昨日の 徴用工 問題について もう少し情報を集めてみた
朝鮮人強制連行
| |
●今日強制連行といわれるものは当時は労務動員とか徴用とか呼ばれていたもので、朝鮮人を対象にしたものというよりは日本国民を対象にしたものである。朝鮮人も日本人も当時は日本帝国の一部を構成していたことを忘れてはいけない。労務動員とは戦時期の日本帝国の国民に課せられた運命共同体のようなもので、多くのエスニック朝鮮人はそれを義務や運命と考え従属的に参加していたのである」
●この言葉(強制連行)は戦後生み出されたものであり、とりわけ1965年に刊行された朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」(未來社)の影響が多い。端的にいうと、それは50年代から60年代にかけて森田芳夫氏が発表した在日論へのアンチテーゼとして提示されたものである。
●在日一世の多くは「出稼ぎ者」であり、よりよい生活をするために故郷の農村を離れ、内地での生活を始めたのだと森田が言ったのに対し、いやいや「朝鮮人は自ら好んで日本に渡ったのではなかった」と。
●内地に国民徴用令が施行されたのは1939年7月であるが、朝鮮においては「自由募集」(39年9月~42年1月)や、「官斡旋」(42年2月~44年8月)の時期を経て、戦争末期の44年9月からのことである。戦争が長期化すると、徴兵が拡大し労働力不足が生じるから、それを補うために労働力の統制・動員が強化される。国民徴用令の朝鮮における施行は、内地や台湾に比べて遅れたのだ。
●朝鮮人であれ台湾人であれ、当時の日本人は戦時体制に従属的に参加していたのであり、朝鮮人の中に炭坑や建設現場といった劣悪な労働環境で働かされた者が、少なくなかったのは事実だとしても、それを言うなら、多くの日本人は戦場に送られた。戦場の兵士に比べて炭坑に徴用された者が、「不条理な生と死を強制された」などと言えるだろうか。
《鄭大均 諸君!2003/1月号》
●「強制連行」の真相…
昭和13年に制定された国家総動員法に基づいて、翌年7月に発令された「国家徴用令」の朝鮮・台湾における適用のこと。内地では、発令とともに全ての日本人が戦時生産力増強のために徴用の対象になり、後にその対象は男女の学生にまで及んだ。
●朝鮮半島における徴用は、当初内地のように強制という形式をとらず「募集」形式をとり、昭和19年9月から内地なみの「徴用」形式となった。秦氏が言うように、内地勤務募集の希望者は、高給のためもあり相当数に及んだが、その背景に朝鮮の農民の生活逼迫があった。
●さらに内地での労働条件が、日本人に比して著しく劣悪であったり、酷い差別が行われ、ことに米軍の本土空襲が始まって以降は、待遇も悪化し甚だしい苦痛を受け、あるいは病に苦しみ、また生命を落とした方もたくさんいた。
《福田和也 諸君!2003/2月号》
●強制連行が、合法的か非合法かで問題は全く違ってくる。合法的とは容疑者や徴用された者などを示し、法的には問題ないが、非合法の強制連行ならズバリ犯罪である。
《小室直樹 「日本国民に告ぐ」》
(他著書「国民のための戦争と平和」)
●外務省が昭和34年7月、在日韓国・朝鮮人について発表している数字…
◇昭和20年の終戦直前には2倍に増加し200万人。
…増えた100万人の内、70万人は自ら内地に職を求めてきた渡航者と、内地での出生による自然増加。残り30万人の大部分は、鉱工業や土木事業の募集に応じて自主的に契約した朝鮮人。徴用令による戦時徴用者は、ごく少数だった。
●法務省内部資料によると、「占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し運賃無料」で帰国させ、昭和21年末までには約140万人が帰って行き、自分の意志で残留を希望した60万人が日本に留まった。
《八木秀次 「日本を貶める人々」》
「両親は南朝鮮の慶尚北道金泉郡という地方の出身だったが、私が1941年生まれだから日本に来たのは39年か40年だろう。父の家は貧しい小作農だった。日本に来たのは、そのほうがまだ食える、という程度の理由であったらしい。村役場で『工員募集』の貼り紙を見つけ、父はすぐさま応募した。釜山の港から船に乗って下関に渡る。東京での生活の足場を築いた後、母を呼び寄せた。そこで生まれたのが私だった」
…というケースが殆どだったのだろう。
《新田均 〃 》
《渡部昇一 〃 》
(他著書「日本を誣いる人々祖国を売り渡す徒輩を名指しで糺す」)
●「徴用」以前に”人さらい”まがいの「強制連行」がなかったことは、当時の日本が朝鮮からの密入国に悩まされており、昭和14~17年までの間に1万9千人を朝鮮へ強制送還している(しかも1人当たり2円とか3円とかの費用を使って)事実から明らかだ。勝手に密入国してくる朝鮮人が多数いるのだから、わざわざ”人狩り”などする必要ない。朝鮮で”人狩り”をしながら、他方で密入国者を強制送還していたなどということがあろうはずがない。
