パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

両陛下が慰霊 遺族「涙が止まらない」 比

7年前に亡くなった親父は 学徒動員 で九州から出兵した。目的地はビルマ、しかし途中で潜水艦によって 船がフィリピン沖で攻撃され沈没、一時 マニラに上陸、そのご再度 ビルマに向け出発、ビルマを転戦して、今度はインドネシアカリマンタンまで転戦し、終戦を迎えた。 
最後はシンガポールの捕虜収容所に入れられ、
親父は通訳兼記録係として、自分の隊以外のすべての部隊の復員作業をおえて 多分昭和21年に
日本に戻ってきたようだ。 あまり詳しい戦歴は聞いていない。 しかし戦争は人を殺すことであるが
その話は聞いたことはなく、 食糧難でなんでも食べた話は聞かされた。

その親父から戦争の話題を止めてしまったのは、 私が偽りの従軍慰安婦の事を口にして親父が食卓をひっくり返したときからである。 
慰安所の設定は別に軍がやったわけでもなく、慰安婦
職業であって 給料をもらうと 周りの部下たちは 飛んで行っていたとのこと。
その当時 親父は大学生で戦争に駆り出された 22歳にお兄ちゃんで、中隊長を命じられ、部下は40歳以上の家族持ち、そういう中で親父はめまぐるしく生き抜いたはずである。
その親父に対して 息子が 朝日新聞を読んで 「朝鮮人を強制連行して慰安婦にしたてた。」と非難し、嘘の新聞記事を真に受けた息子に本当におこったわけである。 
それ以来親父が死ぬまで 戦争の話はしなかった。

私はフィリピン、ビルマシンガポールインドネシア朝鮮半島すべて観光、ビジネスで通り過ぎた
しかし どこでも日本人を悪く言う人はいなかった。 
朝鮮半島でも!
とくにフィリピンにおいては 私が最初に訪れた時は まだ 戒厳令がひかれていた時だと思う。
ある時間になると外出できなくなって、朝まで飲み屋に残って楽しんでいた。その頃はベトナム戦争
終わったころで 太平洋戦争 ではなく ベトナムでフィリピンが潤っていた時である。

そのころでも ルバング島では 小野田さんが 戦後を知らず孤独な戦いを行っていたし、グアム島でも
横井さんが戦後も戦いを続けていた。 日本は欧米に植民地化されたアジアの人々を自由な独立国と
して開放したことは 本当に素晴らしいが、 戦後それを消し去るため、占領軍と政治家は 日本人の教育を
開始し 戦前の近代史を書き換えてしまい、日本人の精神構造を壊そうとしてきた。
今でもNHKではそれにしたがって 戦争は無駄な戦いという むちゃくちゃな 番組を流している。
その流れの中で 戦地で亡くなった兵隊、軍属への忠霊とか慰霊とかは忘れられ、逆にそれぞれの国への
謝罪とか倍賞とか言うほうが大きくなってしまった。

昭和天皇が亡くなられて 現在の天皇はその御意志を御引き継ぎになられて、ご高齢にもかかわらず熱い
南国の地に 慰霊のためにお回りになる、非常に頭の下がる思いである。
馬鹿な 役人が犯してきた 死んだ兵士たちを 日本に帰すことも完了せず、
現地において迷惑をかけた 相手国にも金でしか対応してきていない日本政府。それを今回の両陛下の フィリピン訪問は 戦後70年を過ぎて やっと一つの形を整えることができたのではないだろうか。
両陛下ありがとうございました。  お体に気を付けて まだ 両陛下に行っていただきたいところは
まだあるようですが。。。。。。。。。。 

両陛下が慰霊 遺族「涙が止まらない」 比

日本テレビ系(NNN) 1月30日(土)1時35分配信
 フィリピンを訪問している天皇・皇后両陛下は29日、太平洋戦争で亡くなった日本人戦没者の慰霊を行われた。

 両陛下は、マニラから100キロほど離れたカリラヤにある日本人戦没者の慰霊碑「比島戦没者の碑」を訪問された。両陛下は、慰霊碑にゆっくりと進み、日本から持って来た白菊の花を供えて深く頭を下げられた。

