パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

金大中事件を 明るみにした日本のマスコミは、 同様に 日本人が 朝鮮人によって戦後期から 拉致されていた事実を伝えないし、政府でさえも 朝鮮人の拉致問題に無関心だった。

横田めぐみさん 北朝鮮による拉致から46年(2023年)

 

 

 

昭和52=53年にかけて 筆者は サウジアラビヤの東側の ジュベールにて港湾工事を ギリシャ会社の下請けで働いていた。

その当時 韓国の会社も サウジでの 土木受注工事をたくさん受注し、

韓国建設会社 現代建設や大林建設や、東亜建設などが現地で数千人の韓国人労働者を派遣して工事を進めていた。

我々も 日本人の下請けや イエメン人人の現地労働者を使って工事を進めていました。

 

町でよく合う 韓国人の上級職員と友人になり、我々のアパートに遊びに来るようになりました。 我々20代だったんですが、彼らは全員50歳以上の日本語を喋る世代でありましたが、実体は全員が KCIA の元職員で 英語を喋り、労働者の動きをコントロールするために 政府が各社に送っていたようです。

 

役職は 全員 xx部長、彼らが 毎日遊びに来て 日本から来る週刊ポスト週刊現代を読み、読売新聞や 日経新聞を読んで ビデオを見て帰るのでした。

 

仲良くなって 金大中事件の 週間ポスト記事を メモしたり、コピーして帰る様になって、 KCIAの 拉致問題について よく話すようになりました。

 

その中で 金大中事件を韓国政府への 批判としていた我々に 彼らから聞いた情報は

金大中は 韓国に必要ではなく、北朝鮮とつながっている人間だ

②日本人は 北朝鮮が戦後からたくさんの 日本人を拉致して北朝鮮で奴隷としている

③すべて 北朝鮮が悪く 日本は韓国の存在で その侵攻からのがれている

 

ふざけるな! とにかく 朴大統領の専制政治も 金日生 と変わらんよ!

というような お話を ちょくちょくしていました。

 

しかし我々がもっと 北朝鮮拉致事件

   「②日本人は 北朝鮮が戦後からたくさんの 日本人を拉致して北朝鮮で奴隷としている」 を真剣に考えて 通報しても、警察も 政府も動かないと思うが

その当時から 裏日本で 「夜になると外出するな! 人が失踪している」を

新聞社や テレビより 警告できたかもしてません。

 

 

 

 

金大中拉致事件

放送年:1973年

韓国の元大統領候補、キム・デジュン=金大中氏が8月8日、東京・千代田区のホテルで拉致された。キム氏は5日後、ソウルの自宅に戻ったが、こんどは身辺保護を理由に、韓国当局に軟禁された。警視庁は、ホテルに残された指紋などから駐日韓国大使館の1等書記官を容疑者と断定、出頭を要請した。これを拒否した韓国側はその後、書記官の関与を認め、キム・ジョンピル首相が陳謝のため来日した。結局、事件は全容が分からないまま後味の悪い政治決着となった。

 

横田めぐみさん 北朝鮮による拉致から46年(2023年)

 

中学1年生だった横田めぐみさんが下校中に北朝鮮に拉致されて、15日で45年がたちます。
再会を果たせないまま86歳になった母親の早紀江さんは、いまだ突破口を開けない政府の姿勢を厳しく問うとともに、一日も早い帰国の実現を訴えています。

母 早紀江さん 86歳に「ひどい時間が過ぎてしまいました」

横田めぐみさんは、1977年11月、中学1年生の時に、新潟市の学校から帰る途中、北朝鮮に拉致されました。

それから15日で45年がたち、初の日朝首脳会談北朝鮮が拉致を認めてからもことしで20年が過ぎました。

この間、両親は救出を訴えて全国で1400回を超える講演を重ねてきたほか、総理大臣が代わるたびに面会して帰国につながる取り組みを求めてきました。

しかし、進展は無いままで、娘が拉致されたとき45歳だった父親の滋さんはおととし、再会を果たすことなく87歳でこの世を去りました。

86歳になった母親の早紀江さんも体の不調を感じるようになり、残された時間が決して多くないことを痛感しています。

NHKのインタビューに応じた早紀江さんは「45という数字を口に出したくないほど、ひどい時間が過ぎてしまいました。この時間は人生そのものであり、本当に何という人生なのかと思っています」と話しました。

そのうえで「どの総理大臣にも日朝首脳会談の実現をお願いしてきましたが、かなっていません。岸田総理大臣にも『首脳会談を早くしてください』とお願いしました。もっと動いてくださって、被害者を帰してくれれば日朝両国が幸せになれるし、平和に交流ができるということを伝えてもらいたい」と求めました。

インタビューの最後に早紀江さんは「拉致被害者全員が帰国して日本の土を踏むこと、飛行機のタラップから降りてくるその姿を大喜びで迎えてあげること、願いはそれだけです」と強調しました。

横田めぐみさん拉致事件の経緯

横田めぐみさんが消息を絶ったのは、新潟市の中学校からバドミントン部の練習を終えて帰る途中でした。

警察犬による捜査の結果、めぐみさんのにおいは自宅まであと100メートルほどの曲がり角で消えていました。

その後、行方は全く分からず、警察庁北朝鮮による拉致事件と断定したのは20年後の1997年でした。

5年後の初の日朝首脳会談で、北朝鮮は拉致を認める一方「めぐみさんは死亡した」と説明。

しかし、その説明には矛盾や不自然な点があり、北朝鮮が「本人のものだ」として出してきた遺骨からは、日本側の鑑定で別人のDNAが検出されました。