時代背景とともに矢島の生涯をたどるパネル展

 

 

旧殖蓮村(現群馬県伊勢崎市)出身の探検家、矢島保治郎(1882~1963年)の没後60年に合わせたパネル展が、市赤堀歴史民俗資料館で開かれている。「世界無銭旅行」に挑んだ矢島は、鎖国状態だったチベットに外国人として初めて中国から入るなどして、帰国後は前橋市で暮らした。地元であまり知られてこなかった人物に光を当て、その生涯を写真とパネルで紹介している。24日まで。

 矢島は農家の末っ子に生まれ、県尋常中学(現前橋高)を退学後、海外への関心を高め、牧師から英会話を習い始めた。日清戦争後に高崎歩兵第15連隊に入隊。1904年には日露戦争に従軍し、無事帰国した。

 歩兵軍曹に昇進したが、世界を旅する夢を捨てきれずに除隊。09年2月、まずは中国を目指して横浜港を出発した。上海から北京、そして西へ進み、山岳地帯を抜けてチベットの首都ラサにたどり着いたのが11年3月。中国からのルートでチベット入りした初の外国人となった。

 1カ月滞在後にいったん帰国。インド経由でラサに戻ると、日本の軍隊での経歴を買われ、兵舎の設計や軍隊教練の教官を依頼された。ダライ・ラマ13世の信頼を得て親衛隊長に就任。官位も与えられたが、親英国路線が強まる中で日本人の立場は難しくなる。

 18年10月、妻と幼い長男を連れてチベットを離れ、日本に戻った後は両親が営んでいた糸枠製造の仕事に就いた。仕事にはあまり熱が入らず、馬に乗ることが多かったとされる。妻は若くして死亡。再婚後に娘が生まれたが、長男は太平洋戦争で戦死し、前橋空襲によって自宅を失った。晩年は長い髪を切り、馬を飼うこともなかったという。パネル展は時代背景とともに矢島の足跡をたどる構成で、関連写真18点をはじめ、チベット入国ルートの説明図を展示する。同館は「常識にとらわれず、突出した行動力を持った人がいたことを知ってほしい」としている。問い合わせは同館(☎0270-63-0030)へ。