 日本人遺族やフィリピンで戦った元日本兵らが見守り、両陛下は、慰霊が終わった後、「苦労されましたね」などと1人1人に言葉をかけられた。

 遺族「みんな喜んでますよ。亡くなられた兵隊さんだけでなく、そのご両親、子ども、奥さん、今日の日をみんな喜んでいるんじゃないでしょうか」

 遺族「何回も来てはいるんですけど、慰霊巡拝で。こんなにうれしいことはありません。涙が止まらなくて」

 両陛下は、30日に日本に帰られる予定。



勝谷
誠彦氏の有料ブログより転載
2016年1月30日号。

<51万8千人。フィリピンで散った英霊です。両陛下のご訪問でこの数字が人口に膾炙しただけでも、私は嬉しい>。

前略

 ひとつひとつのエピソードに涙してしまうのは私だけだろうか。天皇皇后両陛下のフィリピンご訪問である。
 <両陛下、日本人戦没者の碑へご供花/
霊51万8千人をご慰霊>
 http://www.sankei.com/life/news/160129/lif1601290023-n1.html
 <
日本とフィリピンの国交正常化60周年を記念してフィリピンを訪問中の天皇、皇后両陛下は29日午前、ヘリでラグナ州カリラヤを訪れ、「比島戦没者の碑」に供花された。海外で日本人の英霊を追悼する「慰霊の旅」を果たされたのは、戦後60年の節目だった平成17年の米自治サイパン戦後70年の節目だった昨年のパラオ共和国に次いで3度目となった。>
 いい写真でしょう。今朝、コンビニには産経新聞だけはあった。
手にした瞬間に「ああ、いいなあ」と思った。職業写真家としては、撮り手がどういう気合でシャッターを押しているのかわかるのである。「心を込めた写真」だと感じた。申し訳ないが、えてして新聞社の写真家は「押すだけ」の人が多い。そういう現場なのだから仕方がないが、朝日新聞にはとりわけそういうカメラマンが多い気がする。この写真は、狙って静かにシャッターを切ったものだ。気合が伝わって来る。
 フィリピンは「敗けいくさ」の地であった。
だからあまりに多くの英霊が生まれた。今回のご訪問でそうしたことをはじめて知る日本人も多いのではないか。
 <フィリピンは先の大戦最大の激戦地で、
51万8千人に上る邦人犠牲者数は海外で最多。310万人とされる日本人戦没者の6分の1、軍人軍属に限れば230万人の4分の1に近い。日本から駆け付けた遺族や数少ない元生還兵ら約150人が見守る中、両陛下は日本から持参した白菊の花束をそれぞれ碑に手向けると、深々と拝礼された。>
 産経新聞のこの記事は他紙を圧倒しているが、
もっと内面まで踏み込んだ以下の記事には驚いた。よほど両陛下のお心をいつも拝察していないと書けないものである。やや引用が長くなるが、意味があると感じるので引くことにする。
 <「今回が最後とは言えなくなった」/両陛下、終わりなき旅 30日ご帰国>
 
