【北京・西岡省二】北朝鮮の朝鮮労働党は8日、中央委員会政治局拡大会議を開き、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の叔父で実力者の張成沢(チャン・ソンテク)国防副委員長(67)について「党の方針を公然と覆した揚げ句、朝鮮人民軍最高司令官(金第1書記)の命令に従わないという反革命的行為をためらいなく敢行した」などと断罪し、すべての職務を解くとともに党を除名すると決定した。朝鮮中央通信が9日報道した。失脚説が流れていた張氏の処遇について北朝鮮が公式に明らかにするのは初めて。最高指導者の金第1書記とナンバー2の張氏が激しく対立していたことが浮き彫りになっており、北朝鮮指導部の権力構造が急変していることが明らかになった。
拡大会議には金第1書記も出席した。決定文では、張氏やその周辺について「党の路線と政策を心から奉じず、その執行を意識的に怠業して歪曲(わいきょく)的に執行した」などと指摘。金第1書記に思想や権力を集中させる「唯一領導体制」の構築を阻害する「反党・反革命的派閥行為」を敢行したと明らかにしたうえで、「強盛国家建設と人民生活向上のための闘争に莫大(ばくだい)な害毒を及ぼす行為を働いた」と断じた。
決定文ではまた、張氏の行動を「表では党と領袖(りょうしゅう)を奉じるふりをしながら、裏では背を向けて同床異夢の派閥行為を働いた」「偉大なる首領様(故金日成=キム・イルソン=国家主席)と将軍様(故金正日=キム・ジョンイル=総書記)を高く奉じる事業を無視し、妨害する背信行為をした」と強く非難。「犯罪行為は想像を絶し、党と革命に及ぼした害毒と災いは非常に大きい」と強調した。
アントニオ猪木氏、北朝鮮高官と「デリケートな話もしました」
猪木:今回が27回目の訪朝になりました。このたび平壌に、私が理事長を務める「スポーツ平和交流協会」の事務所を開設しました。
スポーツを通じて、日朝間で様々な交流ができるといいと思って、前から提案していたんです。かつて招待所があったところに新しく建てた非常に立派な建物で、環境もとてもいい。前にサッカー場があって、斜め先にメーデースタジアムがある。今回お会いした張成沢(注:国防委員会副委員長。事実上の北朝鮮ナンバー2とされる)さんも「ちょっと手狭かもしれません。でもこれがもっと大きな施設に早くなりますように」と話していました。
特に北朝鮮という国はいろいろな制約がありますけど、スポーツ交流なら誰も反対できない。日朝間は様々な懸案が山積しているにもかかわらず、政府間の対話が進んでいない。この平壌事務所は日本と北朝鮮の対話の糸口になるのが、ひとつの狙いかなと。ちなみにこれ平壌だけじゃないんですね。パキスタンやニューヨークにもある。
■懲罰「真摯に受け止める。しかし…」
そのうちに、「そこまでして訪朝する意義があるのか」ということも、論じられると思います。この10年間、日朝関係は日本の首相が毎年替わった時期があって、前に進まなかった。やっと安定政権に入って、安倍総理が「拉致問題は自分が任期中に解決します」という発言もしました。それに対する本音の話は、テーブルをはさんだ話じゃなくて、酒を飲み交わしていく外交ですよ。私の外交はそれしかない。
猪木:二元外交とかいろいろ言われるけど、結局、この10年を振り返ってみて、何か動きましたか。安倍政権が日朝交渉を進めようと本気でやっておられるのであれば、そこに水を差す必要はないと思います。私自身、微力かもしれないけど、何か役に立ちたいなというのが本音です。
猪木:訪ねて来られて、30分ほど話をしました。詳しい話は差し控えるけど、スポーツ交流を国家体制で力を入れたいという話はされていました。張成沢さんは国家体育指導委員会の会長で、今はオリンピックに向けてメダルが取れる選手の育成というのが至上命題なんですね。それには海外の交流試合をしないといけない。その辺も意見が一致しました。
