パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

嘘慰安婦問題が明らかになり、嘘徴用工問題がまた 始まった


反日左翼や 反日朝鮮人の嘘は 徴用工にも及んでいる。
在日韓国人は自分たちのルーツを徴用工とするが、それは虚言であった。
しかし 何社かの日本企業が補償を払ったため、彼らは生活保護と同様に利権としてしまったのだ。
日韓条約締結時に その支払いは行われたのだ。

「でも 韓国人は ダメxxxxxxx」
もうやめよう!!

日本総領事館前への徴用工像設置 警察が阻止=韓国・釜山

5/1(火) 17:58配信
聯合ニュース
 
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日本総領事館前への徴用工像設置 警察が阻止=韓国・釜山

【釜山聯合ニュースメーデーの1日、韓国の市民団体が日本による植民地時代に朝鮮半島から強制徴用された労働者を象徴する像を南部・釜山の日本総領事館前に設置する計画だったが、警察に阻止された。
 
総領事館付近でメーデーの記念集会を開いた市民団体のメンバー約4000人(警察推計)は、午後3時45分ごろから行進を始め、同5時ごろに集会を終えた。主催者側は総領事館の隣のビル前に置かれている徴用工像を動かさない方針を示した。
 
警察は約3000人を動員し、市民団体が徴用工像の設置を予告していた総領事館前の歩道など周辺を完全に封鎖し、総領事館への接近を阻止した。
 
市民団体「積弊(積み重なった弊害)清算・社会大改革釜山運動本部」の強制徴用労働者像建立特別委員会は、メーデーに合わせて総領事館前に徴用工像を設置する計画を明らかにしていた。前日の4月30日夜から像の設置を試みたが、警察は総領事館の周囲100メートル以内での集会や行進が禁じられていることなどを根拠に、同委員会メンバー100人余りを像から引き離す強制排除に踏み切った。もみ合いが起き、約10人が負傷した。
 
韓国政府は、総領事館前への像の設置は不適切との立場を表明していた。
【関連記事】
 

貼り付け元  <https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180501-00000056-yonh-kr>


 

news archives  より転載

在日朝鮮人、戦時徴用はわずか      245人 外務省が明らかに

在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人
2010.3.11 08:02
 
戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが10日、分かった。自民党高市早苗元沖縄・北方担当相の資料請求に対し、外務省が明らかにした。
 
資料は34年7月11日付で、245人について「みな自分の自由意思によって日本に留った者または日本生まれだ。日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない」と結論付けている。
 
永住外国人地方参政権(選挙権)を付与する法案の推進派は、在日韓国・朝鮮人が自分の意思に反し日本に住んでいることを理由の1つとして挙げてきた。
 
 
 
 
<1959年、発表当時の記事~大半、自由意志で居住 戦時徴用は245人>
 
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1959年7月13日 朝日新聞
『大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人』
 
在日朝鮮人北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。
 
一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関-釜山間の運航が止まるまでのわずか七ヵ月間であった。
 
一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである
 
朝日新聞』 1959年7月13日 2面
 
 
【要約】
在日朝鮮人の徴用者は245人」 
 
終戦直前、日本には200万人の朝鮮人がいた。 
・その内、140万人は終戦直後に朝鮮に帰った。 
・更に北朝鮮帰還事業などで10万人が朝鮮に帰った。 
・つまり200万人のうち、150万人…つまり75%が帰国した。 
・国民徴用令は1939年7月から施行された。(日本人と台湾人) 
・しかし朝鮮人には1944年9月まで適用されなかった。(つまり優遇されていた) 
・1945年3月には日韓フェリーが停止されたので、徴用が可能だった時期はたったの7ヶ月。 
・1959年の調査では在日における「徴用者」の人数は…たった245人だった。 
・現在、日本に残留している朝鮮人は「自由意志」による残留である。(犯罪者を除く) 
 
 
 
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm9976500 
 
 
 
