いわゆる 輪廻転生で カルマパ16世の転生とした17世は 本人自ら僧籍を捨てた。
17世は シナから逃れて 欧米でかなり説法もやり、ダライラマ法王14世 の後を継ぐものとして
ダライラマ15世の 後見人となるはずであった。
このままでは パンチェンラマが15世の後見となるため、偽物のパンチェンラマと シナに囚われの
パンチェンラマの対応が 脚光を浴びてくるはずである。果たして シナ共産党への 抵抗なのか???? 昔のカルマパの変わりぶりもすごい!
目つきが全然違う!!!!
仏教の最高指導者、結婚のため僧職を放棄
© AFP 2017/ Sanjay Kumar
2017年03月31日 07:01短縮 URL
スプートニク日本
カルマパは「結婚の決心が自分ばかりか系統にも良い影響を与えると心の底から強く思っている。われわれ全員のために美しいもの、有益なものが出来する」と語った。
婚約相手は、ブータン出身の子供時代からの友人の女性(36)。
ダライ・ラマ14世がカルマパ16世をカギュ派全体の管長として任命し、カルマパ16世が死亡した後、ドルジェはカルマパ17世として認定された。しかし、カギュ派の支派などが分立を要求しているのもあり、カギュ派全体の管長は任命されていない。
なお、今回のケースはカルマパが結婚した初めてのケースではない。
その理由は たぶん エープリルフールでもあり
より転載
2017年3月31日金曜日
カルマパ17世タイェー・ドルジェ師が結婚して還俗
というニュースが出ました。
・共同通信PRワイヤー > 2017年3月30日 Private Office of the 17th Karmapa カルマパ聖下が内輪の結婚式挙行を発表 AsiaNet 68000 (0465) 【ニューデリー2017年3月29日PR Newswire=共同通信JBN】
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201703300451/
といっても、これはニュースではなく、共同通信が宣伝/プレスリリースのスペースを売っているサイトのようです。いろんな言語で同じ記事があちこちに出ていました。
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また、このカルマ・カギュパの管長(となるはずの方)ギャワ・カルマパは、有名なギャワ・カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師ではありません。
実はカルマパ17世は二人いるのです。
カルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師(2000年当時)
例によって、ヒマーチャル・ガイドブックの没原稿を使って説明しときましょう。情報は2001年時点のもの。
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二人のカルマパ17世
チベット仏教四大宗派の一つカギュパ བཀའ་རྒྱུད་པ་ bka' rgyud paは、大小さまざまの小宗派に分かれている。このうちの最大勢力がカルマパ ཀརྨ་པ་ karma pa(カルマ・カギュパ ཀརྨ་བཀའ་རྒྱུད་པ་ karma bka' rgyud pa)。管長であるギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma paは12世紀から続くチベット最古の転生ラマ(トゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku)系譜(1世はカルマパ開祖ドゥースム・キェンパ དུས་གསུམ་མཁྱེན་པ་ dus gsum mkhyen pa(1110-93))。チベット本土での総本山はラサ西方にあるツルプー・ゴンパ མཙུར་ཕུ་དགོན་པ་ mtsur phu dgon pa。
1959年のチベット動乱でダライ・ラマ法王がインドに亡命すると、これに続いて多くの高僧がチベットを脱出した。カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje (1924-81)もその一人。16世はシッキムのルムテク・ゴンパ རུམ་ཐེག་དགོན་པ་ rum theg dgon paを本拠地に教団を再建。海外での布教には特に力を入れ、欧米人信徒を多数獲得するなど成功を収めた。
1981年、16世は急逝。カルマパ教団は4人の摂政により運営される。転生者はなかなか見つからなかったが、摂政の一人タイ・スィトゥ・リンポチェ(タイ・スィトゥパ)12世ペマ・ドンヨー・ニンジェ・ワンポ ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་(ཏའི་སི་ཏུ་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་གཉིས་པ་པདྨ་དོན་ཡོད་སྙིང་རྗེ་དབང་པོ་ ta'i si tu rin po che (ta'i si tu pa) sku 'phreng bcu gnyis pa padma don yod snying rje dbang po(1954-)が発見した遺言状をきっかけに捜索が進展。1992年、東チベット(カム)・チャムド ཆབ་མདོ་ chab mdo昌都県ラトク ལྷ་ཐོག lha thog 拉多近郊に住む牧民一家に転生者が発見された。
