パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

アマ・アデさんは、チベットの亡命者たちが大事にしてきた先人です



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アマ・アデさんは、チベット亡命たちが大事にしてきた先人です。 アマとは、「母」というチベット語です。 亡命政権にいる彼女の人生に中国人民解放軍によって、東部チベットの最初の侵入を目撃し それから政治犯として27拘禁され、彼女は強姦、拷問と飢餓という壮絶な人生を生き残ました。 彼女の禁固の間、彼女が2人の子供たちとのすべての接触奪われました。 85才で、彼女は毎日地元の寺院へ歩いて行きます。そして、彼女死んだ数百万人に代わって彼女の話を語る目的で助かったと思っています。
 
彼女は1999年に来日し中国共産党の悪事を報告しましたが、複数の女性支援団体は中国に味方をし、彼女の来日、後援を妨害しました。このころ女性団体は嘘の従軍慰安婦問題を大きく動かしアムネスティ・インターナショナルでも同様な事がおきていました。
また2008年パルデン氏が来日時 同様にビザを申請しましたが時の親中国政権・福田政権はビザを出さなかったようです。
ドキメンタリーフィルムをご覧ください
日本語に変換もあります。

ここに 1999年の講演会( 法王事務所 HPから)
アデ・タポンツアンさんによる講演
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まず最初に皆さんのおかげで、こうしてたくさんの亡くなった同胞たちに代わって、この苦しみを訴える機会に恵まれたことを感謝します。

逮捕されるまで

私の子供時代、青春時代は極めて平和的なものでした。私たち、ダライ・ラマ法王を頂点とするチベット民族は他の民族に支配されることなく、危害を加えられ ることもなく、平和的な生活を送り、仏教活動に励んできました。私自身、「自分はとっても幸せだ」「この美しい国が永遠に私たちのものだ」と思っていまし た。

しかし、27歳の時、私は中国軍の捕虜となりました。私はもう歳をとりましたので、私のような体験をしているチベット人はあまりいないと思います。私が若 い頃にやって来た中国軍はチベット人に対して、とても友好的な態度で接してきました。彼らは「毛主席からあなた方を助けるために派遣された。あなた方が幸 福で豊かになればすぐに帰ります」と言いました。最初、中国軍はお寺に行って、ぎこちない様子で五体投地を始めました。その様子を見て「中国軍はいい人た ちだ」と思い、そのことを父に伝えました。しかし、父は「騙されてはいけない。彼らは演技をしているにすぎないから」と言いました。

その後、自分が幻想を抱いていたことに気づきました。中国軍はチベット人が敬虔な仏教徒であることを計算して、各寺院にお金やものを寄付しました。やが て、寺院や仏像を破壊し、破壊したものを中国本土へ運んでいきました。彼らは「神や仏などこの世に存在しない」「あなた方は騙されているだけだ」と述べ、 ラマや学僧たちを捕らえ拷問にかけました。今まで自分たちを導いてくれた僧侶たちが苦しめられている様子をみて、私たちは抵抗を始めました。

また、「これから我々が仲介になってあなた方を幸せにするので、持っている鉄砲や刀を渡しなさい」と言われましたが、それが何を意味するのか理解できたの で、武器を持って山に逃げ始めました。チベットにはもともと近代的な訓練を積んだ軍隊はありませんでした。だから、男性は鉄砲を持って山にこもり、女性は 定期的に食料や情報を彼らに提供し始めました。しかし、チベット人には鉄砲や刀しかないのに、中国軍は空から爆撃を始めました。私たちは1956~58年 の3年間抵抗を続けましたが、結局勝つことはできませんでした。もし素手で闘っていたら、絶対にチベット人が勝っていたはずです。でも、中国軍は次から次 へと進駐してきたので、私たちは手に負えなくなってしまったのです。その後、運良くダライ・ラマ法王はインドに亡命しました。チベットは完全に中国に制圧 され、多くの人が刑務所に連れて行かれました。捕まった時、300人の女性捕虜と一緒に収容所へ送られました。その時、私には2人の子供がいました。1歳 の女の子は、もの珍しそうに私が逮捕されるのを笑って見ていました。4歳の男の子は私の袖をひっぱり「お母さんを連れて行かないで」と懇願しましたが、中 国軍は息子を蹴飛ばしました。それを私は今でも憶えています。

