パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

8/28 焼身自殺した僧侶の追悼法要



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  • とき:8月28日日曜日 18時半~19時半まで
  • ところ:新宿西口 常円寺 祖師堂B1階
  • 主宰:TCJ(在日チベット人コミュニティー)


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パルデンの会では お供えと 我々が チベットの人々のことを伝えているビラや
良心の囚人のフライヤーを 彼のために 「 日本でもがんばっていることを伝えました」

なお チベット人会の副会長である ドルマさんが 自分で着付けをした 浴衣姿で
司会をやられました。 日本での法要というのがノルブ氏にも見えたに違いありません。

祭壇の右の端に 白い光る玉が写っています。 フラッシュを使うと大きい部屋なので
暗くなるので フラッシュを使わずにうつしました。 また 祭壇の下にも光が出ています。
久しぶりに見る オーブの輝きでした。

参加者は 法王事務所、スーパーサンガの僧侶、TCJ、支援者あわせても60人くらいでしたが
みんなの気持ちが チベットの犠牲者に伝わった気持ちがします。

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法要の前に サンガの小林師がお話された 焼身日8/15に関してまとめられたものがあります

小林師
815日、東チベットのタウで、ニンツォ僧院の僧侶ツェワン・ノルブ師が焼身自殺を遂げた。316日に同じく東チベットのンガパで焼身自殺を遂げたプンツォク師に次いで今年2人目、今までで4人目の焼身自殺者ということになる。
 前にもお伝えしたことであるが、316日は因縁の日であった。2008北京オリンピックを前にして、ンガパの市民や僧侶が中国政府に対して平和的な抗議行動を行った際に、人民武装警察が銃撃を加え10人以上の人々が殺された。今年その因縁の日に、プンツォク師は市中で焼身自殺を決行した。人間、重大な決意を実行する時には、意味のある日を選ぶ。
 ではツェワン・ノルブ師はなぜ815日を選んだのだろうか。815日はお盆であるが、チベット仏教にはお盆は存在しない。お盆は、『盂蘭盆経』に依拠した年中行事だが、このお経はインドにもチベットにも存在しない。中国で生まれた偽経、つまり仏教に仮託した中国人の信仰の発露である。これが日本にも伝わって仏教行事として定着したものだ。だからといってその価値を認めないわけではないし、ここでは本論から外れるので、お盆の話は打ち切って本論に帰る。
 お盆以外に815日にはどんな因縁があるのかと言えば、日本人ならば直ぐに『終戦記念日』という名の敗戦記念日を思い浮かべるであろう。ではチベット人であるツェワン・ノルブ師は、何を思い浮かべたのだろうか。それは『インド独立記念日』だと思われる。彼は日本の敗戦記念日は知らなかったかもしれないが、インドの独立記念日は知っていた筈である。インドが独立を回復し、自由を取り戻した、その日に彼が命を懸けて訴えたかったことは、チベットの独立・自由の回復ではなかったかと思う。チベット独立のための悲しいまでの奮闘だ。
 現在では四川省に組み入れられているカム(東チベット)のタウの中心街で、ツェワン・ノルブ師は、チベットの自由とダライ・ラマ王の帰還を求めるチラシを配り、10分程スローガンを叫んだ後で、ガソリンを飲み、身体にガソリンを吹きかけて火を着けた。彼は燃え上りながらも、「チベットに自由を、ダライ・ラマ王の帰還を」と叫び続けたという。遺体は、ニンツォ僧院に運び込まれ法要が行われたが、当局が遺体の引き渡しを求め、僧院がこれを拒んで緊張が高まった。
 先月の76日に、タウではニンツォ僧院の僧侶らを中心に、ダライ・ラマ法王の誕生日を祝う式典を行おうとしたが、当局がこれを妨害し、僧院の電気や水道を止めた。ツェワン・ノルブ師の行動も、この当局の弾圧によって引き起こされたものであろう。
生前のツェワン・ノルブ師
 師が選んだ焼身自殺決行の日815日のことで、もう少し考えてみたいことがある。それはインド独立記念日が、なぜ日本の敗戦記念日に重なるのかという点である。戦後教育を受けてきた者ならば、侵略者日本が負けたのでインドが独立できたのだと考えるかもしれない。それは余りにも世間を知らない、そして歴史を知らない、幼児並みの見解である。日本陸軍インド国民軍を育て、共に協力してインド独立戦争を戦ったことを教えていないから、歴史的な事実が読み取れなくなってしまったのだ。インドや東南アジア諸国の独立のために、何万人もの日本人が血を流した、これは事実である。
 インド人が独立記念日815日に決めたのも、日本の戦いに感謝をしている証であることが理解されなければならない。インドにとっては、それは戦勝記念日なのだ。インドや東南アジア諸国の独立のために、日本が戦ったのだから、815日は『日本の戦勝記念日』でもある。それが理解できたらツェワン・ノルブ師が、インド独立記念日焼身自殺決行の日と決めたことの意味が分かろう。かつて日本人がアジア諸国の独立のために命懸けで戦った。その気概に、今もチベット人たちが訴えているのではないかと思うのは、考え過ぎであろうか。