【外務省発表資料】
 
「昭和35年2月発行『外務省発表集10号』
 
《一、第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがってまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。実情は次のとおりである。
一九三九年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約一○○万人であったが、一九四五年終戦直前にはその数は約二○○万人に達していた。そして、この間に増加した約一○○万人のうち、約七○万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの三○万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労働者の数はごく少部分である。しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。
元来国民徴用令は朝鮮人(当時はもちろん日本国民であった)のみに限らず、日本国民全般を対象としたものであり、日本内地ではすでに一九三九年七月に施行されたが、朝鮮への適用は、できる限り差し控え、ようやく一九四四年九月に至って、はじめて、朝鮮から内地に送り出される労務者について実施された。かくていわゆる朝鮮人徴用労務者が導入されたのは一九四四年九月から一九四五年三月(一九四五年三月以後は関釜間の通常運航が途絶したためその導入は事実上困難になった)までの短期間であった。
二、終戦後、在日朝鮮人の約七五%が朝鮮に引き揚げたが、その帰還状況を段階的にみると次のとおりである。
まず一九四五年八月から一九四六年三月までの間に、帰国を希望する朝鮮人は、日本政府の配船によって、約九○万人、個別引き揚げで約五○万人合計約一四○万人が朝鮮へ引揚げた。右引揚げにあたっては、復員軍人、軍属および動員労務者等は特に優先的便宜が与えられた。
ついで日本政府は連合国軍最高司令官の指令に基づき一九四六年三月には残留朝鮮人全員約六五万人について帰還希望者の有無を調査し、その結果、帰還希望者は約五○万人ということであったが、実際に朝鮮へ引揚げたものはその約一六%、約八万人にすぎず、残余のものは自から日本に残る途を選んだ。
なお、一九四六年三月の米ソ協定に基づき、一九四七年三月連合国最高司令官の指令により、北鮮引揚計画がたてられ、約一万人が申し込んだが、実際に北鮮に帰還したものは三五○人にすぎなかった。
朝鮮戦争中は朝鮮の南北いずれの地域への帰還も行わなかったが、休戦成立後南鮮には常時船便があるようになったので、一九五八年末までに数千人が南鮮に引揚げた。北鮮へは直接の船便は依然としてないが、香港経由等で数十人が、自からの費用で、船便を見つけて、北鮮に引揚げたのではないかと思われる。
こうして朝鮮へ引揚げずに、自からの意思で日本に残ったものの大部分は早くから日本に来住して生活基盤を築いていた者であった。戦時中に渡来した労務者や復員軍人、軍属などは日本内地になじみが少ないだけに、終戦後日本に残ったものは極めて少数である。
三、すなわち現在登録されている在日朝鮮人の総数は約六一万人であるが、最近、関係省の当局において、外国人登録票について、いちいち渡来の事情を調査した結果、右のうち、戦時中に徴用労務者としてきたものは二四五人にすぎないことが明らかになった。そして、前述のとおり、終戦後、日本政府としては帰国を希望する朝鮮人には常時帰国の途を開き、現に帰国した者が多数ある次第であって、現在日本に居住している者は、前記二四五人を含みみな自分の自由意思によって日本に留まった者また日本生まれのものである。したがって現在日本政府が本人の意思に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない。
 
在日朝鮮人の来往特別内訳
 
登録在日朝鮮人総数                     六一一,○八五
 
内訳
(1)所在不明のもの(一九五六年八月一日以降登録未切替)  一三,八九八
(2)居住地の明かなもの                       五九七,一八七
 
(2)の内訳
(A)終戦前からの在留者                 三八八,三五九(六五・○%)
(イ)一九三九年八月以前に来住したもの       一○七,九九六(一八・一%)
(ロ)一九三九年九月一日から一九四五年八月十五日までの間に来住したもの
                                   三五,○一六(五・八%)
(ハ)来住時不明のもの                   七二,○三六(一二・一%)
(ニ)終戦前の日本生まれ                  一七三,三一一(二九・0%)
(B)終戦後の日本生まれおよび入国者          二○八,八二八(三五・%)》
 
 
 
 
 
 
 
朝鮮人の日本渡航の実態>
 
日韓併合 韓民族を救った「日帝36 年」の真実 祥伝社

崔基鎬(チェ・ケイホ)

たとえば、忠清南道で実施された徴用の例でいうと、公州・扶余・論山・青陽・舒川などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000 名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000 名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。

(略)

こうして厳選された約1000 名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9 月11 日、論山出発、翌日12 日元山港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。

多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通り遊郭回りに憩いを求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。

このような徴用の光景は、1945 年まで毎年見られた。

(略)

待遇は、一般の事務職よりも約三倍程度高額の給与が与えられ、月平均給与額は120 円程度。作業はほとんど採鉱器を活用、削岩機・ドリル・トロッコが使われた。

重複勤務の希望者が多く、八時間制の三交替で一般的傾向として月間約10 日、または15 日が重複勤務の場合、割増金を合計すると、月間180 円から220 円の支給額となったから、事務職、または本籍地の労働者の、約四倍ないし五倍以上の厚遇であった。(略)