http://www.sankei.com/life/news/160129/lif1601290031-n1.html
 <平成17年のサイパン
昨年のパラオ共和国に続いて先の大戦最大の激戦地フィリピンでの邦人戦没者のご慰霊が29日、実現した。天皇皇后両陛下は今回の「慰霊の旅」で、戦禍を繰り返さないという変わらぬ強い意思を示された。深く深く拝礼される両陛下の後ろ姿に、日本から駆け付けた遺族が目頭を熱くしていたのが印象的だった。
 私が驚いたのは以下の記述だった。はじめて聞くことである。
 <両陛下のご慰霊の旅の原点は、
ひめゆりの塔事件などと呼ばれる火炎瓶事件だといわれる。>
 <昭和50年7月17日、
沖縄国際海洋博覧会開会式に出席するため沖縄を訪問した皇太子夫妻時代の両陛下が、このひめゆりの塔を参拝された際、過激派2人に火炎瓶を投げつけられたのだ。>
 当時私はまだ灘校生。怒を発して「こいつらは死刑だろう」
と思ったものだ。しかしろくな刑も打たれずにどこぞの飲み屋で「武勇伝」でも語っているのだろう。当時は「テロリスト」という言葉があまり普遍ではなかった。今考えればどうみてもこいつらは「テロリスト」である。何が「過激派」だ。「激に過ぎる」ではなく、ただの犯罪者でしょう。これも朝日新聞などが作った用語なのである。そんな私であったが、両陛下のお心のうちは今回の産経の記事ではじめて知った。感動した。
 <両陛下はその後も沖縄での日程をこなし、
沖縄の人たちが日本人、米国人、軍人、民間人の区別なく、戦没者を弔った「魂魄(こんぱく)の塔」に花束を手向けられた。沖縄訪問前、陛下は「石ぐらい投げられてもいい」と述べており、不測の事態が起こることも覚悟した上でのご訪問だったとされる。
 ここまでお言葉として新聞が引くのは、
それなりの根拠があるのだろう。玉体に傷を負われてもなすべきことがあるとの御心。たとえばフィリピンの人々も、その覚悟をどこかで察したと私は思う。ご訪問前にはいろいろと誹謗中傷の報道もあったのが、お二人が目の前にあらわれるや、人々は黙った。黙らざるをえない空気があるのだ。それを私たちは大御稜威と呼ぶ。日本民族だけが持っている、他にかえがたいものである。
 両陛下のお姿はもちろん、
私の愛するフィリピンの人々に映えるものである。しかし、私たち自身もそこからさまざまなことを学ぶ。ありがたいというほかはない。

 まだ一般のニュースにはそう流れていないので、
あまり好きではないがYAHOO!から引くことにする。
 <NHK塚本アナを再逮捕/危険ドラッグ製造容疑/
関東信越厚生局
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160129-00000076-jij-soci
 <自宅マンションで危険ドラッグを製造したとして、
関東信越厚生局麻薬取締部は29日、NHKのアナウンサー塚本堅一容疑者(37)を医薬品医療機器法違反(製造)容疑で再逮捕した。
  「自分で使う分を製造した」と容疑を認めているという。
  麻薬取締部によると塚本容疑者は1月上旬、
東京都文京区の自宅マンションで指定薬物を含む危険ドラッグを製造した疑い。>
 これはかなり深刻ですよ。
ヤクの使用と製造との間はあまりに大きい。製造するということは売ることができるわけであって、ヤクの費用の負担に耐えかねた使用者は、たいがいそちらにも走る。まさかと思うがNHKの職員が製造そしてバイニンになっていたとすれば、これはあのみっともない顔のトップ(なんであんなに下品なのかね)の辞任は当然だろう。NHKは最近、狂っているとういうか、もともとそういう組織だったのが、ヤバいと感じて調べたらいろいろと出てきたのだろう。もちろんNHKから引く(笑)。
 <NHK記者3人/タクシーチケット不正使用で懲戒処分>
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160129/k10010390751000.html
 <NHKさいたま放送局放送部の男性記者3人は、
去年11月までの1年余りの間に業務用のタクシーチケットを私的な理由で使っていました。使った額は、それぞれおよそ36万円、およそ12万円、そして6850円で、友人との会食や私的な旅行に向かう際の空港への移動などに使用していました。
 NHKは、額の最も多い31歳の記者を諭旨免職
次に多い23歳の記者を停職1か月、そして29歳の記者を出勤停止5日の懲戒処分にすることを決めました。>
 これはしかし、
現場が萎縮してますます取材力がなくなるだろうね。今でもないけど。誤解を承知で言えば「取材費」に公私の区別などないのである。次の情報源となりうると思えば自費でも呑みに行くが、そんなことばかりしていると記者は破産する。NHKの取材力はくりかえすが今でもないが(笑)格段にこれで落ちるだろう。
 <
NHKは来月1日から全国80の部局でタクシーの使用状況の緊急の調査を行うとともに、関係する部局からなるプロジェクトチームを作り、具体的な再発防止策を検討していくことにしています。>
 アホらしくて誰も独自の取材に行かねえよ。5時になったら「
タク券もないし、さあ、帰ろう」だ。馬鹿だねえ。こういう「総務系」が威張りだすと会社はおしまいなのである。だから私は、あそこを辞めた。

