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日本の天皇をなお「日王」と呼ぶ



日本の天皇をなお「日王」と呼ぶ人々の複雑感情

4/7(日) 5:10配信
東洋経済オンライン
 
日本の天皇をなお「日王」と呼ぶ人々の複雑感情
新しい元号も発表され、天皇陛下の譲位がいよいよ4月30日に迫ってきました。譲位された後、天皇陛下上皇皇后陛下上皇后になられます(「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の第3条と第4条による)。敬称は、今後も両陛下ともに「陛下」のままとされています。
 
この天皇や皇帝、王に対して用いられる「陛下」という敬称ですが、そもそもいったいどういう意味があるのでしょうか。国家の最高地位者に対し、「下」という文字が使われるのはいったいどういうことなのでしょうか。
■なぜ「下」なのか
 
「陛下」は紀元前3世紀、秦の始皇帝の時代から使われ始めました。日本でも律令制の確立とともに8世紀には、天皇に「陛下」の敬称を用いることが定められます。「陛」は「きざはし」と訓読みし、皇帝の住む宮殿へ通じる階段を意味します。
 
ただし皇帝はその階段の上にいるはずですから、「陛下」ではなく、「陛上」となると考えると自然ですが、いったいなぜ、「下」なのでしょうか。
 
これには理由があります。当時、人々は皇帝に直接、話しかけることはできませんでした。皇帝の侍従を通じて奏上することができたのです。この侍従は宮殿の階段の下に控えていました。そのため、「階下の者を通じて、奏上致します」という意味で、「陛下」と呼びかけたのです。
最初、「陛下」というのは、皇帝に奏上する際に使われる枕詞のようなものでしたが、次第にそれ自体が皇帝を表す尊称として使われるようになります。しかし、中国では、「陛下(ピーシャ)」よりも「皇上(ホアンシャン)」の敬称のほうが頻繁に用いられました。
 
皇太子をはじめ皇帝の子や皇族は「殿下」と呼ばれます。「殿下」の「殿」は宮殿のことです。「宮殿の下に控える侍従の者を通じて申し上げます」という意味で使われ、「陛下」よりも一段格下の尊称として使われます。
さらに、重臣に対しては、「閣下」の尊称が使われます。「殿下」よりも一段格下です。「閣」は楼閣を意味します。現在では、大統領や首相、大使などに対しても用いられます。
 
ちなみに、聖職者に対する尊称もあります。ローマ教皇正教会の総主教などキリスト教における最高位の聖職者には、「聖下(せいか)」が用いられます。仏教の高位聖職者には、「猊下(げいか)」が用いられます。猊とは「獅子」のことです。仏典では、ブッダを「人中の獅子」としており、ブッダや高徳な人の座るところを獅子座と呼びました。チベット仏教ダライ・ラマ法王にも「猊下」の尊称が使われます。「聖下」と「猊下」には、どちらが格上・格下かの区別はありません。呼び方が異なるというだけのものです。
 
このように、最高地位者に対し、「下」という文字を使うのは「下にいる侍従を通じて、申し上げる」という意味が一様にあるからです。
 
■朝鮮王が「陛下」ではなく、「殿下」と呼ばれたワケ
 
皇帝や王などの最高地位者には、「陛下」の敬称が用いられますが、例外がありました。かつての朝鮮王です。
 
朝鮮王は「陛下(ペハ)」ではなく、一段格下の「殿下(チョナ)」と呼ばれました。朝鮮はそのほとんどの歴史において中国の属国であり、独立した国家ではありませんでした。その王は中国皇帝の配下であり、「陛下」と呼ばれる一国の主権者ではなかったのです。
古代中国には、郡国制という地方制度がありました。これは地方に諸侯王を配し、彼らに地方政治を委任するという制度です。漢王朝の時代に起きた「呉楚七国の乱」という反乱を聞いたことがあると思います。呉や楚などの七国は「国」と称されるものの、「国家」ではなく、漢王朝の一部としての地方に過ぎません。諸侯王は「王」と称されるものの、いわゆる「国王」ではなく、漢王朝の地方知事の役割を背負っていました。
 