一般の独身者には、寮などが無料で提供され、世帯持ちにはとくに独立の平屋建てが一戸ずつ提供されたから、本籍地または現地の未婚女性たちの結婚相手としても人気があったのは当然であった。

http://resistance333.web.fc2.com/html/forced_labor.htm


 
 
「いっしょに日本行くんじゃ」
●M・Kさんの証言 【1967年記録、当時64歳女性】 
 
14のときよ、うちが日本、来たのは。紡績工場、働きに来たんじゃけ、あのとき、年ひとつ足りんのよ。15じゃいうて姫路の紡績工場、働きにはいったんじゃ。 

大けな工場でのう、朝鮮の娘、300人ぐらいおったよ。寮二つに、いっぱいじゃった。 

 

うちは自分の自由で、自分から望んで、ムリヤリ、日本、来たんじゃ。家出するみたいに、来たんじゃ…。はぇ、日本、いきたいてのう、ものすごく日本ええところじゃ思うて、いきたいんよ。日本の話、きいたら、はぇ、胸がトクン、トクン鳴るんよ。(略) 

 

あの時分は、日本行ってから、金もうけて帰った人らの話が、村の誰が日本いって、なんぼ金もうけて帰ってきた、借金返して、流れた田んぼ買うたとか、牛買うた、そんな話が、あっちでもこっちでも持ちきりじゃったよ。 

はぇ、いなかの村で、はだか足で百姓しとったもんがの、日本行って帰ってくるときはの、西洋帽子、頭のせて、洋服きて、はぇ、皮靴(ママ)はいて、村帰ってくるじゃけえ、日本の国、黄金ナラみたい思うたんじゃ。 

おお、日本、開明(文明開化)ナラじゃ、電気明るいし、男も女でも働いたら、働く分、金になるんじゃ、なんぼでも金もうけでける国じゃ、そんな話、きくのよ。 

 

うちが、13の春じゃった。となりの村、15になる娘がおったんじゃ、これ、募集屋来てからの、紡績工場連れていったんじゃが、この娘が働いてから、何十円か、金、送ってきたゆうて、はぇ、村中、えらい評判立ったんじゃ。(略) 

うちはその話きいてからの、(略)「日本の国、行かして下さい、日本の国行くんじゃ」なんぼ、頼んで泣いても、お父さん、きかんのじゃ。 

 

「とんでもないこと言いだしおる! 女がよその土地、出かせぎに行くのは賎民らのすることじゃ…」言うて、はぇ、頭っからきいてくれんのよ。…うちは、村でもの、大けな家じゃったけえ、瓦屋根の、両班じゃったけえ、まあ、喰うに困る暮らしじゃないしのう、なんぼ頼んでも、行かしてくれんのよ。 

あれが、うちが14のときよ。一つ上のいとこの姉さんがの、日本行って帰ってきた人に嫁入りしたんじゃ。それが、こんど日本いっしょに行くんじゃ言うての、挨拶しにきたんじゃ。…うちは姉さんがうらやましゅうてのう、うちもついて行きとうて、かなわんのよ。家の門まで見送り出たのが、はぇ、村の外までついて行ってからの、うちが泣いて、泣いて、どこまでもついて行きおるじゃけ、「いっしょに日本行くんじゃ」言うての。それでとうとう、うちのお母さん、あきらめたのよ。「よろしゅうに頼みます」包みつくって。 

それで、いとこの姉さん夫婦について馬山から釜山に出ての、釜山の旅館、ひと晩泊まったんじゃ。はぇ、釜山の町も旅館も、日本行く人らでものすごかったんじゃ。 

うちは、急にこうなったんじゃけ、証明書(渡航許可証明書)がないんよ。それが、旅館で知りおうた女の人、30ぐらいのおばさんがひとりおったんじゃ。この人の娘じゃいうて、連絡船乗ったんよ。(略) 

 

三年働いたら、嫁入り支度してからの、ふとん皮やら布地、行李二つ故郷送ったら、現金が60円残ったよ。それで故郷に帰った。 

五月じゃったか、村の人ら田植えしとる道、うちが、こう人絹の白いパラソルさしての、水色のチョゴリ着て、こうひざ下の短いチマはいて歩くとの、革靴が鳴るんじゃ。それから、はやりの大けなバスケットさげてから、村の道通ったら、はぇ、口がわるいんじゃ。 