 こんなもんどうでもいいだろう。
 <世界記憶遺産、日韓が共同申請へ署名 朝鮮通信使の史料>
 http://digital.asahi.com/articles/ASJ1Y5DNQJ1YTIPE021.html
 <江戸時代に朝鮮王朝から日本に派遣された外交使節団、
朝鮮通信使ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界記憶遺産への登録をめざす日韓の関係者が29日、両国の史料計111件333点を「朝鮮通信使に関する記録 17~19世紀の日韓間の平和構築と文化交流の歴史」として申請することに長崎県対馬市で合意し、署名した。来年の登録を目標に3月、ユネスコ本部に共同申請する。>
 まさか税金を使ってやっているのではあるまいなと疑ったが、
記事からはそのあたりは読み取れない。
 <研究者らが日韓それぞれで学術委員会をつくり、
2014年から検討と協議を重ね、資料の所蔵・管理者の同意を得て選定した。日本の学術委員長の仲尾宏・京都造形芸術大客員教授は「記録は長い間、平和体制の構築を目的に行われた外交的実践の結果物。平和的な共存と交流への模範的なテキストになる」と語った。>
 まあやるのはいいとしても、日本国としての優先順位からすれば、
もっと高いものがいくらでもあるんじゃない?なぜ支那朝鮮のことになるとこうやって大はしゃぎして、大マスコミものっかるのか。私はむしろ、お互いの感情を考えると優先順位は低くていいと思うのですが。オランダとの交易などの方が歴史的には大事ではないのかい?

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<両陛下>参列の95歳「レイテ島で戦友に報告します」

毎日新聞 1月29日(金)21時25分配信

 ◇慰霊で26回訪問、元日本兵の松本さん

 【カリラヤ(フィリピン)高島博之】フィリピンを公式訪問している天皇、皇后両陛下は29日、「比島戦没者の碑」を訪れ、太平洋戦争で亡くなった日本人を追悼された。参列者の一人、元陸軍第1師団副官の松本実さん(95)=東京都新宿区=は「心を込めて慰霊してくださったことを、亡くなった戦友に報告したい」と話す。約1万3000人でフィリピンに派遣された第1師団は、米軍との戦闘で壊滅し、終戦時に生き残ったのはわずか400人だった。

 第1師団は1944年11月、米軍が進出したフィリピン・レイテ島に派遣された。島西部のオルモックから上陸。北部のカリガラへ進み、米軍を攻撃せよとの命令を受けた。その途中のリモン峠で米軍と衝突し、激戦となった。空爆と砲撃で圧倒され、約50日間の戦闘で1万人近くが亡くなった。

 松本さんは砲弾の破片を右足に受け、骨が露出するほどの重傷を負った。松葉づえをつきながら、転進先のカンギポットに向かい、ぬかるみの広がるジャングルを歩いた。野戦病院の前では、負傷した将校から「手榴(しゅりゅう)弾をください」と声をかけられた。手榴弾を手渡し、立ち去った。自殺のためだとわかったが、「どうすることもできなかった」と振り返る。

 第1師団はさらに転進命令を受け、セブ島に向かう。海を渡るのに用意できたのは、小型船4隻だった。船はレイテ島とセブ島を往復して日本兵を運んだが、米軍機の攻撃を受け、多くの兵がレイテ島に取り残された。セブ島に渡れたのは約700人、終戦時に生き残ったのは約400人だったという。

 松本さんが、戦友の慰霊のためにフィリピンを訪れるのは26度目になる。「だれにもみとられずに亡くなった戦友を思うと胸が痛む。元気なうちはずっと慰霊を続けたい」

 29日、戦没者の碑で慰霊を終えた天皇、皇后両陛下は、多くの参列者と言葉を交わされた。松本さんは両陛下に、「明日からレイテ島とセブ島の慰霊碑を訪れます。きょうのことを報告します」と伝えた。天皇陛下からは「遺族のためにも尽くしていただき、ごくろうさまです」とねぎらいの言葉をかけられた。皇后さまは「ずいぶん遠いです。気をつけてくださいね」と話したという。

最終更新:1月30日(土)1時47分
毎日新聞