この少年アポ・ガガ ཨ་པོ་དགའ་དགའ་ a po dga' dga'は、中国政府・チベット亡命政府双方により公式にカルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa o rgyan 'phrin las rdo rje(1986-)として認定され、ツルプー寺で即位した。
カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師(2000年当時)
しかし摂政の一人で、先代16世の甥でもあるシャマル・リンポチェ(シャマルパ)14世ミパム・チューキ・ロドゥ ཞྭ་དམར་རིན་པོ་ཆེ་(ཞྭ་དམར་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བཞི་པ་མི་ཕམ་ཆོས་ཀྱི་བློ་གྲོས་ zhwa dmar rin po che (zhwa dmar pa) sku 'phreng bcu bzhi pa mi pham chos kyi blo gros(1952-2014)は、1990年以来独自に転生者を擁立し、この選択に異議を唱え続けている。これが「もう一人のカルマパ」17世ティンレー・タイェー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་འཕྲིན་ལས་མཐའ་ཡས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa 'phrin las mtha' yas rdo rje(1983-)である。ツルプー近郊に生まれたこの少年はシャマルパにより密かにインドへ迎えられていた。
一般には17世として公認されているウギェン・ティンレー・ドルジェ師への支持が圧倒的に多いが、タイェー・ドルジェ師とシャマルパ側を支持する人々も無視できない数にのぼる。
ツルプー寺で修行を積んでいたウギェン・ティンレー・ドルジェは、2000年1月突如チベット亡命政府のあるダラムシャーラーに現われ世界を驚かせた。実質的な亡命である(2001年インド政府により公式に難民認定された)。
2002年1月現在、16世の本拠地であったルムテク寺にはどちらのギャワ・カルマパも入っておらず、跡目争いの決着はまだ先のようだ。
この騒動については、
・田中公明(2000.4)『活仏たちのチベット』. ii+210pp. 春秋社, 東京.
に詳しい。
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タイェー・ドルジェ師の本拠地は、New Delhi南部にあるカルマパ国際仏教学院Karmapa International Buddhist Institute(KIBI)。
・KIBI Karmapa International Buddhist Institute(since 1990)
http://www.kibi-edu.org/
こちらもヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。
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カルマパ国際仏教学院 Karmapa International Buddhist Institute(KIBI) ཀརྨ་པ་རྒྱལ་ཡོངས་ནང་པའི་གཙུག་ལག་མཐོ་སློབ། karma pa rgyal yongs nang pa'i gtsug lag mtho slob/
いわゆるもう一人のカルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師と彼を擁立したシャマル・リンポチェが主宰する仏教学院。1979年の創建(現在の建物は1994年)。
New Delhi南部、Institutional Areaにある(Qutab Hotel裏手)。クトゥブ・ミナールの観光と組み合わせて訪れるとよい。
ここでは主に外国人を対象にした仏教のレクチャーが長期コース(数年)・短期コースで開催されている。寺院は広い集会堂にシャカ像があるだけのシンプルな造り(2001年当時)。周囲は研修生の宿舎。
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というわけだが、この後、シャマル・リンポチェ14世が2014年に遷化し、タイェー・ドルジェ師のニュースもあまり聞かなくなった、と思っていた矢先のこのニュースでした。
結婚されたということは、破戒となるため僧籍には居られません。よって還俗されることになります。
