昨日 終戦を迎える前に お盆である 東京大田区の池上本門寺(日蓮宗大本山)
をたずねて来た。 さすがにお盆だけあってお参りも多いし、お墓もあちらから
戻ってこられた人々の足音がするようですこし騒がしい。
しかし その中でも静かな場所がある。
墓地の一角にある「シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑」(妙見堂内)
である。 ここには時々来るが 今日も静かなたたずまいである。
静かではあるが BC級戦犯についてはあまり知られていない。
私が聞いたのは
終戦直前の捕虜収容所も軍人が少なくなったため、台湾や朝鮮からの
志願者をどんどん日本人に置き換えたため、台湾朝鮮出身者のBC戦犯が
多く処刑されたということらしい。
彼らはよき日本人として その任務に当たり、日本人として 静かに
汚名を着て処刑されたと聞いている。
しかし その事はあまり大きく広がることがなっかたのはA級とは違う
という考えを 戦後の日本人たちが持っていたからではないだろうか??
A級は上で BCはその下というような考えで見ておられたものかも!
そして この30年間 朝日新聞をはじめ 毎日新聞や 赤旗、社会信報などが
従軍慰安婦をでっち上げて 日韓の問題として 日本の歴史を持て遊んだ
結果ではないだろうか?
チャンギーの殉難者においても 韓国人が日本兵として戦い そして戦犯
として処刑されたことが、日本人として申し訳ないとするところが
反対に 日韓の 政治の波に、もまれたという感がある。
転載する記事に 民主党の有田議員の記事もあり、新大久保のヘイトデモ
問題のことを考えると池上本門寺へ足を向けることが少なくなるのかもしれない。
日本人として死んだ彼らに対して 現在の論理や社会状況で いろいろ
言ってこられた人々の中に
キリスト教、恵泉女子大、などという日韓問題を動かしてきた組織名
が出てくることに 「やっぱり」という感がしてしまった。
しかし われわれの歴史に彼らを刻み、その中でやれることはやってほしい
と思う。 (間違っても 反天皇制などの取り組みに組み込んでほしくない、
それこそ彼らの死を無駄にすることである)
2014年5月 1日 (木)
日本軍幹部の責任を肩代わりさせられたBC級戦犯裁判の不条理(韓国・朝鮮人元BC級戦犯と遺書) Unsolved issues of Korean B/C class War Criminals and their Last Will
◯シンガポール チャンギー慰霊碑
http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/05/01/_aaa1325.jpg広大な墓地を持つ池上本門寺(日蓮宗大本山)。墓地の一角には力道山の銅像とお墓もある。
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石碑の裏面には、刑死した146人の名前が刻まれている。朝鮮半島の若者の名前も目立つ。
シンガポールで数万人といわれる華僑粛清の責任で絞首刑となった河村参郎警備司令官と大石正幸憲兵隊中佐の名前も刻まれている。
カールニコバル島で通訳として拷問に加わったとして処刑された学徒兵の木村久夫の名前もある。
(2008年撮影)
この慰霊碑の前では、例年、4月第二週には、連合軍によるシンガポール軍事裁判(BC級戦犯裁判)により、チャンギー刑務所で処刑された旧日本軍軍人軍属の霊を供養する慰霊祭が行われる。戦争中は「日本人だった」韓国人朝鮮人148人も、死刑や長期有期刑に処せられ、23人が「日本人として」処刑されたので、有期刑で生還した元戦犯や遺族などが出席してきた。(台湾人も173人が有罪となり、26人が死刑となった)
2008年5月には、韓国・朝鮮人および台湾人BC級戦犯者補償法案が衆議院に提出され、民主党政権下で成立が期待されたが、政権交代により廃案となってしまい、敗戦から69年経つ今日まで未解決のままとなっている。
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・問題の背景:戦争中の1942年に、植民地下の朝鮮半島の20~35歳の若者が、「2年契約」という約束で軍属に徴用された。建前は募集に応じるものだったが、半ば強制だった。拒否しても徴兵や満州や日本国内の炭鉱などでの強制労働が待っていた。