●勤労動員は朝鮮半島からだけではなく、内地で真っ先に始まった。豆腐屋などの商店も強制的に廃業させられて軍需工場に徴用されたし、中学生・女学生まで動員された。当時国民学校、今の小学校の生徒だった筆者ですら、勤労奉仕と称された農作業の手伝いや防空壕掘りに汗を流した。国の存亡を懸けて戦争をしているときは、そういう非常措置もやむを得ない。
●朝鮮半島から徴用され動員された職場は、炭鉱の坑内作業や土木工事など重労働が多かったが、それだけ高い賃金が保証されていた。食糧も「特配」、つまり一般国民よりも多い量が配給されていた。
●こういう好条件に誘われて、「徴用」が始まる前の1939年ころから内地への出稼ぎ、あるいは労働者募集に応募して日本へ渡航する者の数は、1941年までの3年間で107万人にのぼり、それは「徴用」が始まってからも変わらず、1945年までに130万人に達した。
●もちろん労働は苛酷で生活環境も劣悪だったろうが、それは内地の人たちも似たりよったりだった。
しかしその中の、手錠をかけられ炭鉱に通行されたという話は1943年2月のこととなっており、「徴用」が半島で始まった1年以上前である。
●在日朝鮮人たちはいまだに、自分たちの親は強制連行されてきたと言い募るのが多いが、日本の敗戦までに勤労動員で日本へ渡航した人たちの9割は、戦後朝鮮へ帰国している。その中には李承晩政権時代の韓国での生活難から、日本へ密航してきたものも少なくない。
(他著書「『悪魔祓い』の戦後史 進歩的文化人の言論と責任」)
●強制連行…「手錠をはめられて警察に連行された」と言うのは、何度も徴用を断った人間が逮捕されたもの。
《正論2003/3月号》
●「強制連行」と主張されるようになった背景も、現在ではほぼわかっている。
朝鮮大学校の教師をしていた朴慶植という人が言い始めたのである。それは在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業と関わりがある。北が「地上の楽園」どころか「この世の地獄」だということがわかって、みんな帰国しなくなった。
●そこで、では自分たちが日本にいるのは一体どういう理由からなのかという話になった。その時、「自分たちは連れて来られたから、やむを得ずここにいる。それは日本政府に責任がある」という理屈にしてしまったわけである。
《八木秀次 「日本を愛する者が自覚すべきこと」》
(他著書「国家再生の哲学」)
●【サハリン残留外国人問題】
彼らを日本政府はこれまで、60億円以上支援している。その理由は「4万3千人を強制連行した」・「日本が置き去りにした」と、一部の日本人たちが触れ回ったからである。彼らは日本時代に、朝鮮半島から企業の募集や徴用でサハリン(樺太)に渡り、戦後も韓国などへの帰国が許されなかった約1万人のことである。
この問題に対する日本政府の見解は、一貫して「法的責任はない」というものだったが、やがて日本人の側から日本の責任を問う声が上がり始めた。
●「4万3千人」という人数… これは戦後、ソ連や北朝鮮地域から派遣労働者などとしてサハリンに渡ってきた、約2万人の朝鮮族などを加えた数字。戦時中、企業の募集や官斡旋・徴用によって半島からサハリンに渡った人数は、2万人前後とみられる。しかも強制力をともなう徴用が、半島で実施されたのは昭和19年9月からで、殆どの人は企業募集か官斡旋によるものであった。
●当時のサハリンは、内地よりもはるかに賃金が高く、それにひかれて新天地を目指す人が後を絶たなかった。一度行っても「もう一度行きたい」と希望する人も少なくなかった。(これは朴氏らが帰還運動を進めるにあたって、サハリン残留韓国人から聞き取り調査を行った結果、明らかになった事実)
※朴魯学=昭和33年に日本へ帰還した人。帰還運動を続け、昭和50年代後半以降、韓国への永住帰国が実現。朴氏自身は、今の韓国の地域で理髪師をしていた昭和18年に、新聞広告で見た樺太人造石油の募集に応じた。給料は理髪師の3倍以上だったという。数年の間に家一軒が建つくらいのまとまった金を、韓国の実家に送金している。
●妻・和子さんによると、朴氏は戦後、何が何でも「強制連行」を主張しようとする仲間たちに対して、「そうじゃなかっただろう」とたしなめることがあったという。徴用ももちろんあったが、強制的に連行するようなものではなかった。(「正式な徴用で行った人は、数百人に過ぎないだろう」…『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』新井佐和子氏が公文書で調べたもの)
