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黄文雄氏の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」より かつて日本は台湾を植民地として支配していた─。学校でこのように習った方も多いのではないでしょ うか。しかしこれに異を唱えるのは、台湾出身の評論家・黄文雄さん。メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』で開始された新連載で、「歪められ、貶められ続けてきた日本の過去を修正する」とし、日台の「真の歴史」を綴っています。 台湾は日本の植民地だったのか戦後、日本帝国時代の台湾、朝鮮、満州は「三大植民地」と見なされ、植民地ゆえの搾取、虐殺が日本軍によって行われたとされてきた。さらに日本嫌いの進歩的日本人や中国人のなかには、琉球(沖縄)や北 海道まで日本の「内国植民地」だと主張する者までいる。 しかし、朝鮮は日韓(朝)両国の「同君合邦国家」であり、近代国民国家形成史から見ても日本の植民地ではないことは史実である。さらに満州国の成立は、国際連盟で中国から提訴されたものの、日本、ドイツ、イタリアをはじめとする多くの国家から正式に承認された五族協和の近代国民国家であり、これを植民地と呼ぶことは不可能である。朝鮮や満州でさえこのような事実があるのだから、ましてや国内の琉球や北海道が日本の「内国植民地」と称するのは、言葉遊びも甚だしいというものだろう。 日本の植民地支配を声高に非難する中国や韓国だが、史実として朝鮮や満州が日本の植民地ではなかった一方、親日派が多いとされる台湾はどうだったのだろうか。 実は、むしろ台湾こそ日本帝国の植民地であったかどうかという判断が微妙なのである。戦後の日本人のなかには、それを否定する人はほとんどいないし、「日本植民地の優等生(模範生)」とまで言う人もいる。 実際、日本が台湾を植民地とするかどうかということは、日清戦争後の下関条約によって台湾の永久割譲が決定して以降、当時の日本国内でもさまざまな議論を呼んだ問題だった。 論争の内容は、大きく二つに分けることができる。 ひとつは日本国憲法を台湾に適用するか否かというものである。これまで、植民地に憲法を適用したという類例は世界的に見ても皆無だったからだ。 もうひとつは、実質的な台湾経営をめぐっての「植民地経営」論争である。ことに、台湾の実質的経営をめぐっては、二つの意見が対立していた。後藤新平が主張する、台湾の慣習に従いつつ文明開化や殖産興業を成し遂げるという、イギリスを範とした「植民地経営」方式と、後に総理大臣となった原敬が主張する、九州や四国と同じような「内地延長主義」方式である。 いずれにしても、下関条約後、台湾経営のために設立された「台湾事務局」(局長は伊藤博文)において、この「台湾植民地論争」が大いに議論された。以来、この論争の参加者は日本政界の大物、帝国議会議員、日本政府関係者、憲法学者、植民地学者、ジャーナリスト、台湾知識人など広範囲にわたって繰り広げられた。つまり、過去半世紀(1895~1945)にわたる日本の台湾統治は、決して「日本帝国主義下の植民地支配」などと一言で語り尽くされるべき単純なものではないのだ。 それでも、日本の50年間にわたる台湾統治について「結局結論はどうなのか」と問われたならば、私は、日本は台湾に対して「植民地統治」をしていなかったと答えるだろう。私のこの結論は、台湾総督府の治績による結果からではなく、日本人の台湾に対する領土観から言っているのである。 当時の伊藤総理は、台湾経営については、樺山資紀初代台湾総督に「しっかりやれ」と激励したのみであり、「植民地経営」の方針や政策については何ひとつ指示しなかった。 やがて第4代総督・児玉源太郎の時代(明治31年~明治39年)になると、民政長官に後藤新平が就任したこともあって、「植民地経営」的な色彩を帯びてくるようになる。