パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

「外国人多くご不便を」/南海電鉄40代車掌が不適切アナウンス

有料ブログ 勝谷誠彦の××な日々。より転載

 2016年10月11日号。<まずは地方から。「貴族の末裔」を立てようではないか。朝日新聞に「差別」と罵られても>。
 3時起床。尼崎市の自宅。
 読まれた方によっては既視感(デジャヴ)
を感じられるかも知れない。書いている私がそうなのだから。今朝も近くのコンビニに朝日新聞を買いに出た。な、ない。そこに配達員がやって来て…はいはい、そうなら昨日と同じ展開だ。もうすっかり顔なじみになっているこの時間帯の当番の青年が気の毒そうに言うのである。「今日は新聞休刊日っす」。なんだろう、この哀しさは。すっかり地元の迷惑な老人になっている気がした。「おじいちゃん、知らんと今日も来るんやないやろか」と青年は思っていたのかも。こんどうくん(名札から)いつもありがとうね。

 スポーツ新聞でも一般紙の休刊日にはニュースに力を入れるのであ
る。だから数紙を買った。もちろんこちらなのですべては1面はタイガースである。かなりなファンである私でも一見しただけでは何を言っているのかわからない。2軍のキャンプでのささいな出来事が一面をかざっているのだから。私が不熱心なファンなのかと不安になって、ときどきタクシーの運転手に聞くが、やはりわからないという。もうスポーツ紙界の中の特殊情報になっているのであろう。
 後ろからめくる。最初の面は芸能ニュースだ。
そのあとに一般ニュースがある。もともと専門ではないのだが、休刊日は頑張っている。だがほとんどは共同通信から買っているので、どのスポーツ紙でも内容は同じなのである。独自取材があったらむしろ怖い。しかし今朝のデイリースポーツには「おっ」と思った。スポーツ紙の記者というのは芸能は日常的に取材しなくてはいけないので、映画や演劇好きが多い。だからかな。一般紙であれば社会面のまあ、ベタ記事であろうそれが、堂々とトップだった。アンジェイ・ワイダ監督が亡くなった。
 ご存じのように私は映画を観ないにんげんであるが、
ワイダ監督のものはほとんど観ている。最近、こういうことを回顧するようになって、実は映画が好きだったのではないかとおもい始めているのだが(苦笑)。しかし彼の作品を観続けたのは映画への好奇心からではない。東西の冷戦が崩壊するその場に、私はメディアの中にいて、何が起きているのかを理解するのに、不可欠だったからだ。ワイダ監督は、まさのそのど真ん中に屹立していた。映画監督というだけではなく、政治的にも主役に踊りでなくてはいけなかった。芸術家としての彼を思う時に、いささか同情をも禁じえない。しかし、歴史とはそういうヒーローを求めるのだ。
 <アンジェイ・ワイダ氏が死去 映画監督>
 http://www.nikkei.com/article/DGXLASGU06004_Q6A011C1000000/
 <ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ氏が9日、
死去した。90歳。入院中だった。ワルシャワ蜂起など史実に材を取った作品を撮り続けた。第2次大戦前後のポーランド社会の流転を描いた「灰とダイヤモンド」(1958年)など「抵抗三部作」が著名。2000年には米アカデミー賞名誉賞を受賞した。親日家としても知られた。>
 先日、ウクライナに行く途中でポーランドを訪ねた時に、なぜ、
なにかつてを辿って監督に会わなかったかと悔やまれる。海外では、意外とそういうこができるのだ。私は多くのひとに会ってきた。ややこしいのは間にエージェントが入ってカネにしようとするアメリカくらいである。欧州では、突然訪ねて言っても会ってくれるひとが多い。そして、東洋の辺地から来た変人を喜んでくれる。
 イデオロギーに対する抵抗のひとではなかった。「
ダメなものはダメ」だった。だから世界中の人々から愛されたのだと思う。
 <81年には民主化を率いた自主管理労組「連帯」を取り上げた「
鉄の男」でカンヌ映画祭の最高賞、パルムドールを獲得。民主化前後の89~91年には上院議員を務め、連帯議長から大統領に就任したワレサ氏の諮問機関「文化評議会」の議長に就いた。
 晩年まで創作意欲は衰えず、
07年にはソ連によるポーランド軍人らの大量虐殺事件が題材の「カティンの森」を発表。13年には「ワレサ 連帯の男」で再びポーランド民主化への歩みを取り上げた。>
 先日の訪問の時にも感じたが、ポーランドというのは、とことん「
カッコいい国」だと思う。「義」を重んじるのである。右も左もない。その時の、おのれの「義」と頼むところを歴史の中で貫いてきた。史書をきちんと読むとわかるが、ポーランドというのは実は強国なのだ。近代の中で分割されたりして割りを食ってきたが、もともとは誇り高き強い国なのである。面はゆいが、いささか大日本帝国に似ている、と感じる。「小さいが一目置かれる」存在だった。ほぼ滅亡の淵まで追いやられたところもそっくりだ。あるいはワレサ監督にもそうした感触があったのではないだろうか
 <
若き日に浮世絵などの日本美術に感銘を受けたのが芸術を志すきっかけだったこともあり、親日家だった。87年に受賞した京都賞の賞金を基金に母国の古都クラクフに日本美術技術センター「マンガ」を設立した。同センターは日本の伝統工芸品や美術作品で中・東欧随一のコレクションを誇る。>
 次に旅をする時は、候補地にぜひポーランドを入れて欲しい。
ポーランドまで行けば、チェコウクライナも視野に入る。なかなか日本人が行かない、かかる地域を歩いておくと、人生の幅が広がる。ロシアの小説、あるいは意外かも知れないが、司馬遼太郎さんの小説を読む時に、目からウロコが落ちるのである。こんな愉快なことはない。もちろん、ワイダ監督の作品を、もういちど観なおしたくなるはずだ。