といっても、チベット仏教、特にニンマパ/カギュパ/サキャパには俗人のリンポチェはたくさんいらっしゃいます。還俗されて、宗教活動もやめてしまわれる方もいますが、その多くは行者として宗教活動を続けます。
特にギャワ・カルマパという大名跡で、カルマ・シャマルパ教団のトップですから、やめられないでしょう。
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しかし、よくこれが許されたものです。タイェー・ドルジェ師の意志がよっぽど強かったのでしょう。
何はともあれ、まずは、おめでとうございました、とお祝い申し上げます。
・共同通信PRワイヤー > 2017年3月30日 Private Office of the 17th Karmapa カルマパ聖下が内輪の結婚式挙行を発表 AsiaNet 68000 (0465) 【ニューデリー2017年3月29日PR Newswire=共同通信JBN】
http://prw.kyodonews.jp/opn/release/201703300451/
といっても、これはニュースではなく、共同通信が宣伝/プレスリリースのスペースを売っているサイトのようです。いろんな言語で同じ記事があちこちに出ていました。
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また、このカルマ・カギュパの管長(となるはずの方)ギャワ・カルマパは、有名なギャワ・カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師ではありません。
実はカルマパ17世は二人いるのです。
カルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師(2000年当時)
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二人のカルマパ17世
チベット仏教四大宗派の一つカギュパ བཀའ་རྒྱུད་པ་ bka' rgyud paは、大小さまざまの小宗派に分かれている。このうちの最大勢力がカルマパ ཀརྨ་པ་ karma pa(カルマ・カギュパ ཀརྨ་བཀའ་རྒྱུད་པ་ karma bka' rgyud pa)。管長であるギャワ・カルマパ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་ rgyal ba karma paは12世紀から続くチベット最古の転生ラマ(トゥルク སྤྲུལ་སྐུ sprul sku)系譜(1世はカルマパ開祖ドゥースム・キェンパ དུས་གསུམ་མཁྱེན་པ་ dus gsum mkhyen pa(1110-93))。チベット本土での総本山はラサ西方にあるツルプー・ゴンパ མཙུར་ཕུ་དགོན་པ་ mtsur phu dgon pa。
1959年のチベット動乱でダライ・ラマ法王がインドに亡命すると、これに続いて多くの高僧がチベットを脱出した。カルマパ16世ランジュン・リクペー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་དྲུག་པ་རང་འབྱུང་རིག་པའི་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu drug pa rang 'byung rig pa'i rdo rje (1924-81)もその一人。16世はシッキムのルムテク・ゴンパ རུམ་ཐེག་དགོན་པ་ rum theg dgon paを本拠地に教団を再建。海外での布教には特に力を入れ、欧米人信徒を多数獲得するなど成功を収めた。
1981年、16世は急逝。カルマパ教団は4人の摂政により運営される。転生者はなかなか見つからなかったが、摂政の一人タイ・スィトゥ・リンポチェ(タイ・スィトゥパ)12世ペマ・ドンヨー・ニンジェ・ワンポ ཏའི་སི་ཏུ་རིན་པོ་ཆེ་(ཏའི་སི་ཏུ་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་གཉིས་པ་པདྨ་དོན་ཡོད་སྙིང་རྗེ་དབང་པོ་ ta'i si tu rin po che (ta'i si tu pa) sku 'phreng bcu gnyis pa padma don yod snying rje dbang po(1954-)が発見した遺言状をきっかけに捜索が進展。1992年、東チベット(カム)・チャムド ཆབ་མདོ་ chab mdo昌都県ラトク ལྷ་ཐོག lha thog 拉多近郊に住む牧民一家に転生者が発見された。
この少年アポ・ガガ ཨ་པོ་དགའ་དགའ་ a po dga' dga'は、中国政府・チベット亡命政府双方により公式にカルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa o rgyan 'phrin las rdo rje(1986-)として認定され、ツルプー寺で即位した。
カルマパ17世ウギェン・ティンレー・ドルジェ師(2000年当時)
