パルデンの会

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五輪などで夢中なこの時に、猫なで声で皇室に関して「国民の総意」などといい始めた朝日新聞を警戒せよ



有料ブログ  勝谷誠彦の××な日々。 より転載

 2016年8月10日号。

<五輪などで夢中なこの時に、猫なで声で皇室に関して「国民の総意」などといい始めた朝日新聞を警戒せよ>。



 3時起床。
 圧倒的な数の反響を頂戴した。昨日の日記に関してである。
なぜか読者として登録されていない方からも来た。お願いですから、貧しい初老の男のために、講読して下さい(笑)。でもまあ、嬉しい。あれを送ったあともずっといろいろと調べていたが、天皇陛下のまさに渾身のお言葉に対して、真摯に向かい合った論説というものは、私の不勉強なのかも知れないが、そうは見当たらないのだ。即応性を求められる新聞やテレビということもあろうけど、相も変わらず皇室ゴロみたいな連中が、毒にも薬にもならぬことを呟いていた。そうやって幇間のように生きているから飯が食えてきているのだろう。
 五輪ばかり観ている影響は否定しないが、
どこにも飼われていないモノ書きというのはやや、アスリートに似ているところがあるとは思っている。評価されなければ食っていけない。評価されるためにはほどほどの成績から落ちることなく、ときどき一発を決めなくてはいけない。私がテレビの前で「おおっ」と声を出すような「着地」がたまにはあってこそ、名前を覚えてもらうのだ。おそらく選手たちはその瞬間にとんでもない量の脳内物質に満たされて「やったな」と感じている。コラムという短い文章であっても実は同じなのだ。不満だと選手は「監督に叱られないかなあ」と思うだろうが、モノ書きは「本当は編集者は不満なんじゃないか」と考える。
 自慢する。昨日の日記は久しぶりに「着地がピタッと決まった」
と感じた。最後に朝日新聞の岩井克己元記者という大先輩の文章を引いたのには、やや忸怩たるものがあるが、なに、内田航平君の技だって、開発したロシア人の名前などが入っているではないか。わははは。強引に言い訳。いいものはいいのだし、それを使いこなせることが大切でしょう。その前も「ひねり」や「回転」がきれいに入っている。こう書くうちに本当に体操に似ていると思われてきた。
 着地は審判、私の場合だと読者の読後感を高めるための技である。
本当の見せ所はそれまでにあるのだが、そのことに気づいてくれた方々が多くて、モノ書きとしてかかる読者のみなさんを持っていることはなんと幸せかと感動した。陛下のお言葉を私は引いた。
 <即位以来,私は国事行為を行うと共に,
日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。>
 象徴とは何か。触れたように、
日本人はGHQにこう言われたまま、実はその意味を咀嚼していなかったのではないか。そこまでは思い至ったが、陛下のお言葉の中で抜け落ちていたひとことまでは言及できなかった。天皇陛下にとってはそんなことは「当然」であって、だから敢えておっしゃられなかったに違いない。「総意」である。ややくどいが引く。これは日本人ならば暗唱して欲しい。
 <第一条/天皇は、
日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。>
 迂闊ながら「あっ」
と思ったのはわが精鋭無比なる工作員の何人もから「象徴のあいまいさを論ずるなら、総意についても検討すべきではないか」との指摘があったからである。恐ろしい。そのあたりに転がっている評論家を束にしても対抗できない頭脳がこの日記を読んでいる。とほほほ。

