パルデンの会

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「炭鉱現場、待遇の差なかった」 学術的裏付け


産経ニãƒ\ース

「炭鉱現場、待遇の差なかった」 

九大・三輪宗弘教授
■「徴用」記憶遺産申請方針の韓国は事実に基づく主張を 
 韓国聯合ニュースへ対抗
■「徴用」記憶遺産申請方針の韓国は事実に基づく主張を
韓国聯合ニュースは今月13日、
韓国政府が日本による朝鮮人徴用の記録資料について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に申請する方針だと報じた。韓国側は「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録時と同じように、日本による「強制労働」「強制連行」の非を世界に訴えるとみられるが、徴用について長年研究している九州大大学院の三輪宗弘教授(経営史、軍事史)は「炭鉱現場などで制度上、日本人と半島出身者の間に差別はなかった」と反論した。
まず、さきの大戦中には「強制連行」という言葉はありません。
半島出身者の戦時動員を「強制連行」と表現したのは、朝鮮近代史家の朴慶植(パクキョンシク)氏が昭和40年に出版した「朝鮮人強制連行の記録」が初めてでしょう。
朴氏は、炭鉱への戦時動員を民族差別政策と断じ、賃金や職種、宿舎、食事などあらゆる面で差別があったと主張しています。
「町を歩いている者、田圃(たんぼ)で仕事をしている者など手当たり次第、そのままトラックに乗せて、日本に連れてきた」などと、徴用を担当したという労務係の証言を、伝聞として掲載し「強制連行」のイメージを作ったのです。この伝聞は日本の歴史教科書にも採用されました。
韓国側が「強制連行」と訴えるのは、昭和14(1939)年に始まった「朝鮮人内地移送計画」を指すと考えられます。
移送といっても、時期に応じて「自由募集」、企業主が朝鮮総督府に依頼し、現地人を介して人を集める「官斡旋(あっせん)」、そして強制力を持った「徴用」の3形態に分かれます。
朝鮮半島の人口は、日韓併合時の1300万人から、30年後の15(1940)年には2400万人に増えました。
農村から都市へ人が流入したのですが、食い扶持がなく、日本に出稼ぎを希望する人が多かった。移送計画開始当時は、募集人員に対して2倍の希望者があったケースもあった。
韓国側は強制的に連れて行かれたと主張しますが、自ら日本に来た人も多い。なんともおかしな話です。
また、自由募集と官斡旋は期間が定められました。
明治鉱業平山鉱業所(福岡県)が16(1941)年、朝鮮総督府に提出した朝鮮人労働者の募集要綱では、雇用期間を2年に定めていました。当時、石炭産業では主に2年間が契約期間でした。常磐炭田(茨城県)の資料では、2度契約を更新すれば賃金は2倍にする、として契約延長を呼びかけたとされています。
期間を定めていること自体、奴隷のような強制連行ではなかったことを示しています。
ただ、日本の戦局悪化に伴い、半島からの希望者が減っていきます。また、日本本土の若者が徴兵され、炭鉱は労働力不足となります。そこで「徴用」が始まります。
国家総動員法に基づく「国民徴用令」は半島からの移送計画と同じ14年に施行され、まず内地人(日本人)に適用されました。拒否すれば罰則(懲役1年以下、罰金1千円以下)が科せられます。
その後、労働力不足が加速し、半島居住者に徴用令の適用が拡大された。19(1944)年9月のことです。
ところが、連合国側が日本周辺の制海権を掌握し、20年3月末には、釜山と山口・下関を結ぶ関釜連絡船の航路が途絶えました。半島での徴用は、実質7カ月間で終わったといえます。
炭鉱では朴氏が主張するような、待遇差別が制度的にあったのでしょうか。
中央省庁の企画院や朝鮮総督府が制定した「昭和16年度労務動員実施計画に依る朝鮮人労務者の内地移入要領」では「朝鮮人労務者の処遇については、できるだけ内地人との間に差別がないよう」にとあります。
私は平成16年以降、資料にあたってきましたが、内地人と半島居住者の間に賃金の区別があったと示す資料は見当たりません。
昭和18年6月の九州鉱山学会誌によると、赤池炭鉱(福岡県福智町)の採炭労働者1人あたりの平均日給は、内地人4・65円に対し、朝鮮半島出身者は4・64円でした。わずかな違いは、熟練度の問題でしょう。炭鉱労働は、いくら石炭を掘り出したかという出来高払いでした。
財団法人労働科学研究所の「半島労務者勤労状況に関する調査報告」によれば、19年頃の九州での炭鉱の賃金は1日4~8円。各種手当がついて月収は150円。多い人で300円を稼ぐ人もいました。
大卒事務系の初任給は75円程度です。石炭採掘は確かに危険を伴い、命を落とした人も多い。その分、厚遇されたのも事実です。
九州鉱山学会誌(18年6月)に掲載された報告書には、半島出身者への娯楽として「朝鮮将棋、笛、角笛、運動会」があったことも書かれています。
日本人の男性が足りない中、朝鮮半島出身者の力が、石炭増産に貢献したのは間違いない事実です。半島出身者も日本人も、同じ条件の下で、金を稼いでいたのです。日本も謝るべきは謝る。感謝すべきは感謝すればよいでしょう。
韓国にとって、強制連行は日本に植民地にされたという屈辱のシンボルなのでしょう。ですが、事実に基づかない主張では未来志向の日韓関係は築けません。
■「ものすごい稼ぎ高」「優遇設備」…新聞も厚遇ぶり報道
朝鮮半島から日本内地に渡った炭鉱労働者が厚遇されていた実態は、当時の新聞報道からも、うかがえる。
大阪朝日新聞は、昭和15年4月21日付の中鮮版(朝鮮半島中部)で「朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備 まるで旅館住ひ(ずまい)同様」を見出しに、福岡県水巻町の炭鉱の鉱業所が、朝鮮人労働者向けに新築の社宅とアパートを建設したと報じた。記事には、浴槽につかる朝鮮人労働者の満足げな写真も掲載しており、韓国政府が主張する「強制労働と人権蹂躙(じゅうりん)の現場」とは、ほど遠い印象を与える。
15年5月28日付の南鮮版(朝鮮半島南部)も、「朝鮮人鉱夫の物凄(ものすご)い稼高」の見出しを取って、同県北部の炭鉱で働く半島出身者の高賃金を記事にした。
朝鮮人労働者400人は同年3~4月の2カ月で総額1万7千円、1人あたり1カ月21円を故郷に送金した。契約期間後に支払われる、義務貯金と郵便貯金は計1万7、8千円稼いだという。記事は「その勤勉力行ぶりは全く内地人鉱夫たちの範とするに足る」と持ち上げた。