しかし摂政の一人で、先代16世の甥でもあるシャマル・リンポチェ(シャマルパ)14世ミパム・チューキ・ロドゥ ཞྭ་དམར་རིན་པོ་ཆེ་(ཞྭ་དམར་པ་)སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བཞི་པ་མི་ཕམ་ཆོས་ཀྱི་བློ་གྲོས་ zhwa dmar rin po che (zhwa dmar pa) sku 'phreng bcu bzhi pa mi pham chos kyi blo gros(1952-2014)は、1990年以来独自に転生者を擁立し、この選択に異議を唱え続けている。これが「もう一人のカルマパ」17世ティンレー・タイェー・ドルジェ རྒྱལ་བ་ཀརྨ་པ་སྐུ་འཕྲེང་བཅུ་བདུན་པ་འཕྲིན་ལས་མཐའ་ཡས་རྡོ་རྗེ་ rgyal ba karma pa sku 'phreng bcu bdun pa 'phrin las mtha' yas rdo rje(1983-)である。ツルプー近郊に生まれたこの少年はシャマルパにより密かにインドへ迎えられていた。
一般には17世として公認されているウギェン・ティンレー・ドルジェ師への支持が圧倒的に多いが、タイェー・ドルジェ師とシャマルパ側を支持する人々も無視できない数にのぼる。
ツルプー寺で修行を積んでいたウギェン・ティンレー・ドルジェは、2000年1月突如チベット亡命政府のあるダラムシャーラーに現われ世界を驚かせた。実質的な亡命である(2001年インド政府により公式に難民認定された)。
2002年1月現在、16世の本拠地であったルムテク寺にはどちらのギャワ・カルマパも入っておらず、跡目争いの決着はまだ先のようだ。
この騒動については、
・田中公明(2000.4)『活仏たちのチベット』. ii+210pp. 春秋社, 東京.
に詳しい。
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タイェー・ドルジェ師の本拠地は、New Delhi南部にあるカルマパ国際仏教学院Karmapa International Buddhist Institute(KIBI)。
・KIBI Karmapa International Buddhist Institute(since 1990)
http://www.kibi-edu.org/
こちらもヒマーチャル・ガイドブック没原稿から。
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カルマパ国際仏教学院 Karmapa International Buddhist Institute(KIBI) ཀརྨ་པ་རྒྱལ་ཡོངས་ནང་པའི་གཙུག་ལག་མཐོ་སློབ། karma pa rgyal yongs nang pa'i gtsug lag mtho slob/
いわゆるもう一人のカルマパ17世ティンレー・タイェー・ドルジェ師と彼を擁立したシャマル・リンポチェが主宰する仏教学院。1979年の創建(現在の建物は1994年)。
New Delhi南部、Institutional Areaにある(Qutab Hotel裏手)。クトゥブ・ミナールの観光と組み合わせて訪れるとよい。
ここでは主に外国人を対象にした仏教のレクチャーが長期コース(数年)・短期コースで開催されている。寺院は広い集会堂にシャカ像があるだけのシンプルな造り(2001年当時)。周囲は研修生の宿舎。
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というわけだが、この後、シャマル・リンポチェ14世が2014年に遷化し、タイェー・ドルジェ師のニュースもあまり聞かなくなった、と思っていた矢先のこのニュースでした。
結婚されたということは、破戒となるため僧籍には居られません。よって還俗されることになります。
といっても、チベット仏教、特にニンマパ/カギュパ/サキャパには俗人のリンポチェはたくさんいらっしゃいます。還俗されて、宗教活動もやめてしまわれる方もいますが、その多くは行者として宗教活動を続けます。
特にギャワ・カルマパという大名跡で、カルマ・シャマルパ教団のトップですから、やめられないでしょう。
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しかし、よくこれが許されたものです。タイェー・ドルジェ師の意志がよっぽど強かったのでしょう。
何はともあれ、まずは、おめでとうございました、とお祝い申し上げます。
チャイナ・ウォッチャーの視点
2011/02/10
有本 香 (ジャーナリスト)
先月来、世界中のチベット・サポーターの気を揉ませているニュースがある。日本の一部メディアでも報じられたが、12年前チベットからインドへ亡命した若き転生ラマ(活仏)、カルマパ17世に「スパイ疑惑」が浮上、インド当局が捜査に乗り出したのだ。
少し前になるが、筆者は2009年11月、インドでカルマパ17世に単独インタビューを許されていた。そのときの模様を交え、今回のニュースを読み解いてみることとしたい。
カルマパ17世っていったい誰?