収容所での生活

収容所では、みんなが子供のことを話しては泣き、朝になると目が真っ赤になっていました。私たち女性だけではなく、もちろん、その他にも別の収容所では多 くの男性が捕虜になっていました。その300人の中から若い未婚の女性3人と私(計4人)が特別に選出され、「豚の世話をし、看守の服を洗濯するように」 と言われました。正直言って、他の人々はもっと過酷な状況だったので、最初は喜びました。しかし、なぜ私たちが選出されたのかを後で知って、大変な悲しみ を憶えました。結局私たちは、彼らの性的な処理係であったのです。看守は「おまえたちが私たちのやっていることを黙っていれば、今後も今まで通り豚の世話 をしながら、私たちの相手をすることができる」と言いました。そこで、豚の餌を盗みながら、我慢しました。苦しかったと同時に良かったことは、収容所内に いる活仏や高僧の独房の外にこっそり盗んできた豚の餌を置き、それを一生懸命に食べているのを見て、自分が苦しめられ辱められても「少しは役に立ってい る」と思えたことです。ナクチュ・ゴンパのリンポチェ・学僧たちはすべて1961~63年の間に餓死しました。

収容所では、朝と昼と夜にトウモロコシの薄いお粥を与えられるだけで、刑の軽い人や働くよう許された人には畑で仕事ができたので、野菜を盗むことができま した。しかし、多くの人が働く機会を得られず、段々と幻想(食料や子供のこと)を見る人が増えていきました。中には、死体置き場で仲間の体を食べたという 人もいました。段々とそこは、政治犯を収容する1番大きな収容所となっていきました。1963年、収容所所長がマ・ク・シャンからベ・ク・シャンへと代わ る際に、12,319人の死亡者が確認されました。それは間違いありません。
結局生き残ったのは、豚の世話をしていた私たち4人だけでした。

当時の拷問では、まだ電気ショック棒は使われていません。当時は、自白させるように爪と指の間に細い竹串を刺すという方法がありました。また、手を後ろで 縛り、上から吊るされて火にあぶられ、赤唐辛子をくべられました。唐辛子をたくさん入れられると、苦しくなり、失禁してから気を失います。この方法は多く の人に用いられました。多い時で週に2回行われました。

釈放されてから

私は1958年27歳の時に捕まり、85年に故郷に戻りました。当時、中国政府は外国人にチベットを公開し、チベットが良くなったということを一生懸命宣 伝していました。村人には良い服を着させ、信仰の自由があるように見せ、中国が指定した場所しか公開しませんでした。収容所では仲間と「食べるものがな い、拷問にかけられるから、死んだ方がましだ」と話してきました。しかし、「死んだ仲間のことをダライ・ラマ法王に報告し、世界に訴えるのは私たちにしか できない。1人でも生き残った者はそれを実行しよう」と誓い合いました。結局生き残れたのは、私1人だったのです。だからこそ、絶対にダライ・ラマ法王に 報告しようと決めました。

多くの人が自分の信仰を捨てることができずに殺されたということ、多くの母親の苦しみをダライ・ラマ法王に報告することができました。法王は「何らかの形 で記録に残すべきだ」とおっしゃいました。しかし、私には教養がないので、ある女性に協力してもらって出版することができました。この本の中で実名で登場 する人物は現在も生きています。もし機会があれば、ぜひ会って話をしてみてください。

今日みなさんにこのような形でお話できるのはとても恵まれたことで、こうして話をしていると仲間のことが思い出されます。チベット若い人たちが、中国へ の憎しみだけではなく、彼らがなぜそのようなことをしているのかを伝えるために語り始めました。ダライ・ラマ法王は私に「真実を伝えなさい。世界中で多く の人に話す時、決して嘘を伝えてはならない。あったこと、見たことだけを伝えなさい。もし嘘をつけば、それを支援する人までが嘘つきになってしまいますか ら」とおっしゃいました。だから、私はみなさんに真実だけ、自分の体験だけを話しています。

そのおかげで、こうしてみなさんの前に立ち、真実を話すことができて、とてもうれしく思っています。



韓国の従軍慰安婦運家の日本人、在日朝鮮人の人々が なぜ アデさんの入国や
アデさんの講演会を支援しなかったのか?
彼らは 真実を話す アデさんには非常に恐怖に感じたことでしょう。 中国共産党
に関係あるものたちには 真実を話すことも.聞くことも苦痛であろう。
ましてや ダライ・ラマ法王の話など聞く耳持たぬだろう。 社民党をダメにした
帰化人の女性たちに アデさんの話を聞かせてやりたい。
12000人の収容者のうち 生き残った一人の声を 聞かせてやりたい。