 8月15日という大切な日が近づいているので私の頭の中も、
国家や皇室について満ちてているが、読者のいくらかもそうなのかも知れぬ。そういう日本人がいることが大切であって、ほとんどの方々は五輪と高校野球に…危うく私もそうなるところだったが。「総意」とは何か。<国民投票なのでしょうか>というまことに鋭い指摘もあった。だが<総意>と<象徴>は響きあうものであって、欧米の民主主義のように数できっちりと決めるものではないと私は考える。昨夜からそんなことでいろいろと思索をしていると、今朝の朝日新聞が届いた。「あっ」と思った。まさか私の隙を突いてきたのでは…自意識過剰。そんなことありません。でも驚いたなあ。
 <社説/天皇陛下お気持ち表明/「総意」へ議論を深めよう>
 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12502961.html
 まず、朝日でも認めるところは認める。
 <改めて思うのは、政治の側が重ねてきた不作為と怠慢だ。>
 <だが安倍内閣は、
これらの課題に積極的に向きあってこなかった。議論は深まらないまま、先月になって突然、退位の意向が報道で明らかになった。
 陛下が先をゆき、
政治があわてふためきながら後を追いかけている。そんな印象を多くの人が抱いたのではないか。>
 政治の無策についてはその通りだ。
しかしそれはもうずっと過去からの政権が怠慢であったわけであって、今の内閣だけのせいではない。安倍晋三首相にすべての責任をかぶせようという意図がありありと見える。その上で追い込みをかける。
 <首相は自らの責任を自覚したうえで、
この問題に正面からとり組む必要がある。>
 安倍さんはいわゆる真正の「保守」
だからこそ逆に手をつけにくかったのだが、これからはまさにまなじりを決してできることをやっていくだろう。驚くのはここからである。私がもっとも警戒してきた論を早くも持ちだしてきたのだ。さきほど紹介した「総意」とは「国民の数である」という論理だ。いきなりこう小見出しを打った。
 <決めるのは国民>
 違います。大きな活字で書きたいところだ。<決めるのは>「
天である」と称すると支那の雰囲気が出て嫌だが、敢えて言うならば皇祖皇宗のご意志であり、これまでの日本民族すべての意志だ。たかだか今この時代を預かっている私たちがどうこういうことは不遜というほかはない。朝日は最後に本性をあらわす。
 <朝日新聞の社説は、
これからの皇室のあり方をさぐる前提として、広がりすぎた感のあるこれらの活動をいったん整理し、両陛下や皇族方に、何をどう担ってもらうのが適切か、検討する必要があると主張してきた。お気持ちの表明を、この問題を考える良い機会としたい。>
 おまえらが決めるんじゃねえ。お気持ちは、お気持ちだから、
お気持ちなのだ。左巻きの教育を受けてきて、築地でぬくぬくと高給を食んでいる奴が何を言うか。英霊がねむる靖国神社への皇族の参拝を妨害し続けてきた朝日がどの口で<適切か>と判断するのか。お気持ちがあればそれをもっとも尊いものとして拝するのが日本人だ。築地にいるのは支那人か、朝鮮人か。
 <一連の事態は、象徴天皇制という仕組みを、
自然人である陛下とそのご一家が背負っていくことに伴う矛盾や困難を浮かびあがらせた。どうやってそれを解きほぐし、将来の皇室像を描くか。落ち着いた環境の下で冷静に議論を進め、「国民の総意」をつくりあげていきたい。>
 さて、クライマックスである。
昔なら私は読者ナントカ室に電話をしてたずねていたが、今はもう面倒くさいので応援してくれる方は朝日に聞いてみればいい。<国民の総意>に結局はいきついたのだ。繰り返すが<総意>とは何か。本当に<総意>なんてものができるなら朝日が大好きな「進め一億、火の玉だ」の世界である。あるいは投票率ほぼ100パーセント、あの電話頭豚をそれがみな支持する北朝鮮の世界だ。朝日はそういうものを<つくりあげていきたい>の?まあ、戦前はさんざんやらかしていたよねえ。
 <総意>は朝日新聞ごときに<つくりあげ>
ていただくものではない。それは茫漠として、しかし確固とした民族の意志として、朝日などに入社しない日本民族の中はきちんとあるものだ。<皇室像>などない。どこの時代に<皇室像>を求めた日本人がいたか。敢えて言うならば列強の帝国時代を生き抜くために、大日本帝国は<皇室像>を作った。それって、朝日がいちばん嫌いなことじゃなかったっけ?
 今月もそろそろ『WiLL』の「あっぱれ築地をどり
を入稿しなくてはいけないが、ホントに毎月、ネタを朝日はくれるなあ。長年書いてきて思うのが、朝日にはもう左巻きイデオロギーおたくは実はあまりいない。そういう先輩に教育されて、それがイデオロギーだとも知らずにただの仕事として真似をしている「頭の悪い記者」が増えているように思われる。もっとも私がお世話になった文藝春秋をはじめとして、対抗勢力も似たようなものだが。だったらおまえの時代は立派だったかと言われると、とてもとても。今の方がウェブのせいなどで、圧倒的に情報量は多い。羨ましい限りだ。だから、がんばれ。

 やっぱり少しは書いてしまう。まあ、
いまは一日の多くの時間をこれに割いているので当然か。五輪である。ずいぶんと、これまで知らなかった競技を教えてもらった。なぜかと考えてみると、日本人のさまざまな競技のすそ野が広がってきて、これまでだったら「十何位でした」のひとことで終わるのが、成績がいいので映像まで流れて印象づけられるからかと。メダル獲ったらさすがにそれを紹介するでしょう。むかし報道に少しいた人間としては、現場の忙しさは過去と比較にならないのかと、やや嬉しい同情をする。
 これは私の印象だけなのか。銅メダルが多い気がするのである。
昔は「金でなければメダルにあらず」という雰囲気があった。これはメディアの数が少なくて、勝戦ばかり中継していたせいもあるかも。私がいまテレビの前で佇立して「がんばれ」とかわめいている多くは3位決定戦である。これがことごとく勝つんだな。応援しがいがある。一方で「この一発に人生をかけているのだろう」という旧ソ連の国々の選手などにも2割くらいは気持ちを持っていかれている。
 そうした国をたいがい歩いているので、
貧しい街並みを思い出してしまったりするのだ。もっとビンボーな国にはそれをあまり感じない。そうした国からここに出てきているだけで、かなりな富裕層だと思うので。ビミョーなのが旧東欧である。ソ連のころは、国家の育成でいい生活をしていたのだろうから。もう無限に嬉しい知らせはあるけれども、ひとつだけと言うならこれを。
 <松本薫が銅!うれしさと悔しさで「甘酸っぱい感じ」>
 http://www.nikkansports.com/olympic/rio2016/judo/news/1691676.html
 <試合後は「もう一度負けているので、
負けられないという思いで戦いました。金メダルを目指していたので負けてしまったときにどう切り替えようと思ったけど、何も持たないで日本に帰れないと思いました」と短期間で気持ちを切り替える難しい戦いを振り返った。連続メダルで自分をほめても良いのではという質問には、黙って首を横に振った。ただ「(日本のファンが祝福を)送ってくれているならうれしいです」と応援に感謝した。>
 こういう子なのだ。
あまたのアスリートとスタジオなどで会ってきたが「かわいい」と思ったのは「野獣」の彼女だった。やはり私の趣味はおかしいか(笑)。「私には妖精が見えるんです」と真顔で私に言うのだ。「ティーカップのへりとかに」。いや、だから「かわいい」と思ったなら私はヘンだが、そうではなく人間性そのものが美しかった。東京までやろうよ。そう思わせるアスリートたちは多い。国家として「東京までやろうよプロジェクト」できないかな。私のような年齢の連中はとんでもなく応援するぞ。

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