パルデンの会

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京都 龍谷ミュージアム 「二楽荘と大谷探検隊」  ~11/末

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11月末までの龍谷ミュージアム秋季展「二楽荘と大谷探検隊」を訪問した。
春季の 「大谷探検隊チベット」を訪問し次回が 「二楽荘」ということで
期待していた展示会であった。
展示は 3F(大谷探検隊)4F(二楽荘)に分けられ非常に自分なりの興味を納得させてもらえるものであった。 特に大谷探検隊個人個人をすべてではないが取り上げて彼らの意気込み、記録、報告を交えて 個人から私物を集めて見せてくれていた。
特に彼らの銀板写真が現代のパソコン技術で生まれ変わりすばらしいものであった。もちろん何らかの処理を加えているのは当然だが、彼らの目線で我々と目を合わすことが出来、何かしら訴えるものを感じてしまったしまったのは私だけだろうか。
 
大谷氏のイギリス留学経験からのシルクロードにおける仏教文明、文化への大きな知的なチャレンジが明治の後半から進められ来たが、大谷氏の凋落とともにそれが閉じられ、その後の太平洋戦争をはさんで、日本宗教の大陸での軍隊との連携や布教等への戦後の指摘反省により 大谷氏の莫大な資料の解析や研究や発表を世に出すのが遅くなってしまったようだ。この2回の展示により龍谷大学での研究が進むことを期待する。
 
本来大谷探検隊は大谷氏がイギリス留学中に自然科学博物館や大英博物館や王立科学院
での会員として研究や発表や展示をみて 自分の置かれた立場、やらなければならないことを自覚したような気がする。 これからも研究が進み大谷氏の大きなスケールがもっと解き明かされるであろう。
 
3Fの二楽荘の展示に関しても今まで集まらず 四散してしまった資料の研究も
いろいろ集められ展示となっている。
実家が神戸の六甲にあり、二楽荘や須磨の月見山別荘の話は聞いていたが昭和40年代
にはそれらの集大成の話はほとんどなかった。その時点から二楽荘と現代を比較すると
40年代をはさんで50~60年の前と後ろで話が動いてきたわけである。
やっと明治から戦後までの日本人の足跡が一歩ずつ確かめられ始めたのだ。
二楽荘の建設は大谷光瑞氏がヨーロッパで受けた西洋科学史観を日本の教育、宗教、科学に交わらせることで欧米社会に追いつくという明治時代の富国強兵下での文化、文明の向上を考えていたに違いない。
その結果が二楽荘の建設とその周りの施設が武庫仏教中学の建設や測候所の建設や農業の試験システムの構築といった大事業となり、大谷探検隊の資料の収蔵だけでないことがわかった。 しかし大谷光瑞氏が大正3年に管長を辞し、二楽荘の運営に回せる資金が閉じられ、運営が閉じられる。しかしながら武庫仏教学校は昭和の初期まで続行され昭和7年の大火ですべてが失われ、そのご土地は何回か持ち主が変わり、昭和50年代に新興宗教・宗教法人に売却されて 現在は五重の塔などの施設が建設されている、
私が神戸で小、中、高、大学を過ごした間は二楽荘は影も形もなくなり、その土地の権利が動いた時期であった、しかしながら まったく二楽荘の話をする人間は地元にも多くはなかった、残念である、
 
空蝉のような二楽荘の話であるが、大谷光瑞氏が何かを欧米から持ち帰り、何かを確かめようと何次かのシルクロード探検隊を送り 仏教とはという疑問 そして 世界との関係を模索したに違いない、
 
我々が師とあおぐダライ・ラマ14世の現在の世界観、宗教観は古来からのチベット仏教と彼が幼年時に受けた欧米の教育から出てきたものだと思っているが、もう少し考えると
大谷光瑞氏が二楽荘にチベット僧を2名留学に招き、彼らと接した大谷探検隊の一員である多田氏,青木氏がその後チベットに行き ダライ・ラマ13世と寝食をともにして、仏教のあり方や近代化のあり方を語らったに違いない。 それこそ大谷光瑞氏が持っていたと私が思う(近代仏教世界論)的なものを話し合ったに違いない。
 
そういうことがあってチベットでは 第二次世界大戦中 全お寺で日本の戦勝を祈ってくれたり、イギリス軍の重慶への物資補給のためにチベットの領域に入ることを断ったことは 大谷の伝えた仏教への思いに対して チベットがお返しをくれたものと思うが、
それらの行動が 現在の 支那共産党の侵略占領をゆるし 今なお植民地となっているという深刻な理由であることも日本人は知ってほしいと思う。
 
チベットに対して われわれ日本人が気にしなければならないことは我々がチベットの事をもっと知るだけではなく、我々自身が 第二のチベットにならないように支那共産党政府との付き合いもよく考えて行うことを望みたい。