治安部隊が発射した催涙ガス弾を投げ返すデモの参加者=ミャンマー第2の都市マンダレーで2021年3月27日、AP
国民による軍政への抗議運動が続くミャンマーでは27日、治安部隊が第2の都市マンダレーで重傷を負わせた住民男性を生きたまま炎の中に放り込み殺害するという惨劇が起きた。オンラインメディア「ミャンマーナウ」が複数の近隣住民の話として伝えており、男性は炎の中で「助けてお母さん」と叫んだ後に絶命したという。 ミャンマーナウによると、惨劇の現場となったのはマンダレー中心部の市街地だった。付近に住む40歳の男性は、抗議運動のバリケードに使われていたタイヤが燃えているのに気がつき、火を消そうと試みた。直後に治安部隊に撃たれ胸部を負傷したうえに、燃えているタイヤの上に乗せられたという。 この間も銃撃が続いていたため、近隣住民らは男性を助けられなかった。 男性には4人の子どもがいて、米原料の飲み物「ライスドリンク」を売って生計を立てていたという。【畠山哲郎】
葬列に発砲・遺体を引きずる兵士…国軍の暴力映像に非難
ミャンマーのヤンゴンで28日、クーデターへの抗議デモに参加する人たち=AP
クーデターで国軍が権力を握ったミャンマーで、治安部隊の弾圧による27日の死者が少なくとも114人に上った。ロイター通信が伝えた。犠牲者には10~16歳の子どもが少なくとも6人含まれるという。「国軍記念日」だったこの日、国軍側は市民による抗議デモへの暴力を激化させた。 【写真まとめ】ミャンマー国軍への抗議、日本でも 「息子が死んだ」。ミャンマー中部のシュエボで27日、少年を抱いた父親が泣き叫ぶ映像がSNSで広がった。現地メディアによると、13歳の少年は自宅前でデモの様子を見ていたところ、治安部隊に撃たれたという。中部メイッティーラでは13歳の少女が自宅で撃たれ死亡した。 ヤンゴンでは、露天商の両親が仕事をする近くで遊んでいた1歳児が、右目をゴム弾で撃たれて大けがをした。失明する可能性があり、手術を受けるため病院に運ばれた。 28日も各地で抗議デモがあった。ロイター通信によると、中部バゴーでは前日の犠牲者の葬儀の参列者らに治安部隊が発砲したという。(バンコク=福山亜希) クーデターで権力を握ったミャンマー国軍は、抗議する市民らに容赦なく銃口を向け続けている。自らの存在感を軍事パレードなどで内外に誇示した「国軍記念日」の27日も弾圧をエスカレートさせ、100人を超える犠牲者が出た。SNS上には、治安部隊の残虐な行為を撮影した映像が拡散。国際社会からは厳しい非難の声が上がっている。 28日も各地で抗議デモが続き、犠牲者らの葬儀もあった。ロイター通信によると、治安部隊の発砲で死者が出ているという。 27日に南部ダウェイで撮影されたとされる動画にはこんな様子が映っている。3人乗りのバイクが治安部隊とみられる2台の車両とすれ違う瞬間、車の荷台にいた兵士がバイクに向けて発砲。バイクの2人は走って逃げたが、1人はその場に倒れ込み、治安部隊が車の荷台に運び込んだ――。 現地メディアは第2の都市マンダレーで27日夜、市民が治安部隊に撃たれて負傷した後、火をつけられて殺されたと伝えた。 北西部のカレーで27日に撮影されたとされる映像には、路上に座らせた無抵抗の市民に、治安部隊が重たい砂袋のような物をたたきつける様子や、遺体を引きずりながらどこかへ運び去る兵士らが映っている。
朝日新聞社
【関連記事】
ミャンマー国軍の弾圧にバイデン氏「常軌を逸している」
ミャンマー戒厳令 安全求めた中国の声明、渡りに船か
ミャンマーってどんな国? 国軍の歴史に旧日本軍も影響
バッタの大群にドローンが飛び込むと…害虫退治の最前線
中国へ消えていくバナナ 農園拡大、住民の体には異変が
7才少女、ミャンマー国軍に撃たれ死亡 父のひざの上で
ヤンゴンで24日、「沈黙のストライキ」によってがらんとした街中=AP
クーデターで権力を握ったミャンマー国軍が、反発する市民への弾圧を一段と強めている。23日には7歳の少女が治安部隊に銃撃されて死亡した。一連の弾圧による犠牲者で最年少とみられる。一方、市民らは24日、「沈黙のストライキ」と称して外出や経済活動をやめ、デモとは違う形で国軍に抗議の意思を示した。 複数の現地メディアが家族らの話として伝えたところによると、第2の都市マンダレーで23日午後、少女の自宅に数人の兵士らが押し入った。抗議デモの参加者を捜していたとみられ、少女の父親に家にいる全員を集めるよう命令。少女は父親がひざの上で抱きかかえていたという。 父親が周囲を見回すようなしぐさをしたのを兵士が見とがめ、誰かをかくまっているのかと詰問。父親は「全員がここにいる」と繰り返したが、兵士が父親に向けて発砲し、銃弾は少女の腹部にあたった。 兵士は少女を引き渡すよう父親に命じ、「また撃たれたいか」と脅したが、父親は拒否したという。兵士らは少女の兄(19)を銃床で殴り、連れ去った。その後、家族は急いで少女を病院に運んだが、手遅れだったという。一部メディアは、兵士らが残虐行為を隠すために23日夜に再び少女宅を訪れ、遺体を奪おうとしたとも報じている。一家は現在、身を隠しているという。