●「半島出身者だけを置き去りにした」も事実ではない。終戦時に40万人以上いた日本人は、昭和21年11月に締結された「米ソ引き揚げ協定」によって、24年までにその殆どが帰国した。だが終戦後、ソ連が実施した人口調査によって「無国籍」と分類された半島出身者は、引き揚げ対象には含まれていなかった。当時米占領下にあった日本は、「この決定」に関与していない。というより関与できなかったのである。
《喜多由浩正論2005/1月号》
●戦時中の徴用令によって日本国内に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうち、わずか245人だったことが10日、外務省の資料で分かった。自民党の高市早苗議員の資料請求に対し、明らかにした。
●資料は昭和34年7月11日付で、245人について「みな自分の自由意思によって日本に留まった者または日本生まれだ。日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もいない」と結論付けている。
●同時に「日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間一般に行われているが事実に反する」と指摘した。
《産経新聞 2010/3/11》
(関連書籍「国会議員に読ませたい敗戦秘話」)
●たとえば徴用工は強制連行され、船底に押し込められる。下関では殴られながら下船し、窓のない貨車に詰め込まれて長崎に運ばれる。
●家族連れで島に来た朝鮮の女性や女児は夫や父親と離され、遊郭で働かされる。反抗すれば罰せられ、全身に入れ墨を彫られる。無数の五寸釘が突き出た戸板の上に女性が転がされ血だらけで殺される場面もある。
●余りのひどさに彼らは集団脱走を企て、日本人と壮絶な戦いを展開する。日本人と朝鮮人は銃で撃ち合い火炎瓶を投げ合う。まるで戦争である。
●私は端島を取材したが、あの小さな島でこのような戦いが始まれば島全体が機能不全となる。石炭採掘は1970年代まで続いたのであり、そこに残った朝鮮人もいたことを考えれば、映画は荒唐無稽というより他にない。
●監督、柳昇完氏は7月28日、日本側の批判に「取材した事実を基にしている」、「朝鮮人強制徴用の悲惨な実態と日本帝国主義の蛮行を描こうとした」と語っている。取材したと言いながら、日本人、朝鮮人の区別なく、共に助け合ったという旧島民の証言には、はじめから耳を貸す気はなかったのである。
●このようなでたらめの映画が国際社会に流布されていくそもそもの原因は、不当な批判を浴びたとき、抗議もせず事実も説明しなかったわが国の外交にある。
●三輪氏は、米国立公文書館の
「Illegal Entry of Koreans」 という統計データから、昭和20年段階で1万人近くの朝鮮人が日本に密入国しようとして捕まり、送り返されていたことが分かると指摘し、「奴隷労働や虐殺が行われていたとしたら、なぜ再び日本に密入国してまで戻ろうとするのか説明できない」と語る。
…韓国には、こういう映画をどんどん作ってもらいたい。そして「歴史捏造国家」という評価を全世界に広めてもらいたいものだ。そうすれば「慰安婦は性奴隷」などというウソは一気に吹っ飛ぶ。(管理者)
私:「韓国が今年軍艦島をテーマにした映画を作りましたよね。もうすぐ封切になりますが、あのような事実はなかったのでしょう?」
係の男性:「そうですね。韓国人の方は徴用で連れてこられたと言っています。確かにそのような方もいらっしゃったのですが、ほとんどが『条件がいいから』と他の炭鉱から移ってこられた方でした。密航も多かったようですが、島の警察できちんと捕まえて密入国者は送り返していたそうです」
私:「徴用といっても、それは、日本でいうところの『学徒動員』や『女子挺身隊』と同じですよね?はがき一枚で工場に働きに行ったわけです。それが対馬海峡を越えれば、強制徴用、強制労働とされる。もしそうならば、本土の日本人も全員その状態あったことになります」
係の男性:「そうなんですよ。しかも軍艦島は女性及び16歳未満の少年の就労を認めていませんでした」
●「確かに、暴力による罰はあった。けどそれは『サボる人』に対して。罰は、日本人も朝鮮人も同じで、差別は全くなかった」
●「日本人のチームは日本人が統括し、朝鮮人のチームは朝鮮人が統括していた。全部を束ねているのは日本人だったが。戦時中は支給されるタバコやお酒の量が決まってたけれど、日本人も朝鮮人も同じだった。他の炭鉱よりも良かった」
端島の旧島民らが