とはいえ、2008年春のラサでのデモ弾圧後の集中豪雨的なチベット報道を通して「少しは知っている」という人も増えた。パンチェン・ラマが、ダライ・ラマに次ぐ高僧であること、あるいは、チベット側が認めたパンチェン・ラマ11世が幼児期に中国当局によって拉致され今日まで行方不明だということ、これに対抗して、中国共産党が独自のパンチェン・ラマ11世を選び出していることなどを知る人もいる。
ところが、こういう方に、「では、カルマパ17世をご存知?」と聞くと、いわゆる「チベット好き」という人を除けば大半の日本人が知らない。
それほど、カルマパという名はこれまで日本の報道には乗らなかった。
と同時に、あの中国共産党政府が「最も怖れる存在」の一人だともいわれてきた。
2009年秋、筆者は、そんなカリスマへの単独での謁見、インタビューの機会を得た。その内容や様子を書く前に、カルマパ17世について、もう少し説明しておきたい。
「カルマパ」とは、チベット仏教四大宗派の一つ、カギュ(黒帽)派の最高位の僧である。ちなみに、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは別の宗派である、ゲルク(黄帽)派の最高位の僧で、チベットでは伝統的にこのゲルク派の二人の僧が聖俗両方の最高指導者となってきた。
カルマパ17世は、別の宗派の17代目の転生者である。
チベットには「転生ラマ」は少なくないが、カルマパ17世はとにかく特別な存在だ。
なぜなら、彼は、チベットが中国の侵略・支配を受けてのち初めて現れた、宗派最高位の転生者であった。しかも、チベットの四人の高僧による選定を、インドに亡命中のダライ・ラマ法王が承認し、さらにその決定をあの中国政府も受け入れ、追認したという存在だったからである。
「一生懸命勉強して、“チベットのために”役立つ人物になってほしい」
と、のたまわったと伝えられた。
ところが、14歳に成長したカルマパ17世は、突如チベット本土を脱出しインドへ亡命したのである。折しも、世界が新ミレニアム到来に沸いていた、1999年12月末から新年に代わるタイミングであった。
このカルマパ亡命は、日本ではほとんど騒がれなかったが、欧米メディアは相当エキサイトしてこれを伝え、世界のチベット・サポーターを感動の渦に巻き込んだ。
中国がカルマパを厚遇するのはなぜ?
世界のメディアが「カルマパ17世インドへ亡命か?」と騒ぎ出すと中国政府は亡命説を否定。「17世は旅に出ている。儀式に必要な道具を買うためインドへ出かけた」とオトボケ返答をし、同時に、当然のごとく、厳しい捜査を開始、僧侶を大勢逮捕した。
当時の首相、朱鎔基は次のようにコメントしている。
「党の宗教政策を貫徹し、社会と政治の安定維持に努めなければならない」
余談だが、朱は、日本の政財界に多くの「朋友」をもち、日本人から多くを学んだと公言していた人だ。その日本人のなかに、朱の宗教への無理解を諫めた人が皆無だったことは甚だ残念である。