朝日新聞社
ロヒンギャの村、潰され政府施設に一変 BBCがミャンマーで取材
2019年9月11日
画像説明,
ロヒンギャの2つの村があったところに建設されたフラ・ポー・カウン難民キャンプ。帰還者2万5000人を受け入れるという
ミャンマーの国境地帯に暮らし、政府の迫害を受けてきたとされるイスラム教少数民族ロヒンギャ。彼らが住んでいた村々が破壊され、警察の官舎や政府の建物、難民キャンプがつくられていることが、BBCの取材で明らかになった。
BBCはこのほど、ミャンマー政府が用意した取材ツアーで4つの村を訪れた。いずれも、かつてはロヒンギャの居住地域だったことが衛星写真からわかり、現在は安全管理施設が立っている場所だ。
西部ラカイン州のこれらの場所で、村を消すような建設はしていないと当局者は主張する。
2017年、70万人以上のロヒンギャが、軍事作戦のさなかにミャンマーを脱出した。
国連はこれを「教科書どおりの民族浄化」と呼んだ。ミャンマー(ビルマとも呼ばれる)は、軍による大規模な殺害を否定している。
仏教徒が多数派のミャンマーは、軍が民族浄化や大虐殺を実行したことはないと主張し続けている。同国は、難民の一部を再び受け入れる準備が整ったとしている。
しかし先月、ロヒンギャ難民を帰還させる2回目の試みが失敗に終わった。ミャンマー政府は3450人に帰還を認めたが、誰も同意しなかった。彼らは、2017年の残虐行為に対する説明が不十分で、移動の自由や国籍取得が不透明だとした。
ミャンマーは、悪いのはバングラデシュだと主張し、多数の帰還者を受け入れる用意があるとした。それを示すため、BBCなどのジャーナリストを招き、施設を見学させたのだった。
画像説明,
ラカイン州のロヒンギャ人口は2017年以降、元の10%まで減ったとされる
ラカイン州への交通はふだん、厳しく規制されている。私たちは、政府の一団に加わって移動した。警察の監督なしに撮影やインタビューをすることは禁じられた。
それでも、ロヒンギャのコミュニティーを意図的に消滅させた、明らかな証拠を目にすることができた。
衛星写真を分析してきたオーストラリア戦略政策研究所 は、2017年の暴力行為の被害を受けたロヒンギャの村々の少なくとも40%が、完全に破壊されていると推定している。
BBCはミャンマーで何を発見した?
政府は私たちを、フラ・ポー・カウンの難民キャンプへと案内した。帰国者2万5000人を収容でき、帰還者たちはここで2カ月過ごした後、恒久的な住宅へと移るという。
約1年前に完成したというキャンプは、劣悪な状況にあった。共同トイレは壊れていた。このキャンプは、フワ・リ・トゥ・ラーとター・ザイ・コーンという、2017年の暴力行為で破壊された2つのロヒンギャの村があった場所に建てられていた。
キャンプ管理者のソー・シュウェ・アウン氏に、村を破壊した理由を尋ねると、彼は何も破壊されていないと答えた。私が衛星写真をもとに、破壊されていると指摘すると、彼は最近この職についたばかりで回答できないと述べた。
次に私たちは、カイン・チャウンのキャンプへと案内された。そこでは、日本とインドの政府資金によって、帰還する難民が長期滞在するための住宅が建設されていた。この土地はもともと、ミャー・ジンというロヒンギャの村だったが、キャンプ建設のためブルドーザーで整地されていた。このキャンプは、国境警備隊の宿舎が多数立ち並んでいる場所の近くに位置する。国境警備隊は、2017年に深刻な虐待行為をしたとしてロヒンギャが非難している治安部隊だ。現地の当局者はカメラで撮影しないことを条件に、ミャー・ジン村が破壊されたことを認めた。
※下の写真の中央矢印部分をドラッグして左右に移動すると、カイン・チャウン難民キャンプが建設されたロヒンギャの村の変化が上空からの写真で見ることができる。左側は2017年9月16日撮影、右側は2018年12月23日撮影
INTERACTIVE If returning refugees can’t go back to their original homes, they may be settled in "relocation sites" like Kyein Chaung. It, too, is built on the site of a Rohinya village.