そのことは、持地六三郎の『台湾植民政策』 でも指摘している。後藤の「植民地政策」は、先に述べたようにイギリスを範としたもので、台湾の慣習に従いながら文明開化、殖産興業を具体的に推進していった。また、後藤は植民地論争を避けるために、教育については「無方針」政策を取っていた。 これ以降、7代目総督までは、たしかに「植民地的色彩」を持っていたことは否定しない。しかし、台湾の法体系から実質近代化策を見るかぎり、ことに第8代総督・田健治郎の時代(大正8年~大正12年)からは、原敬の「内地延長」思想がすでに台湾経営の主流となっており、台湾はむしろ日本の植民地を否定する近代国家建設の方向へと向かっていた。 そして第18代目の長谷川清総督時代(昭和15年~昭和19年)には、皇民化運動や徴兵制などが行われ、帝国議会議員選挙が予定され、完全に「植民地」の色彩はなくなって「日台一体」がほぼ達成されていた。台湾は、九州や四国と同様に、日本内地の延長として扱われていたのである。多少伏流のあった時期もあるが、結果的には台湾は内地延長主義型経営を主流に行われたのである。 つまり、台湾は日本の植民地ではなかったということだ。それが台湾近現代史の正しい歴史認識である。 間違いだらけの戦後日本の植民地観 しかし、ここで改めて指摘したいのは、日本が台湾に対して一時的に植民地的な経営を行っていたからといって、それは搾取や虐殺とはまったく関係なかったということである。 そもそも日本人の植民地観は、戦前と戦後で大きく変化しており、場合によっては「価値逆転」や「倒錯」意識さえもある。しかし、19世紀の「植民地」主義思想は、人類最大の理想であり、もっとも進歩的な思想として考えられていた。先進国である列強が、弱小民族や未開民族に文明開化をもたらすことが、列強時代の倫理的責任や使命であると考えられてきたのだ。つまりそれは、社会主義国家と同じく、「解放の思想」であったのだ。 それが一転して植民地主義が「悪」の象徴として捉えられるようになったのは、大正デモクラシーの時代から戦後に至って、「人類解放、世界革命、国家死滅」の社会主義イデオロギーが植民地思想に代わり、20世紀のもっとも進歩的思想として流行、一世を風靡してからである。 同じ解放思想であるにもかかわらず、解放の主役が植民主義思想は「先進民族」であるのに対し、社会主義は「先進的プロレタリア階級」であるという違いから、日本では社会主義を信奉する進歩的文化人による悪意に満ちた歴史捏造が繰り返し広められた。社会主義イデオロギーによる植民地批判は、理論先行が中心であり、理論を成立させるためには、彼らは歴史の捏造をしてでも主張を曲げない。 植民主義思想も社会主義思想もすでに過去のものとして語られるものだが、日本ではいまだ社会主義思想に染まった進歩的文化人が跋扈している。そのため日本人は、今日に至ってもなお、植民地主義に対して大きな見当違いをしているのである。たしかに欧米の植民地政策には、搾取や虐殺をともなうものが少なくなかった。それがまた、現代の「植民地に対する嫌悪」につながっているのだろう。しかし、戦後、悪罵され続けてきた「日本帝国主義下の○○植民地」は、欧米の植民地とは本質的に違い、台湾、朝鮮、満州のどこにも「植民地的搾取」云々など見られなかったのだ。 それどころか、日本の台湾経営には「植民地的搾取」とはまったく逆の史実が残されている。たとえば、日本領台初期の明治28年(1895)、台湾総督府の支出はすべて日本中央政府の軍事予算から出されていた。 明治29年度の台湾の歳入はたったの271万円で、日本の国庫補助は694万円であった。日本領台が始まってからしばらくは、このように日本の国庫からの補助で台湾経営が行われていたのである。台湾の財政が自立したのは、日本領台10年目以降であった。この事実を見ても、「植民地的搾取」があったどころか、台湾は日本におんぶに だっこ状態であったのだ。(続) 『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html |