 いまの大マスコミの報道の陥穽がもろに出ているように思われる。
 

<「外国人多くご不便を」/南海電鉄40代車掌が不適切アナウンス/乗客クレーム発端/「差別の意図なかった」と釈明>

 http://www.sankei.com/west/news/161010/wst1610100055-n1.html
 <南海電鉄の40代の男性車掌が日本語で「
本日は外国人のお客さまが多く乗車し、ご不便をお掛けしております」との車内アナウンスをしていたことが10日、同社への取材で分かった。車掌は「差別の意図はなかった」と釈明。同社は「客を区別するのは不適切」と車掌を口頭で注意した。>
 記者も馬鹿だしデスクも愚劣だ。<40代の男性車掌>
と書くことの方が、キミたちの基準では「差別」ではないのかい?「40代」が悪いのか。「男性」が悪いのか。記事の本質と関係ないだろう。その上で。<不適切アナウンス>と報じるなら何が<不適切>であったのかをきちんと書かなくてはいけない。全体としては私は確かに、あまりよろしくないアナウンスではあったと思う。国籍についての差別を重視するアメリカなどでは、問題になるだろう。しかしそれは多民族で生きていくための知恵であって、日本国ではいささか事情が違う。
 支那人がチョンワチャンワと大騒ぎしていたらそれは車掌は注意し
た方がいいだろう。「外国人」とは何ものなのか。そこが大切だ。何をしていたのか。なぜ「差別」なのか、南海電鉄産経新聞も詳らかにするべきである。そうでないと、ただの「いいっぱなし」なる。その上で悪かったと思えば、堂々と謝罪すればいい。
 こういう「空気の記事」
はもともと朝日新聞が得意とするところなのだが、ちゃんとした産経新聞までが同じ路線に乗ってはいけない。国を愛する新聞としては、もし海外からのお客さんに無礼があれば、国民を叱って謝るところでしょう。それが2020年に向けて日本人がとる立場であると考える。ちいさな記事だと見過ごしてはいけない。「差別」とはある意味で便利な言葉である。だがそれで終わってしまっては日本国民としての矜持に反するのである。