23 December 2018
16 September 2017
主要都市マウンドーの近郊にあるミョ・トゥ・ジーにはかつて、8000人以上のロヒンギャが暮らしていた。
2017年9月、私は政府の一団の車列の中から、ミョ・トゥ・ジーを撮影した。住宅の多くが焼け落ちていたが、大型の建物はまだ残っていた。ラカイン州の村によく見られる、周囲を取り囲む木々も立っていた。しかしいま、ミョ・トゥ・ジーがあったところを通ると、政府と警察の大きな合同庁舎が立っている。木々はない。
私たちは、イン・ディンにも案内された。2017年9月に、拘束された10人のイスラム教徒が虐殺された事件で悪名高い村だ。この虐殺は、ミャンマー軍が認めた数少ない残虐行為のひとつとなっている。
※下の写真の中央矢印部分をドラッグして左右に移動すると、イン・ディン村の変化が上空からの写真で見ることができる。左側は2017年9月22日撮影、右側は2019年4月19日撮影
INTERACTIVE Slide to see how much of Inn Din was destroyed except for the Rakhine Buddhist quarter. New police barracks has been built on the Muslim quarter.
19 April 2019
22 September 2017
イン・ディンの住民の約4分の3はイスラム教徒で、残りはラカイン仏教徒だった。現在、イスラム教徒が暮らした地区は跡形もない。ラカイン仏教徒の地区は静かで平和だ。だが、ロヒンギャの家々があった場所に行くと、木々はなくなっていて、代わりに新たに広範囲に建設された国境警備警察の宿舎を取り囲む鉄条網が張り巡らされている。
ラカイン仏教徒の住民は、隣にイスラム教徒が暮らす状況は2度と受け入れられないと語った。
難民にどんな影響があるのか?
2017年の軍による暴力行為から長い時間がたった後も、ロヒンギャのコミュニティーは広範囲に継続して破壊されている。これは、ほとんどの難民が、かつての生活やコミュニティーに戻れないことを意味する。
大規模な難民の帰還準備が進められているのを目で確認できるのは、フラ・ポー・カウンのような荒れ果てた一時キャンプや、カイン・チャウンのような別の場所へ移ることを前提としているキャンプだけだ。難民のほとんどにとって、2年前に被ったトラウマを克服し、そういう場所での未来を受け入れるのは難しい。ミャンマーが彼らの帰還にどれほど真剣なのか疑問だ。
ヤンゴンに戻る途中、私は家を失った若いロヒンギャと会うことができた。私たちは目立たないよう気を使った。外国人が許可無くロヒンギャと会うことは認められていない。彼はシットウェの家を追われてから7年間、家族と一緒に国内避難民キャンプに閉じ込められていた。2012年の暴力行為で離散した13万人のロヒンギャの1人だった。
彼は大学に行けないばかりか、許可無くキャンプの外に出ることもできない。バングラデシュにいる難民に向けては、帰還しても同じように警備されたキャンプに閉じ込められるので、リスクを犯してまで帰還しないほうがいいと助言した。
政府はどう言っている?
私たちは、ラカイン州で見たことについて、ミャンマー政府にコメントを求めた。しかし、返事は届いていない。
公式には、政府はバングラデシュと協力し、難民の段階的な帰還に取り組んでいるとしている。だが、閣僚たちはロヒンギャをいまだにベンガル人と呼び、70年以上前に不法移民の波にまぎれて入国したとしている。しかし、そうした移民の存在を示す証拠はほとんどない。
このことは、ロヒンギャはミャンマーに属する人々ではないという、国中に広まった信念を映し出している。政府は、ロヒンギャからの国籍と移動の自由の要求を拒絶してきた。一方で、将来の国籍取得につながり得ると説明する身分証明書の発行には前向きだ。しかし、ロヒンギャにまず自らをベンガル人と規定することを求めているため、大多数のロヒンギャがこの証明書を拒否している。
2017年9月初めの、ロヒンギャに対する軍事作戦がピークのころ、ミャンマー軍のミン・アウン・フライン総司令官は、1942年から積み残しになっている「未完了の仕事」に取りかかっているところだと述べた。
画像説明,
イン・ディン村には現在、イスラム教徒が暮らしていた地区は跡形もない。ミャンマー軍が認めた虐殺の1つはここで起きた
彼の発言は、ラカイン州で繰り広げられた日本軍とイギリス軍の戦闘に触れたものだった。この戦闘では、ロヒンギャとラカイン仏教徒が別々の側について対立し、殺し合うこともあった。その際、多数の民間人が地域を追われた。総司令官は、イスラム教徒が現在のバングラデシュとの国境を超え、ラカイン州北部になだれ込んだと述べた。
2017年以降に破壊された村々の大部分が存在する、国境沿いの2地区、マウンドーとブディダウンは、ミャンマーで唯一、イスラム教徒が多数派の地域だった。だが、ロヒンギャの集団移動が始まってからは、おそらく元の10%しかいないイスラム教徒たちは、少数派となっているだろう。
政府は信用できる調査をし、移動の自由を与え、国籍取得への明確な道を示すことを、いずれも拒んでいる。そのことが、ほとんどの難民に帰還を思いとどまらせている。イスラム教徒と非イスラム教徒のバランスはこのままになるだろう。「未完了の仕事」は今や、完了したのかもしれない。