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「河口慧海」生誕150年 チベット潜入、3年にわたる日記の実物を初公開

2016.10.19 10:19更新 産経新聞


河口慧海」生誕150年 チベット潜入、3年にわたる日記の実物を初公開 愛用のチベット語辞書やくりぬき日記帳も


http://www.sankei.com/images/news/161019/wst1610190033-n1.jpg一般公開される河口慧海の日記(彦野公太朗撮影)
 
明治時代、日本人として初めてヒマラヤ山脈を越え鎖国状態のチベットに入った堺出身の僧、河口慧海(えかい)の生誕150年を記念した「慧海と堺展」が26日から12月4日まで堺市堺区の複数の会場で開かれる。潜入から脱出までを現地で記した明治33、34、35年の3年にわたる日記の実物が、初めて一般公開されるほか、愛用のチベット語辞書や、親友に送った中央をくりぬいた日記帳、彫刻家の高村光雲に制作を依頼した仏像など貴重な品々が並べられる。(張英壽)
 
慧海はチベットに2回入っているが、33~35年の日記は1回目の潜入から脱出までの体験を記す。35年の日記は今年8月、東京の親族宅で見つかり当初から全17ページの公開が決まっていたが、以前に発見された33年と34年の日記も、生誕150年を記念し公開することになった。
 日記は33年3月10日から35年8月17日までで、計91ページ。33年は4ページ、34年も4ページを見開きで見せ、両年のほかのページは冊子状のまま展示。35年は17ページすべての記述を公開する。
 日記は、墨で横書きされ、漢字とカタカナでびっしりと記入。慧海は37年に体験をもとに「西蔵チベット旅行記」を口述筆記で著した。チベット入りは密入国だったため、具体的な行程にふれていなかったが、33年の日記に詳細なルートの記述があり、潜入ルートが判明した。このほか、ネパール人女性に恋心を抱かれたことなど、人間的な姿も垣間見られる。脱出のくだりでは、関所で薬を買う急用があると嘘をついて突破したことや、人事を尽くして天命を待つ心境などが記されている。
 愛用のチベット語辞書は、2回目のチベット入りを終え日本への帰路についた大正4年に、同行した恩師のインド人学者から譲り受けた蔵英辞典。堺市によると、慧海はこの蔵英辞典を使い、蔵日辞典を編(へん)纂(さん)するために研究を重ねたが、実現できずに他界。辞書には、チベット語や英語、日本語でびっしりと書き込みがある。
 このほか、中央がくりぬかれた日記帳も展示される。慧海が、2回目のチベット入り直前に堺の親友に送ったもので、くりぬき部分には、事前に送っていた遺書などが入った箱を開けるための鍵を入れていたとみられている。堺市文化財課の担当者は「2回目のチベット入りも決死の覚悟で、確実に届けるためだったのではないか」と説明する。
 高村光雲が制作した仏像は「釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)仏像」(高さ12・4センチ)。慧海が光雲に要請して昭和3年に制作されたことはわかっているが、詳しい経緯は不明。
 日記と仏像、蔵英辞典は堺市博物館(午前9時半~午後5時15分、月曜日休館)で展示。くりぬき日記帳は山口家住宅(午前10時~午後5時、期間中無休)で。清学院(午前10時~午後5時、期間中無休)でも手紙が公開される。
 問い合わせは堺市文化財課((電)072・228・7198)。
 【河口慧海(えかい)】(1866~1945年) 仏典の原形をとどめるチベット語訳の大蔵経を入手する必要性を痛感し、鎖国状態だったチベット行きを決意。明治30年に神戸港から船に乗り、インド・コルカタに到着。ネパールの標高5千メートル級のヒマラヤ山脈を越え、33年にチベットに入り、出身地をあいまいにして仏教を学ぶなどしていたが、日本人であることが発覚し35年に脱出。大正3~4年にもう一度チベットに入り、チベット語訳の大蔵経や梵(ぼん)語(ご)経典を日本に持ち帰った。

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