パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

至宝展に関して ますます「天海僧正」からもらうパワーがあります

9月12日から開催の「チベットの至宝展」に備えて、寛永寺さんに我々の事を周知したいと思い上野の森に出かけてきました

天海僧正毛髪塔前にて 「般若心経」を弔うとのことで寛永寺に了解を取るべく
上野国立博物館裏にある 東叡山寛永寺によった。
ここが一番大きいし 根本中堂もあると聞いていたが、いざ尋ねてみると
毛髪塔はここの持ち物ではなく 実は明治以降 彰義隊の戦いで燃えてしまった
本坊跡に川越から建物を移築しただけで 本来の寛永寺の末寺が15寺残っており、
そのうちの 本覚院が 毛髪塔の管理をしていると聞いた。
(最後 本覚院で没せられ、ご遺体は日光に葬られたが毛髪塔をこの地にお守りしたようである)

ここで対応に出られた事務所の方からは、天海僧正の名前を使って活動するのは、
あまり宜しくない。できれば 文章の中で使うべきでないことを 言われた。
ここは真摯に聞いておこう。

寛永寺輪王殿の裏に そのうちの何軒かのお寺があり、本覚院もそこにあった。
本覚院を見つけて、その由を告げるが、「非常に迷惑な!」と言わんばかりのお話を
対応された奥様・?からいただきましたが、当方も承認を受ける気もなく、
連絡先などを預けてきた。

我々のやろうとしていることに 我々以上に世間の規の範をはめて対応しようとする
宗教界を見ると、マスコミがおかしいのは もっともの話である。

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謎の僧・天海!我々が美術館とはいえ、天海僧正とコラボするも何かある!

将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、
寛永二年(1625)に寛永寺を創建した張本人です。
寛永二十年(1643)に子院の本覚院にて没。118歳の長寿でありました。
遺命により日光山に葬られ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建立され、
毛髪塔と呼ばれるようになったのです。
天海僧正といえば、明智光秀=天海説という有名な異説があります。
私は、この異説をかなり信じている一人ですので
上野公園で、毛髪塔を拝むことも楽しみにしておりました
明智の桔梗紋でもみつからないかな~・・・なんて目を凝らしてみましたが、あるはずもなく。
ちなにに・・光秀天海説についても文章にしておりますので
もし興味がある方は、こちらへJUMPしてくださいね。
『明智光秀の謎』
貼り付け元 <http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/61972216.html>;

明智光秀の謎

1852年 山崎の合戦で秀吉に破れ小栗栖で土民に殺されたはずの明智光秀が実は生きてて、家康の謎の参謀僧「天海」になり代わった、という光秀=天海説。
私はこの伝説、かなり信憑性が高いと思っています。
天海僧正比叡山出身の僧で、徳川家康から日光の再興を任されるような権力をもち、「大阪の陣」では家康の参謀として策を講じ、家康の死後は三代 将軍家光信任厚く幕府の影の実力者になった人物ですが、家康に近持する以前の消息についてはまったくといっていいほど不明で、謎の人物であります。
この天海がじつは光秀だったというその根拠として、以下に列挙してみます。

1)光秀は生きていた
① 比叡山には光秀寄進の石灯篭があり、そこには天正10年に死んだはずなのに「慶長二十年光秀寄進」と記載されている。
② 小栗栖で共に自害したとされる家臣2人が、その後細川家に仕えたと「細川家記」に記載されている。
③ 「比叡山文庫」に光秀が大僧正になったと記載されている。(明智光秀とは断言していないが)

2)天海=光秀の傍証
③ 光秀と天海はほぼ同じ年齢
④ 京都にある慈眼禅寺に光秀の位牌と木造が安置されている。天海の諱は慈眼大師。
⑤ 日光には明智平という地名があり、天海が名づけたと言われている。
⑥ 秩父札所: 9番「明智寺」 10番「慈眼寺」があり、天海の時代に改名された。
⑦ 天海は僧でありながら、天海が着用した鎧が存在する。また大阪の陣で戦上手の家康に建策したほどの戦略家であった。⇒ 武家の印象
⑧ 家康が天海と初めて出合ったとき、まるで旧知の如く、人を遠ざけて長時間語り合ったという。日ごろ慎重な家康には考えられない行動。
3)春日野局  (光秀=天海 最大の傍証)
① 3代将軍光秀の乳母、春日野局(お福)は、光秀の重臣佐藤利三の娘で、祖母は光秀の妹と言われている。逆臣の遺児を天下の将軍の乳母に抜擢するとは考 えられず、光秀=天海の後ろ盾があったとしか説明がつかない。事実、大奥で絶大な権力を持ったお福だが、天海だけには従順だったと伝えられている。
② 徳川嫡流の秀忠、家光の名前は「光秀」から付けられたといわれている。
その他、色々な説がまだあります。
本当に光秀が天海とすれば、本能寺の変の時、堺にいた家康が危険を感じて岡崎まで逃げた「伊賀越え」が出来レースで、信長暗殺の黒幕が実は家康だったとも考えられます。
また、比叡山を焼き討ちした信長を倒した光秀を比叡山が匿い、天海に仕立てて、家康に近づけたとも考えられます。
天海は118歳まで生きたといわれています。
大変な長寿でありました。もし光秀だったとすれば、戦国時代の後、信長家臣団のなかではもっとも長く生き抜いた武将だったことになります。
貼り付け元 <http://blogs.yahoo.co.jp/tomyu1999/3992189.html>;

毛髪塔前において「至宝展」をよく考えるように、「般若心経」唱えるだけでなく徳川300年の流れを作った策士天海僧正が、チベットの精霊とコラボして、我々に新しい力を与えてくれるような気がする