人の交流が高まっていけば、1995年に平壌で開かれた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」(平和の祭典)のようなものも、ぜひ来年お願いしますという話もありました。また、「1995年以上のイベントを開催したいですね」とも言われました。あのときは外国から観光客が1万1000人ぐらい入ったんです。それ以上のものを期待するということ。
だからこちらは、議員団を派遣したいと申し上げました。議員ととにかく腹を割って話をする。「拉致問題に強硬な方も受け入れてもらえますか」と尋ねたら「お迎えします」と。私としてはせっかくそういう場ができたとき、どんな主張が出ても、物別れにならないよう、次回につながる話し合いをお願いしたいと話した。それも先方は理解してくれたと思います。
■「今はどんな批判を受けても、時がすべての裁判官」
歴史から言うと、私の師匠・力道山が北朝鮮(戦前に日本の植民地だった朝鮮半島北部)の出身でね。私は師匠にブラジルでスカウトされて、付き人を3年やりました。1989年に国会議員になってから、初めて師匠が北朝鮮の出身だと知ったんですね。「力道山物語」という本をもらいまして、万景峰(マンギョンボン)号(注:日朝間を往復していた貨客船。2006年7月から日本で入港禁止措置が続く)で、新潟で娘さんに会ったとか、いろんなことを知りました。
師匠の思いは故郷に錦を飾りたいということだった。でも北朝鮮には行きたくなかったようです。1963年1月かな、日韓国交正常化の一つの役割として韓国に招待されて、当時の大野伴睦さんとか、児玉誉士夫さんと会いましてね。韓国で大変な人気で歓迎された力道山が、「一つだけお願いを聞いてくれ。板門店に行きたい」と。案内されたら、やにわ1月の寒風すさぶなかに上着を脱いで走り出して、北に向かってだいぶ叫んだと聞いています。米軍も韓国軍もいて、大騒ぎになったようです。
そんなことを知って、師匠の思いを届けようと1994年に行ったのが最初です。「北朝鮮の人はプロレス見たことないでしょう」と、1995年4月に「平和の祭典」を開催したのですが、2日間で38万人の観客に来ていただいた。そんなことから毎年招待を受けまして、本当に腹を割って話ができる、私しかないパイプを築いた。私もスパイ行為するわけじゃないから、向こうも気を許してくれて、ざっくばらんに質問すると、生の声を聞かせてもらえる。
「今回、北朝鮮メディアは私のことを取り上げました。力道山ストーリーのような、昔の試合の映像が流れて、私が付き人をやっている姿が最初にちょっと出て、そのあと私が交渉した映像をいくつかまとめて放送しました。きっと100%近い視聴率だから、皆さんまた認識を新たにされたんじゃないですかね。外に出て、軍隊の車が何台もいるところに、私が手を振ったらみんな「ワーッ」となりました。市民もバスの中から私に手を振ってくれましたね。
日本の国会じゃ、北朝鮮というだけでイメージよくないですよ。私も生身の人間だし、国会の赤絨毯が針のむしろですからね。そこをあえて私がこれだけ踏み込んでいる。そういう中から、今後の猪木の役割を理解してもらえればと思う。国民、ファンはわかってくれる。「時が全ての裁判官」という言葉がありますけど、時代が過ぎたときに、ああそうかということでいいと思いますよ。今はどんな批判を受けても。
国会議員というバッジをはめた以上、役を果たさせて頂ければ。イラクの人質解放(1991年の第1次湾岸戦争)も当時の日本政府は評価しませんでしたが、人質の家族には喜んでいただきましたし、日本国民の多くの方からの支持をうけました。カンボジアやソマリアなど危険地域には、自衛隊が行く前に物資を運びました。ロシアではウォッカ飲み交わして、KGBの親分やエリツィンさんともお会いしました。10月にはパキスタンに地震の救援物資を運びにいきました。危ないところばっかり行っていましたけれど、猪木のキャラクターというのかな。人ができない、やれないこと。結局猪木は何がやりたいの?と言われたら「人が喜ぶことが、俺の喜びなんだ」という言い方しかないな。
The Huffington Post | 執筆者: 吉野太一郎 投稿日: 2013年11月19日 15時11分 JST | 更新: 2013年11月24日 12時30分 JST