言葉にはむなしささえ覚える。

(大阪本社編集局長)

 

 

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