●長崎市の端島炭坑を舞台にした韓国映画「軍艦島」の上映を受け、旧島民やその子孫などからなる「真実の歴史を追求する端島島民の会」は18日までに、端島に関する事実関係を記し、映画の内容に反論する声明文を出した。声明文は「フィクションとさえ断れば、事実と全くかけ離れた虚構を映画にすることは許されるのか」として映画を非難。
●映画は憲兵による朝鮮人への暴行を描くが、声明文は「警察官が2人ほど駐在していただけ」と反論。朝鮮人労働者には家族連れもおり、子供は日本人と一緒に学校で学び、「働かされていたということはない」と証言する。
●また、朝鮮人労働者が地下1000メートルの坑道での労働を強いられたとするが、同会は「坑道は地下710メートルを超えていたにとどまる。送風機が備えられており、坑道内は意外に過ごしやすく、水飲み場もあり、少なくとも灼熱の環境などではなかった」と説明する。
●同会は声明文で「両者が敵対関係ではなく、友好関係を築き、共に協力して、後世に端島に関する正しい記録を残していけるよう尽力したいと考えている」と訴えている。
《産経新聞2017/8/19》
B級低俗な反日映画
足を運ぶ観客が気の毒
●今夏の話題作は戦時中に日本の炭鉱で働かされた朝鮮人徴用労働者を描いた『軍艦島』。劣悪かつ過酷な環境下でしいたげられた彼らが抵抗に立ち上がり、最後は日本側との銃撃戦まで展開し日本人をバッタバッタと撃ち殺し脱出に成功する。「日本とは戦って勝った」という、いつもの願望的な抗日勝利歴史観にもとづく活劇ドラマだ。
●最後の戦闘シーンでは、抵抗を組織した隠れ抗日リーダーの青年(イケメンの人気俳優)が、火炎瓶で火だるまになった日本人責任者の首を日本刀ではね落とし「これで終わった!」と叫ぶ。
●1970年代から夏場の反日映画を見続けてきたが近年、歴史の“愛国商業化”で劣化が進んでいる。マスコミの宣伝につられ映画館に足を運ぶ観客が気の毒になる。
…いかがであろう。全体の印象としては「史実と創作」が半々(ほとんど嘘なのに)という感じにとれる。金氏の証言は日本人も同じ条件なのだから、差別でもなんでもない。そして相変わらず日本側の証言は一切紹介しない。
●長崎県の軍艦島(端島)は「明治日本の産業遺産」23施設のひとつとしてユネスコから世界遺産登録の勧告を受けた。これに韓国が反発する理由は、例によって歴史問題だ。「23施設の7施設で、朝鮮半島出身者5万7千900人が強制労働させられた」というのが韓国の言い分だが、はたしてそれは事実なのか。
●戦局が悪化し、日本人の労働者が不足した1944年9月、国民徴用令によって朝鮮人の徴用が始まった。徴用は半年で終わるが、韓国はこれを”強制連行”と主張する。その証拠として「朝鮮人は危険な仕事を1日12時間もさせられた」(軍艦島でかつて働いた韓国人)などと言うが、元島民の坂本道徳氏)が島の長老から聞いた話は違う。
●「前線で石炭を掘る一番危険な作業には、必ずベテランが入るそうです。不慣れな者がやって事故を起こせば、後方の者も全滅してしまいますから。そこに新米の朝鮮人を入れるとは考えにくい。危険で過酷な労働というのは確かですが、朝鮮人に限らず、日本人も同じ現場で働いていたのです」
●賃金も日本人と同じように支払われていた。食事も粗末だったと言うが、「日本人でもイモ1個とかいう時代なので、朝鮮人だけ粗末な食事だったというのは事実と違うと思います。住宅だって、朝鮮人も日本人も同じような部屋に住んでいたんです」(『軍艦島入門』を刊行した黒沢永紀氏)
●朝鮮人徴用工は、低賃金で過酷な労働を強いられていたわけではないと話すのが、東京基督教大学教授の西岡力氏だ。「その実態がよくわかるのが、鄭忠海という朝鮮人徴用工の手記です。1944年12月、鄭は広島市の東洋工業(現在のマツダ)に徴用され、克明に日記をつけたのです」
●鄭は寄宿舎の新しさや新しい寝具に「まずまず」と満足し、食糧難のさなか、広島名産の牡蠣やみかんなど豊富な食料に舌鼓を打ち、酒盛りも楽しんだ。ノルマもない小銃の部品工場に配属されると、巡査の初任給が45円の時代に140円という高給を取った。
●それだけではない。「工場には10代の若い女のコたちが女子挺身隊として全国から集まっている。日本の男は戦争に取られて居ないから、朝鮮人徴用工と女子挺身隊の間でロマンスが生まれるんです。鄭にいたっては戦争未亡人とできちゃった。もっとひどい現場もあったとは思いますが、ほとんどの徴用は強制労働ではなかったんです」(西岡氏)
《FLASH 2015/6/2号》 | |
【その他の問題】
★朝鮮人強制連行/単なる出稼ぎ
★細菌戦(731部隊)/単なる防疫行為
★百人斬り競争/単なる作られた武勇伝
★バターン死の行進/何のことはない米兵捕虜のわがまま
★関東大震災後の朝鮮人虐殺/デマというデマ
|
貼り付け元 <http://kenjya.org/sonota1.html>