その後、カルマパ17世は、チベット亡命政府の本拠地でダライ・ラマ14世法王が住む、ダラム・サラで、高僧、老僧らの薫陶を一身に受け、25歳(当時)の青年ラマに成長した。ただし、この間、一貫して彼は、インド政府の厳重な身辺警護下にあった。
近年の「カルマパ人気」は何しろスゴイ。
ダラム・サラを訪れると、「カルマパの熱心な『追っかけ』の欧米女性が大勢来ている」とか、台湾マダムが大挙してカルマパ詣でをし、若きイケメン・ラマのご尊顔を拝して涙した等々。「カルマパ神話」は山ほど聞こえてきた。
近年、欧米各国でのチベット仏教寺院新築プロジェクトで目立って多いのが、カギュ派の寺院だとか。つまり、建造費を出そうという大口寄進者が多いことを意味するが、これもひとえに、カルマパ17世への期待の表われだという。
この話を聞くと、逃がした大魚を悔しがる、北京方面の顔が目に浮かぶ。
カルマパ17世に謁見 彼は日本好きだった
カルマパ17世への謁見は突然許された。
限られたインタビュー時間。無駄なく聞くために用意していた質問のリストを手に、僧院に着くと、ひじょうに厳重な荷物チェックとボディチェックを受け謁見の間に進んだ。
「あなたは最後です。ほかの方が終わるまでお待ちください」
といわれ、待つこととなった。やがて30分が過ぎ、私の順番がきた。
部屋へ入ると、タンカ(仏画)の前に若い大柄な僧が立っていた。カルマパ17世の周りには数人の年かさの僧と、年配の俗服の男性が「脇を固める」という風情で控えていた。
張り詰めた空気を感じたが、まずは謁見が叶ったことの御礼を申し述べ、そのまま質問に入った。
「日本に興味をおもちだと伺いましたが、本当でしょうか?」
こう聞くと、17世は心の底からの笑みと思える表情を浮かべた。
「えぇ、本当ですよ。今、日本語を勉強しています。いつか、必ず日本へ行ってみたいと思っています」
6カ国語を学んでいるカルマパ17世が、日本語をとくに意欲的に勉強しているという話は聞いていた。そして彼が、日本という国について、さまざまなことを知りたがっているとも聞いた。「ニンテンドー」から、「広島・長崎」に至るまで、ご関心は実に多岐にわたるとも。
しかし、実際に対面したカルマパ17世の印象を語ることは、ひじょうにむずかしい。
彼は、一見すれば24歳(当時)の青年僧だが、話しているうちに何やら、とても成熟した大人と話をしているような気がしてくる。
難解な言葉を使うでもなく、老成したことをいうわけではなく、私の質問に真剣な表情で耳を傾け、側近に英語の語彙を確認しつつ、一語一語ていねいに答える。その姿自体はけっして老練の風情でなく、むしろ修行僧の謙虚さそのものだが、不思議に落ち着いた感じをこちらにもたらしてくれる。
今、私が会話しているのは24歳の若き僧か、それとも老僧なのか。ふと、転生ラマとはこういう存在なのだろうか。そんなことが頭を駆け巡る。
聞くべきか否か逡巡していたある質問を、思い切ってぶつけてみた。
「政治的な質問を差し上げるのは失礼かと思いますが……」と切り出すと、カルマパ17世は微笑んでいった。
「少しなら構いませんよ。どうぞ、おっしゃってみてください」。 しかし、側近は私にきつい視線を向けた。
中国との関係はどうなっているのか?