3000人が釜山で二ヶ月の軍事訓練を受け、東南アジア各地の連合軍捕虜収容所で監視員についた。上官の命令に従うだけの軍属だが、捕虜の扱いを規定したジュネーブ条約を無視する日本軍の指示に従い、日常的に捕虜と接触する役割を果たしたため、強制労働と食糧不足と病気によりおびただしい死者を出した連合軍捕虜から恨まれたのが創氏改名により「日本名」を持つ韓国・朝鮮人だった。英軍将校ビンタしただけで、懲役2年の判決で服役した者もいる。
旧日本人軍人・軍属に対する軍人恩給は1953年に復活し支給されてきた。現在でも57万人が支給対象とされ、2014年(平成26年度)の恩給費予算総額は4,217億円にのぼる。しかし、恩給法・援護法など戦後の援護諸法は、国籍条項を設け、韓国・朝鮮、台湾人を排除し差別してきた。
しかし、国会は1987年に台湾人の旧軍人軍属戦没者遺族に対する弔慰金と、重度の戦傷病者に対する弔慰金又は見舞金を支給する法律を成立させたものの、日本軍幹部や将校の肩代わりで戦犯とさせられた韓国。朝鮮人に対しては、現在まで何の補償も謝罪もしていない。
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http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/05/01/_8ds7037.jpg初日はギャラリートークがあり、内海愛子恵泉女学園大教授(同進会を応援する会代表)の話があった。
最終日の29日は 「ある告発 24年目の戦犯」(日本TV 1969年 50分)、「第18田無住宅の夏」(NHK 1976年 30分)、 「チョウ・ムンサンの遺書 チャンギーBC級戦犯裁判」(NHK 1991年 60分)、 「ミッドナイト・ジャーナル」の補償請求裁判提訴前日報道(NHK、1991年 20分)、 「朝鮮人BC級戦犯の記録」(監督・本橋雄介 日本映画学校卒業作品 1997年 60分)が、李さんや内海さんの講演などを挟み上映された。私は、このうち3本を初めて見た。
http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/05/01/_8ds7072.jpgNHKのドキュメンタリーや映画をしばらくぶりに見て、72年前の軍属に取られたころの記憶を鮮明に思い出したと話した李さん。李さんが、政府や議員、司法に補償と謝罪を求めて働きかける最前線と共に闘った仲間の元気な声と姿がスクリーン上にあった。その仲間の大半が鬼籍に入り、いまでは5人が残るのみで、活動に参加できるのは李さん一人になった。
http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/05/01/_aaa5622.jpgイベントの最後には有田芳生参議院議員のトークもあった。
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◯刑死した趙文相(チョウ・ムンサン)の遺書
http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/images/2014/05/01/_8ds7023_2.jpgパネル右側が趙文相の遺影と遺書の一部が書かれたもの。左側のパネルは金貴好さんの遺書となった寄せ書きに描かれた自画像。
「あわただしい一生だった。二十六年間ほとんど夢の中に過ぎた。石火光中とはよくもいい表したものだ。この短い一生の間自分は何をしていたかが全く自分を忘れていた。猿真似と虚妄、何故もう少し生きなかったか。たとえ愚かでも不幸でも自分のものといった生活をしていたらよかったものを、~~~
◯取材のまとめ
チャンギー慰霊碑の裏面、下から二段目の右から8番目に趙文相の名が刻まれている。また、その段の奥には、李鶴来さんがPホール(死刑囚房)で一緒だった林永俊(イム・ヨンジュン)さんの名前も刻まれている。
なお、拙著の大型写真集「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶」(彩流社)には、李さんとソウルの朴さんの二人を収録している。また、連合軍捕虜の旧日本軍(軍属も含む)に対する恨みと報復感情が湧くことが実感できる泰緬鉄道建設に関わった旧日本兵らも3名収録している。加えて、シンガポール華僑粛清を首の皮一枚で助かった華僑の証言も収録している。