「日本がえりじゃ、日本がえりが通るよ」いうて、みんなぁ指さしてみるんよ。 

この年の秋に、おなじ村におった人のところ嫁入りして、夫婦いっしょにまた、日本きたんじゃ。(略) 

 

~『もうひとつのヒロシマ』 朴 壽南 1983 (「アリランのうた」制作委員会)~ 
http://mikomo.my-sv.net/v-f0.htm
 

 
 
「これでは困る韓国」ニューカマー韓国人の対話 呉善花、崔吉城 より 
 
呉「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。 

強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。」 

崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。ところが、そうであるにもかかわらず、意識としてはそうじゃなくなっているんです。自分も植民地のときに強制的につれてこられたのだと、これはアイデンティティとしてそうなってしまっているんです。」 

呉「なるほど、意識と実際は違うということですね。」 

崔「実際は強制されてきたのではなくても、我々は強制されてきたんだという、そういう物語をつくってそれを自分の意識としてもつんです。 ここが在日韓国・朝鮮人を考える場合のかなり大きなポイントです。 

(中略)それで一世たちはそういう物語を二世、三世に懸命に教えるんです。」 
呉「なんのために教えるんですか」 
崔「民族意識を守り、それを子孫に伝えるためです。」 
 
 
<在日強行連行説は左翼が在日の地位向上のために広めた大嘘>
 
http://www.youtube.com/watch?v=9NA22FXZDcY ;

宮台真司が左翼の嘘を語っている 

 

宮台「在日の大半は韓国を捨て日本に一旗上げに来た連中 

韓国では在日は日本なんかにいきやがった裏切り者として差別の対象になる。 

左翼はそういった部分を覆い隠し 左翼は弱者を守るということで在日が強制連行されたと嘘をついてきた 在日のかたも都合がいいからそれに甘んじる」 

「在日の中には本当に強制連行されたと信じてしまって、それにたいして批判する人間を 右だの国家主義だの批判をしてきたツケを浴びた」 


12歳のときに徴兵できたと嘘をつく、御婆ちゃん。 
http://www.youtube.com/watch?v=lCbB1BAcN3 ;

 

証拠があるのに何で嘘をつくんだと諭す正直な息子 
あのときは徴兵はなかった、自分の意志で来る時代だったと息子に論破される。逆切れした御婆ちゃん「なにいってんのあんた 工場で働いたのよ。私は徴兵できたのよ。友達がしってる。うちの息子はササン(思想)がないの」 
 

 
 
【柳智成氏さんの朝日新聞投稿文での変遷】 
 
2002 「祖父は強制連行された」 
↓ 
2010 「祖父母は植民地支配による生活苦で渡日した」 
 
朝日新聞 「声」平成14年11月13日朝刊】 
 
親だからこそ子どもに早く 会社員 柳智成さん(東京都千代田区 32歳) 
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)によって人生を狂わされた被害者の方々は、できることならすぐにでも北朝鮮に行って、子供たちに真実を語ったほうがいいと私は思う。 
事実を知った子供たちの衝撃は計り知れない。しかしそれをしないと何も始まらない。あなたたちは親じゃないですか。だれが代わりになれるのですか。国家ですか、政治家ですか、それとも「救う会」ですか。 
私は16歳の時、突然親から「お前は本当は韓国にルーツを持つ朝鮮人だ。区役所に行って外国人登録証明書を作るように」と言われた。祖父が日本に強制運行されたことも初めて聞いた。その「宣告」から16年、日本人と朝鮮人をちょうど半分ずつ生きてきた。いま私は、ダブルのルーツを意識することで何とかバランスを維持している。 
子供にとって、よりどころとなるのは家族しかいない。被害者の方々は、日本への帰国をはっきり宣言した上で、外務省関係者の同伴つきで一度戻った方がいい。日朝の駆け引きのはざまで翻弄されるだけでなく、果敢に向かっていってほしい。 
 
↓ 
 
朝日新聞 「声」平成22年1月25日朝刊】 
 
もっと簡易な帰化制度望む 会社員 柳 智成(川崎市多摩区 40歳) 
永住外国人地方参政権を付与する法案についての反対意見が一部に根強くある。 
僕の祖父母は80年前に日本の植民地支配による朝鮮での生活苦から渡日した
 