 定置された官は、必ず腐敗する。だから支那には「巡察使
というものがあった。突然「ガサを入れる」のである。欧州にもあった。当時の僧職の腐敗を考える時、この人事はなかなかといっていい。
 <フランク王国の地方官を監督する役職。>
 http://www.y-history.net/appendix/wh0601-065_3.html
 <フランク王国で国王の代理人として派遣され、
地方の伯や辺境伯を監督する官職。按察使ともいう。802年カール大帝が制度として設けた。彼は全国を巡察使管区に分け、毎年聖職者一人と俗人一人の巡察使を巡回させ、地方政治を監督、また民衆の役人への不満を聞き、裁判を行い、康応に報告させた。カールの死後は制度は形骸化し、巡察使は地方に居着いてその地方の諸侯となる者もあった。>
 日本国もこの制度を導入すればいいのではないか。
地方をずいぶんと歩いていて、必ずしもそれが犯罪とは断じることはできないが、地域利権の癒着にはほとほとあきれかえっている。以下のことが出た。しかし氷山の一角の一角に過ぎるというほかはない。あなたや、あなたの周辺にも同様な外道はいるのではないか。「まあ、そんなもんでしょう」と見過ごしてはいまいか。もう無茶苦茶である。かねてから私はこのことを指弾してきたが、ようやく司直が動き出した気がする。
 <富山市議と高岡市議/2人が政務活動費を不正受給>
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161008/k10010723301000.html
 <資格ないフィリピン妻に生活保護申請!
市会議員630万円詐取で逮捕>
 http://www.j-cast.com/tv/2016/09/28279179.html
 いや、いくらでもありまっせ。情け無いからいちいち引かない。
よくこれだけ悪いことをいろいろと考えるものだ。議員のアホの含有率は私たちフツーの人間よりも高いのではないか…そうでしょうね、といまハッと気がついた。真っ当なヒトであればもっと真っ当な職業に就くだろう。なにもできないから「議員でもやって食ったろか」と考えるのに違いない。
 やや、啓発的なことを言う。
私が歩いてきた国々では地方議員は無給のことが多い。議会はあるいは夜に開かれる。それは、議員たちが地方の名士であり、仕事を持っていて、そこで稼いでいることへの敬意でもある。議員が食うための職業になっている日本国のような卑しい国は、途上国で散見されるくらいだ。畏友・田中康夫さんはいつもこのことを指摘してきた。「議員が世襲商売」になっている長野県を憂えていた。私もその通りだと思う。
 もちろん、おカネがないひとでも議員になれる制度は必要だ。
一方で、いま紹介したように「議員であることを商売にする」連中は、かなり日本国の中に多いのではないか。面倒くさいからやらないが、統一地方選挙の時でも私はイデオロギーではなく「商売議員を落とす運動」をやりたいとすら思う。誰か私のかわりにやってくれませんか。「商売議員」ほど無駄なものはない。馬鹿にカネをくれてやって、かつ馬鹿なので何の政策立案もない。なんでそんな奴らにカネをくれてやっているのか、冷静に考えた方がいい。
 まわりを見回してみて下さい。いませんか。一方で「出て欲しい」
と思う「貴族」はいませんか。国政でそれをやるのはなかなか難しい。足元ならできるのである。「貴族」はそんなものにかかわりたくはない。それでもやるのが「高貴なるものの義務」すなわちノブレス・オブリージュなのだ。朝日新聞が喧伝する「平等、民主主義」でこの国は腐った。そろそろ、貴族の出番である。今のこの時期をのがすと、末裔たちは死に絶えてしまう。発見し、立てよ!


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