パルデンの会

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ついに大物・偽者・登場。パンチェン・ラマが委員に 中国の政治協商会議

パンチェン・ラマが委員に 中国の政治協商会議

2010.3.1 00:01 産経新聞
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 新華社電によると、中国の国政助言機関、人民政治協商会議(政協)全国委員会の常務委員会は28日、中国政府公認のチベット仏教指導者パンチェン・ラマ11世を政協委員に選んだ。
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 パンチェン・ラマ11世は2月3日に中国仏教協会の副会長に選ばれたばかり。チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と中国当局は1995年、パンチェン・ラマ10世の後継にそれぞれ別の少年を選んで対立し、中国側が選んだ現11世が即位。中国には11世を次々と役職につけることで、ダライ・ラマをけん制する狙いがあるとみられる。  政協の第11期全国委員会第3回会議は3月3日に北京で開幕する。(共同)

中国:ノルブ氏が公職に パンチェン・ラマ11世認定

毎日新聞
 【北京・浦松丈二】中国政府が95年にチベット仏教第2の活仏、パンチェン・ラマ11世に認定したギャインツァイン・ノルブ氏(19)が3日開幕した中国仏教協会の全国代表会議で同協会副会長に選出された。

 ノルブ氏が公職に就くのは初めて。歴代パンチェン・ラマチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマの死後に重要な役割を果たしており、中国当局ダライ・ラマ14世の死後を視野にノルブ氏を公職に就かせたとみられる。

 一方、ダライ・ラマ14世(インドに亡命中)は95年、パンチェン・ラマ11世として別にゲドン・チョエキ・ニマ氏を認定したが、中国当局は拒否し、ニマ氏は行方不明になったままだ。

1989年の10代パンチェン・ラマの死後、91年占いによって、パンチェン・ラマチベットに生まれ変わっていることが判明。93年にはまだ転生を探す時期ではないとの占い。その後、紆余曲折を経て、94年、転生の認定を行ってよい時期かどうかが占われ、答えは可。

翌95年1月、ダライ・ラマは認定の手続きを開始。占いが行われ、いく人かの候補のなかから、ラサの北効ナクチュのラリ地区に住む、ゲドゥン・チューキ・ニマ少年(写真上)が、パンチェン・ラマの生まれ変わりとして非常に適格であることが判明した。同年1月23日、北インドダラムサラにおいて、いくつかの儀式が行われ、ついで占いが実施され、ゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、まぎれなくパンチェン・ラマの転生霊童であるとの結果が出た。
95年5月14日、ダライ・ラマは、当時6歳だったゲドゥン・チューキ・ニマ少年を、パンチェン・ラマ10世の転生霊童として正式に発表。

他方で、中国当局は、タシ・ルンポ僧院(パンチェン・ラマの所属することになる僧院)に対して、パンチェン・ラマの転生者をダライ・ラマ法王が認定しても無視するように命令していた。1995年1月に同僧院で会議が開かれ、この命令が伝達されたが、そのようなことはチベット人社会に受け入れられないだろうと、僧侶達は懸念を表明したという。

ダライ・ラマの発表に対して中国側は反発し、パンチェン・ラマの転生者を認定する権限はダライ・ラマ法王になく、中国政府に帰属するものだと主張した。そして、法王の声明が出された直後、ニマ少年は家族とともに行方不明となった。
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チベット亡命政府をはじめ、諸外国の政府機関・国際団体は、ニマ少年の居所を公表するよう中国政府にくりかえし要請した。しかし、中国当局は、失踪してから1年もの間、少年の拘留すらまったく認めなかった。 中国当局が少年と両親の拘束をようやく認めたのは、1996年5月28日。発表は、国連こどもの権利委員会が行った、綿密な長期調査への返答という形でなされた。 同委員会は、中国自身も加盟国である「子どもの権利条約」の監視組織である。新華社通信(中国の国営通信社)の伝えるところによると、呉健民・中国国連大使ジュネーブで、「少年は両親の要請に基づいて政府が保護している」と語ったという。 呉健民国連大使は、「少年は分裂主義者によって連れ去られるおそれがあり、身の安全が脅かされている」と説明した。(中国当局は、ダライ・ラマによるパンチェン・ラマの認定を非難し、ニマ少年が転生霊童であるとは認めていない。) そして、10年以上が経過した現在の時点でもニマ少年の所在・消息は確認されていない。 他方で、中国政府当局は、ギェンツェン・ノルブという6歳の少年(写真下)を11代パンチェン・ラマに即位させた。中国の就任式が1995年11月30日に行われ、実際の「即位」は12月8日に行われた。
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中国が任命した“パンチェン・ラマ”については、中国はこの少年の肖像を公開して、チベット中に掲示させる計画を発表した。 ダライ・ラマの肖像の掲示禁止という政策とは全く矛盾する対応である。
法王事務所 HPより