そして2世の両親が日本で生まれ、3世の僕も、4世の娘も、この日本で生を受けた。 
日本語を母語とし、日本の文化を自らのアイデンティティーとして育った僕らは、いまだに、そして永遠に、外国人でよそ者だ。 
 
僕の祖父母のような、歴史的経緯のある永住外国人定住外国人の子孫には、地方参政権付与などその場しのぎの政策ではなく、日本国籍を取得する権利にこそ、深く踏み込んで論議してほしい。現在1年近くかかる手続きを、例えば書類一枚で認められるような、国籍を取得したい人にとって簡易な帰化制度に変えていただきたい。現状では精神的なハードルが高すぎる。
 
日本は、勇気をもって多民族国家への道を歩み、「日本国民」の枠組を大きくしていただきたい。それこそが在日韓国・朝鮮人に対する歴史的贖罪であり、責任の一つの取り方である。 
 
 
 
 
 
「密航4ルートの動態 日韓結ぶ海の裏街道 潜入はお茶のこ 捕わる者僅か2割」

朝鮮南北戦争の拡大によって憂慮されることは、南鮮避難民の日本への殺到だ。終戦以来、“悩みのタネ”となっているこの密入国は、今次の戦乱で明日にでも、どっと押寄せてくる危険がある。目下、政府は緊急対策をねっているが、今ここに“日本密航への途”を衝き、その実態を明らかにしてみよう。

密入国および不法入国は近来、職業的な密輸密航に変り、手口も巧妙となり、取締法規の盲点をつく知能犯的性格をおびてきている。密航のルートには現在、大別して次の4つがある。

1、歴史的、地理的に朝鮮と特殊関係にある対馬は、絶好の中継基地で、釜山から30浬、壱岐から40浬、平戸から53浬の地点にあり、西北端北緯40度、東経 135度から西南海上に北緯34度、東経127度40分に“マッカーサー・ライン”が引かれているが、その最も近接地点である棹崎はマ・ラインから僅かに 1000米。韓国船舶は自由に航行し、潜入できる。ここへ上陸すると今度は遭難をよそおって福岡付近に漂着。地方自治体官公吏などを恐喝或いは買収して入国するのがこれまでの例だ。

2、 ウラジオストックから出て、リマン海流に乗って隠岐佐渡から警備の薄い島根、新潟、山形方面へもぐりこむ。このルートは別名徳田ラインとも呼ばれ、政治的目的を持ったものが大半だという。

3、 釜山、木浦、麗水の南鮮各港から大きく迂回して鹿児島、薩南諸島を回り、瀬戸内海、四国、近畿地方に上陸する。このルートは密輸という単純な目的のものが多く、暴風雨で難破するものも多い。22年から24年までに約1000名を逮捕。

4、 北鮮の海州、羅津、清津各港から済州島と連絡。そこを基地として九州、西日本一帯に潜入するルートで政治的目的を持ったものが過半数である。

これら4ルートを通じて終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる。

 

<敗戦国の悲しさ>

これが取締りは目下、海上保安庁と国家警察本部が当っているが、密輸団は火砲装備を持っているに反し、我が監視船は何ら装備なく、捕捉率はきわめて悪く、密輸船の2割程度しか捕捉出来ない現状にある。また、入国した際の外国人登録証明は暴力と買収につきるといわれ、それがそのまま合法化する場合が多いようだ。

密輸取引物資は、日本から文房具、化粧品、薬品、繊維製品、金属製品、機械類で、朝鮮からは米、焼酎、牛皮、生ゴム等が持ち込まれ、徳田ラインからは拳銃等も持ち込まれているといわれる。日本から機械類を運ぶのは、北鮮の各工場でソ連製機械部品を取り付けるには7年以上を要するので、手軽な日本製を求めるからだという。 <対策に手を焼く取締当局>

逮捕された朝鮮人は、佐世保港外針尾収容所に送られるが、この収容能力は800名で、到底収容しきれず、また送還しても何ら不法入国についての刑罰的規定がないので、何回も渡航を企て、当局でも全くその対策には手を焼いている模様だ。 今次、南北鮮戦争から今後、南鮮からの密入国者は莫大な数字に上るものと予想される折柄、その根本的対策の樹立がきわめて注目されている。

 

昭和25年(1950年)6月28日(水)付産経新聞朝刊

http://netpolitica.seesaa.net/article/130055429.html