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パルデン会 ブログ 8/17より

我が国の国旗としてわれわれは 日の丸に敬意を持ち 自分たちの誇りとして
守ってきた。 今年はその日の丸を持った 1000人近くの人々が
われわれの発展の礎になって亡くなられた英霊に対して 感謝と鎮魂を伝えに
靖国に参集した。 黙々と唯 歩き 靖国に 「海行かば」を奉じた。

我々の社会には この国旗や 国歌や 天皇にさえ反対するものがいる。
さりとて 彼らには 何もその反対に対してのお咎めもない。
民主主義であるからだ。 自由なのである。

チベット国は ダライ・ラマ13世を通じて 大戦前日本との国交が樹立され、
その国旗の正式制定にも我が国 旭日の図案を取り入れている。

そのチベット国が 戦争中 アメリカより 中国支援に向け 日本軍の背後のインドからの
武器、食料の空輸に際しての 搬入承認を求められた。
即座に チベット国は 承認を断った。 日本はチベットとの交流を始め、友好国となって
いたのであった。 友好国が窮地に追い込まれるような アメリカの作戦を 法王を含めた
チベットの政府は 承認せず 終戦になった。

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                  チベット国旗 

終戦になると 中国は イギリス、フランス、アメリカ、ソ連等 が組んだ連合国側となり、
その連合国側に 刃を向けた 日、独、伊 は敗戦国となり、その敗戦国に組した
チベットも 敗戦国扱いとなった。 その部分が 中国がチベット国を侵略していく流れで
同じ戦勝国のイギリス、フランス、アメリカ、が 文句をつけられなかったのかも
しれない。 敗戦国の友好国として 戦勝国に圧力を加えられて 最後には国内事情で
ダライ・ラマ14世が 17条の嘘つき条約に署名を強いられ、それを払いのけるべく1957年
よりの 抵抗運動 そして 敗北と同時の 敗走と亡命政権樹立。

戦後15年で 国旗も国歌もすべて取り上げられてしまった チベット国。
それ以来 チベット国旗を掲げて 3年や5年の 懲役刑や良心の囚人に対する
死を含んだ虐待の数々がチベット自治区、それ以外の 四川、甘粛、青海、雲南
でも 繰り広げられてきた。
今も ヨーロッパやアメリカで チベット人が 国旗を掲げて 中国に抗議を行うも
中国人は そのチベットの国旗に 火をつけたり、破ったりの行動を行う。

自由に 日本国旗を揚げ、 日本国歌を歌うことの すばらしさ、自由を 
チベット人のおかれた環境と比較して よく感じていただきたい。

そして チベット国が中国の占領下にあるのも、我が国への配慮があだになって
いることを かみ締めていただきたい。

戦前 チベット国との国交を通じて 日本の発展を信じた 多くの英霊が たくさん
靖国で我々を 見守っていることを考えてください。

チベット独立を言う人の中に、日本国旗を否定し、日本国歌を否定し 九条を守ると称する
人がいる。 
チベット国がこういう風に置かれているのも 日本人が 国歌、国旗に集まり 天皇をいただいた国を 2000年にわたって 安らかに守ってきたことに対して チベット人が共感し 
友好を結んだことも、遠い原因となっており 
戦勝国側としては 日本の友好国はすべて 戦勝国の敵であるという 理屈があることにも 考えをめぐらしていただきたいと思う。
もちろん 歴史的に見て それは間違いであったことは明白である。