パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

<パラオの人々の真摯な歓迎ぶりに天皇皇后両陛下のお顔がどんどんほぐれていくのを拝見する幸せよ>。


 2015年4月9日号。

パラオの人々の真摯な歓迎ぶりに天皇皇后両陛下のお顔がどんどんほぐれていくのを拝見する幸せよ>。



 4時起床。
 天皇皇后両陛下がパラオに到着された。
多くの地を訪ねてこられた両陛下だが、かくも熱い歓迎を受けられたのは稀ではないか。日本人として、嬉しく、誇らしい。
 <待望の訪問、友好の乾杯/地元は歓迎ムード一色/パラオ
 http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015040800702&g=soc
 <両陛下は午後4時前、
南国の熱気に包まれたパラオ国際空港に到着。空港での歓迎式典、大統領夫妻との会見の後、皇后さまは地元の小学校に通う女の子(11)からランの花束を渡され、にっこりほほ笑んだ。
 両陛下を乗せた車は、多くの日本国旗が風にたなびく「
日本パラオ友好橋」を渡り、コロール市街地へ。「ようこそパラオへ!」などと書かれた横断幕も掲げられ、沿道では大勢の地元の人々が両国国旗の小旗を振って歓迎した。>
 いつもご訪問先で笑顔を絶やされない両陛下だが、
今回はとりわけ柔和なご表情のように私は拝察する。ご自身としてはようやく来られたかという安心感がおありなのかも知れず、島民たちの手作り感あふれる素朴な歓迎ぶりも作用していることだろう。一方で、これほど「語られる天皇陛下を目にしたことがあっただろうかと、私は驚いた。確かに式辞などを読まれる機会はたくさんある。だが、今回のお言葉には踏み込まれた部分がいくつもあり、陛下の熱い想いが多く込められているように感じた。まず、ご出発前にこれほどの長いお言葉を語られるのは、珍しいのではないか。
 <天皇陛下羽田空港でのお言葉全文>
 http://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080027-n1.html
 <本年は戦後七十年に当たります。先の戦争では、
太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命が失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます。>
 さりげなく散りばめられた<祖国を守るべく>のひとこと。
朝日新聞などはよく「侵略して南洋にまで前線をひろげたのだ」というようないいかげんなことを書く。そうではないことを、陛下がしっかりとおさえておられることに私は感銘を受けた。
 <パラオ共和国は、ミクロネシア連邦
マーシャル諸島共和国と共に、第一次世界大戦まではドイツの植民地でしたが、戦後、ヴェルサイユ条約及び国際連盟の決定により、我が国の委任統治の下に置かれました。そしてパラオには南洋庁が置かれ、我が国から多くの人々が移住し、昭和十年頃には、島民の数より多い五万人を超える人々が、これらの島々に住むようになりました。>
 多くの人は陛下がここでおっしゃる<祖国>
を日本本土と解釈するかも知れないが私は「ハッ」とした。まことに大切なことを陛下がおっしゃっていることに気付いたからだ。南洋諸島にいる日本人のみならず現地の人々も委任統治ながら「帝国臣民」なのである。だから<祖国を守るべく>の意味は広く読み取っていいのではないだろうか。この私の「発見」は実は、晩餐会での陛下のご答辞につながっていく。
 <天皇陛下の晩餐会でのご答辞全文>
 http://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080037-n1.html
 <しかしながら、先の戦争においては、
貴国を含むこの地域において日米の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、多くの人命が失われました。日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食糧難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。ここパラオの地において、私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。>
 このお言葉の重みがわかる今の日本人がどれほどいるだろう。
今でこそパラオ共和国なので<貴国民>と陛下はおっしゃるが、繰り返すが当時は帝国臣民である。その人々を<守るべく>皇軍将兵は戦ったのだということを、陛下は示唆しておられるのだというのは、私の深読みであろうか。このことを両陛下がご訪問の上で確認されることこそが、南洋に散った英霊への、何よりの慰霊になると私は深く感動したのである。当時を知る人々には、やはり「何か」が届いたようだ。
 <「戦友にも陛下のお声が届くはず」/生還者、遺族、
パラオ国民/晩餐会でのお言葉に深い感銘>
 http://www.sankei.com/life/news/150408/lif1504080039-n1.html
 <14歳でパラオに移住し、
アンガウル島守備隊に現地召集され重傷を負って生還した倉田洋二さん(88)は、「移住した日本人はパラオの人々と交流を深め」とのお言葉を重く受け止めた。「現地の人々と青春をともにし、戦争がなければ一生住みたいと思っていた私には本当に印象深い。戦友にも、陛下のお声が届くはず」と語った。>
 届いていますよ、もちろん。この方のコメントには「帝国臣民」
としての現地の人々の一体感も込められている。二つのお言葉によってこれだけ深いこと語られる叡慮というものに、私は深く頭を垂れる。しかし、大マスコミのどこもそうしたことには言及していないのには苦笑するほかはない。
 戦争を知らずして平和は語れない。それ以前に、皇室を知らず、
陛下のお言葉を読み解くことを知らずして、戦争も平和も、そして日本国も語ることはできないのだ。
 今日、天皇皇后両陛下はいよいよペリリュー島へ向かわれる。
お二人の手には白菊があるはずだ。日本国からわざわざお持ちになられた白菊が。