昨今、世界のチベット・サポーターの間には、ある噂がある。
亡命の身ですでに70代となったダライ・ラマ14世法王が、チベットの伝統を破り、自身で後継指名をするのではないか。その最有力候補はカルマパ17世ではないか、という噂である。もちろんダライ・ラマ14世は、「私はまだまだ元気だから、後継者の話をするなど時期尚早」と、この噂を一蹴している。
しかし、噂は中国政府の耳にも当然届いていて、中国はこれを非常に気にかけ、そうなることを嫌がっているとも伝えられている。
あえて、後継者云々とはいわず、「あなたが、チベットの指導者として影響力をもつことを中国政府が気にかけているようですが……」と尋ねた。カルマパ17世の答えはこうだ。
「チベットの歴史上、カルマパという存在が政治的な権力を握ったことはありません。しかも、私はまだまだ修行の身。そんなことを考えてもいませんよ」
少し間があって、答えは続いた。
「中国政府が気にすることは何もないはずですよ。私は、中国の言葉を話せますし、中国についてよく知ってもいます。そのことは、チベットと中国双方にとってよいことだと思いますが」
仰せのとおりである。ただし、それは先方が同じ次元でものを考える相手であれば、の話だ。側近の視線はますますきつかったが、もう一歩踏み込んだ。
「あなたが中国のことをよくご存知だからこそ、彼らはあなたを怖れているのではないでしょうか?」
カルマパ17世は笑った。「そんなことはないでしょう。中国のほうも私をよく知っていますから。私は、ただの僧侶ですし」
とくにこの瞬間、私は本当に、24歳の若者と会話しているのか? と思わされた。謁見の終わりに、カルマパ17世は突然、日本語でこういった。
「よくおいでくださいました。ありがとうございます」
小さな声で、少し照れながら。その様子は先ほどと打って変わって、24歳の控えめでシャイな青年僧そのものだった。
2008年、カルマパ17世は、インドへ亡命後初の外国訪問として米国を訪れ、熱狂的な歓迎を受けた。今後、若きカリスマが活動の舞台を広げ、国際的な人気をさらに高め、それにつれ、中国政府の「懸念」が強まるであろう。このときはそう思っていた。
カルマパは本当にスパイなのか?
あのカルマパ17世にスパイ疑惑。個人的には信じたくない話だが、捜査はまだ継続中で、最終的な結論が出るのはもう少し先である。
身辺から人民元を含む多額の外貨が見つかったことは、カルマパ側の説明のとおり、「お布施」だとも考えられる。しかし、側近がダラム・サラ周辺、数百カ所の土地を他人名義で購入していたことや、カルマパ17世自身が、09年、香港で中国当局関係者と接触したという情報を聞くと、懸念が頭をもたげる。
今回の件では、インドメディアは、やや先走った感のある情報と、カルマパ17世側に厳しい「当局者のコメント」等が紹介された記事が目立った。一方、欧米メディアは、カルマパ17世が面会したジャーナリストに、「自分は外の世界をまったく知らない」と、不満ともとれるコメントをしたことなどを紹介し、ややカルマパ寄りの報道をしている。
インド政府関係者はいう。
「現代っ子のカルマパ17世が、ヒップホップやアニメ、ビデオゲーム好きだという噂も聞こえて来ていた。他愛ないこととも思えるが、われわれには、一日も早く、あの偉大なダライ・ラマのような指導者に育ってほしいとの思いがあり、少し気がかりではある」
異教徒がほとんどのインドにあっても、ダライ・ラマ14世の人気は絶大だ。
法王の訪れるところ必ず黒山の人だかりができる。これは、長年、法王と亡命チベット人を支えてきたインド社会が、法王に対し揺るぎない信頼を寄せている証でもある。当然だが、カルマパ17世に対しては、同じ盤石の信頼が築かれているとはいえない。
一方、2年ほど前から、ダライ・ラマ14世法王とチベット亡命政府は、「一般の中国人との交流促進」を世界中で進めてきた。日本でも、在日チベット人と在日中国人との交流会が催され、法王来日の折には、中国人識者や学生とのセッションの場も設けられた。
この頃から、ダラム・サラへの中国人訪問者も増え、それに伴う、中国側のスパイ流入を、インド当局がことさら強く警戒していたという事情もある。さらに近年、中国が、インド国内の共産主義勢力を通じ、ダラム・サラ周辺のインド人社会への工作を強めているのではないかとの情報も飛び交っていた。
昨今、ともに世界への影響力を増しているインドと中国。半世紀前の国境紛争後、4000キロもの国境線は表向き休戦状態だ。両国間の貿易や旅行者の行き来は飛躍的に伸びているが、その一方、インド国内には、「数年後、中国との戦争が不可避か」との声もある。
以前このコラムで書いた「真珠の首飾り」のように、中国の、あからさまな「インド包囲網」へのインド側の警戒感は相当に強い。
今回の事件には、そうした印中両国の空気が影響しているとも考えられる。とにかく、さらなる事実の究明が待たれる。