1989年の10代パンチェン・ラマの死後、91年占いによって、パンチェン・ラマがチベットに生まれ変わっていることが判明。93年にはまだ転生を探す時期ではないとの占い。その後、紆余曲折を経て、94年、転生の認定を行ってよい時期かどうかが占われ、答えは可。
翌95年1月、ダライ・ラマは認定の手続きを開始。占いが行われ、いく人かの候補のなかから、ラサの北効ナクチュのラリ地区に住む、ゲドゥン・チューキ・ニマ少年(写真上)が、パンチェン・ラマの生まれ変わりとして非常に適格であることが判明した。同年1月23日、北インドのダラムサラにおいて、いくつかの儀式が行われ、ついで占いが実施され、ゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、まぎれなくパンチェン・ラマの転生霊童であるとの結果が出た。
95年5月14日、ダライ・ラマは、当時6歳だったゲドゥン・チューキ・ニマ少年を、パンチェン・ラマ10世の転生霊童として正式に発表。
他方で、中国当局は、タシ・ルンポ僧院(パンチェン・ラマの所属することになる僧院)に対して、パンチェン・ラマの転生者をダライ・ラマ法王が認定しても無視するように命令していた。1995年1月に同僧院で会議が開かれ、この命令が伝達されたが、そのようなことはチベット人社会に受け入れられないだろうと、僧侶達は懸念を表明したという。
ダライ・ラマの発表に対して中国側は反発し、パンチェン・ラマの転生者を認定する権限はダライ・ラマ法王になく、中国政府に帰属するものだと主張した。そして、法王の声明が出された直後、ニマ少年は家族とともに行方不明となった。
チベット亡命政府をはじめ、諸外国の政府機関・国際団体は、ニマ少年の居所を公表するよう中国政府にくりかえし要請した。しかし、中国当局は、失踪してから1年もの間、少年の拘留すらまったく認めなかった。
中国当局が少年と両親の拘束をようやく認めたのは、1996年5月28日。発表は、国連こどもの権利委員会が行った、綿密な長期調査への返答という形でなされた。
同委員会は、中国自身も加盟国である「子どもの権利条約」の監視組織である。新華社通信(中国の国営通信社)の伝えるところによると、呉健民・中国国連大使はジュネーブで、「少年は両親の要請に基づいて政府が保護している」と語ったという。
呉健民国連大使は、「少年は分裂主義者によって連れ去られるおそれがあり、身の安全が脅かされている」と説明した。(中国当局は、ダライ・ラマによるパンチェン・ラマの認定を非難し、ニマ少年が転生霊童であるとは認めていない。)
そして、10年以上が経過した現在の時点でもニマ少年の所在・消息は確認されていない。
他方で、中国政府当局は、ギェンツェン・ノルブという6歳の少年(写真下)を11代パンチェン・ラマに即位させた。中国の就任式が1995年11月30日に行われ、実際の「即位」は12月8日に行われた。
中国が任命した“パンチェン・ラマ”については、中国はこの少年の肖像を公開して、チベット中に掲示させる計画を発表した。
ダライ・ラマの肖像の掲示禁止という政策とは全く矛盾する対応である。
法王事務所 HPより