 天皇陛下を政治に巻き込むのは本意ではないが<
日本軍は貴国民に、安全な場所への疎開を勧める等、貴国民の安全に配慮した>とのお言葉は、いま混乱を極めている沖縄を巡る問題に関しても、深い意味を持つ。以前私はここで、ペリリュー島の戦いで日本軍が「一緒に戦いたい」と主張した島民たちに、敢えて冷たい態度をとってまで、島外へと逃げさせたことを紹介した。これは、皇軍の一貫した方針だったのだ。
 それなのに沖縄の「反日
勢力はかねてから皇軍が住民を虐殺したと主張し、そこで煽動されてきた感情がいまの辺野古移設問題でも利用されていることは確かだろう。残念なことに、沖縄ではもう「島外」に住民を逃げさせる余裕も能力もなかった。とはいえまだしも安全な場所へと皇軍は人々を誘導したのである。まだ沖縄戦が始まる前にせめて子どもたちだけでもと疎開させようとした対馬丸が、米軍の潜水艦によって撃沈されたのはご存じの通りだ。あのころでももう制海権をわが国は失っていた。
 沖縄の反日勢力はよく「唯一の地上戦を戦った」という。
それは違う。南洋諸島でも大日本帝国は地上戦を戦ってきたのだ。委任統治によって帝国臣民であった人々もいたし、移住していた多くの本土出身者もいた。いつも言っているように、最後に本土の楯となってくれた沖縄の人々に対しては、私は「借り」があるとは思っている。けれどもそのことばかりを主張する反日勢力に乗せられてはいけない。天皇陛下のお言葉から、ふと私はそんなことまで思ったのだった。

 沖縄が返還されたのが1972年5月15日のこと。
2年後の74年にひとりの青年が沖縄を訪れた。三好和義さん。まだ写真家とは名乗れるか、名乗れないかの時だ。そこで撮った写真をもとに76年にニコンサロンで個展をひらき、彼の名は一躍世に出た。今や世界的な写真家であり「ミヨシ・ブルー」はその世界をめざす人々の憧れなのは、ご存じの通りである。私の写真の師匠であり、彼とはエベレスト、サハラ、南極大陸、北極圏など世界中を撮り歩いた。
 http://rakuen344.jp/
 まあこの三好さんのサイトの中の「ギャラリー」
をのぞいてみてください。天才というのはどういうものなのかがよくわかるから。その三好さんの写真展が昨日から銀座のニコンサロンで始まった。
 『永遠の楽園 沖縄』
 http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2015/04_ginza.html
 そのオープニング・パーティがあったので私も駆けつけて、
久しぶりに師匠と久闊を叙したのである。昨夜のうちに送っておいたのだが、まだFacebookに写真はあがっていませんね。マネジャーのT-1君はキャバクラに行っていたかな。あとで見てね。
 https://ja-jp.facebook.com/katsuyamasahiko
 「今の沖縄」をミヨシ・
ブルーで描ききる迫力はますます進化しているが、まことに興味深かったのは、さきほど触れた復帰直後のかの地の光景だった。
 http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/exhibition/20150331_692604.html
 <40年前の作品は、
作者が高校1年生の時に本土に復帰して間もない沖縄に一人で撮影旅行に出かけ、宮古島の漁師の手伝いをしながら撮影したもので、17歳の時、銀座ニコンサロンにおいて、最年少記録(当時)での写真展で展示した作品である。新作は、撮影場所が西の果ての与那国から南の果ての波照間にまで及び、40年前から撮りたいと思っていた奇祭や秘祭も撮影している。>
 30点のモノクロ作品は、
三好さんの故郷である徳島の実家の蔵の中にしまってあったものだという。カラー作品はすべてデジタルだが、当時の作品は撮ってすぐにご自身でプリントしたものだ。そのプリントの技術にも私は瞠目する。あのころはプリントまでしてようやく「作品」になった。だから写真家というのは、なかなかなれない職業だったのだ。今のように、素人がスマホのシャッターを押してもそれなりの作品が撮れてしまう時代が来るとは思わなかったなあ。
 写真にそんなに興味がない方でも、
今の沖縄を巡る諸問題について何か悟りたければ、ぜひこの写真展に行ってみてください。「復帰直後」の沖縄の人々の素顔と生活がそこにはある。これほど素朴だった島民たちの人生が、なぜ今のようにこじれてしまったのか。辺野古に関する問題だけではない。わずか40年前の沖縄の風景と、今のそれを重ね合わせると、どこか尋常ではないのだ。
 基地は当時からあった。
むしろ占拠されていた土地は広かっただろう。しかしそれと共存して、伝統的な沖縄の日々の時間が、ゆったりと流れていたことを、三好さんの写真は教えてくれる。今の沖縄は、それはリゾートは美しい。しかし、どこか風景全体が殺伐としているように、訪ねるたびに私は感じてしまうのだ。
 何がそうさせたのだろう。
莫大な本土からのカネが流れ込んだはずなのに、あの素朴な風景をどう壊してしまったのだろう。写真というものは時に、文章よりも饒舌にものごとを語る。私は詩人から出発したモノ書きだが、写真は詩に似ていると感じることが多い。だから写真の道にも進んだのかも知れない。三好さんの作品は、私には饒舌に「沖縄の問題」を語っているように思われた。
 三好和義さんは、
私のように政治や経済をわあわあ言う存在の対極におられる。しかし、一緒に世界中を回っている時、私が語りだすと「ふうん。そうなの」と聞いておられたことを思い出す。私のような「俗」をすべて捨て去ることで、その奥にある永遠や美を撮ってこられたように思われる。
 しかし、今回の会場の、
入ってすぐに飾られた40年前のモノクロの沖縄は、やはり何事かを語りかけてやまない。そのあとに続く、壮絶に美しい「今の沖縄」の作品群があるからこそ。ぜひとも訪ねてみてください。春の宵の銀座をぶらぶらしたあと目の保養をするのもいいものですよ。

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勝谷誠彦氏の有料ブログより転載