また、中国はこうした主従関係を周辺諸国(地域)にまで拡大し、その君主や首長に王や侯などの爵位を与え(冊封)、藩属国として中国の影響下に置きました。これにより、さまざまな程度の差はありながらも、中国は周辺を従属させます。この中国中心の統治システム・国際秩序を冊封体制と呼びます。
中国には、こうした郡国制や冊封体制のような伝統もあり、「国」や「王」が多用されることがありますが、それは近代で使われる主権国家の国や国王とは意味が異なります。
 
李氏朝鮮3代目の太宗が明王朝によって朝鮮王に冊封されますが、これも「郡国」的な意味における諸侯王という扱いにすぎません。そのため、朝鮮の王は「陛下」ではなく、「殿下」と呼ばれます。その世継ぎも「太子(テジャ)」ではなく、一段格下の「世子(セジャ)」と呼ばれます。この他、朝鮮王に「万歳(マンセー)」は使われませんでした。「万歳」は中国皇帝にのみ使われるもので、朝鮮王には「千歳(チョンセー)」が使われました。明確な序列関係があったのです。
 
かつて、ソウルの西部には、迎恩門と呼ばれる、中国の勅使を迎えるための門がありました。朝鮮王は中国の勅使がやって来る時、自らこの門にまで出向き、三跪九叩頭の礼で迎えました。
 
三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対して行う最敬礼です。皇帝の内官(宦官)が甲高い声で「跪(ホイ)!」と号令をかけると、土下座し、「一叩頭(イーコートゥ)再叩頭(ツァイコートゥ)三叩頭(サンコートゥ)」という号令の度に頭を地に打ち付け、「起(チー)」で立ち上がります。そして、また「跪(ホイ)!」で、土下座して同じ行動をします。この土下座のような動きが計3回繰り返されます。
中国の朝鮮支配は長く続きましたが、1894年の日清戦争で、日本が清王朝と戦い、勝利します。翌年、下関条約により、清が朝鮮の独立を承認します。1897年、独立した朝鮮は「大韓帝国」と国号を名乗りました。「韓」は王を意味する雅語で、古代において、三韓にも使われていました。朝鮮王は皇帝となり、「殿下」ではなく、「陛下」と呼ばれるようになりました。
 
当時、朝鮮の人々はこれを非常に喜び、中国への隷属の象徴であった迎恩門を取り壊し(屈辱を忘れないために、2本の迎恩門柱礎だけを残し)、新しい門を同じ場所に建てました。これがソウル西部の西大門広場に今も残る「独立門」です。
天皇を「日王」と呼ぶ韓国

 話が前後しますが、明治維新を遂げた日本の新政府は1868年、国交と通商を求める国書を朝鮮に送りました。しかし、朝鮮はこの国書の受け取りを拒否します。国書の中に、「皇」や「勅」の文字が入っていたからです。

「皇」や「勅」を使うことができるのは中国皇帝のみであり、こうした国書は日本の中国皇帝に対する挑戦であり、容認できるものではない、と朝鮮は考えたのです。これは、華夷秩序という儒教に基づく考え方で、中華に周辺国が臣従することにより、国際秩序(前述の冊封体制)を維持すべきとするものです。

朝鮮はこうした考え方を歴史的に有しており、天皇を「皇」の字のある「天皇」とは決して呼ばず、「倭王」と呼んでいました。近代以降は「日王」と呼びました。中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な「天皇」を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、「天皇」を頑なに拒み続けたのです。

それが今日でも続いています。文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題で、天皇が謝罪すべきと発言しました。日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。

李明博(イ・ミョンバク)元大統領は2012年、天皇陛下を指して「日王」と呼び、「日王が韓国に来たければ、独立運動家に謝罪せよ」と発言したこともありました。

朝鮮は自らの王を「陛下」ではなく、「殿下」と呼び、華夷秩序の従属に縛られてきました。しかし、下関条約後、朝鮮は大韓帝国として独立し、朝鮮王は皇帝となります。朝鮮は華夷秩序から脱却するという歴史的悲願を達成したのです。

韓国が天皇陛下を「日王」などと呼ぶことは、かつて民衆を苦しめた華夷秩序の考え方に後戻りすることになることともいえます。呼称に込めれた意味と歴史的背景、ニュースで見聞きした際、ぜひそんなことにも思いを巡らせてみるといいかもしれません。
宇山 卓栄 :著作家