パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

本当に汚い ロシアの戦争、 それは戦争に国家論がなく 兵士と称するものも金と 人殺しや暴力を好む 傭兵がメインを占め、戦争も戦争と言わないし戦争に値しない争いと 弾圧はロシアなど共産主義を是認してきた民族には当然なのかもしれない。

「逃げられないよう、子どもたちの膝を・・・」ウクライナ出身女性、祖国の惨状語る

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「嘘じゃない。ミサイルが来た」 

 ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナを支援しようと、岩手県北上市で4月10日、チャリティライブが行われました。その会場で、ウクライナ出身の女性が祖国の惨状を訴えました。彼女の切なる願いとは…。


(トムシンスカ・ナターリアさん)
「(2月)24日に戦争が始まったって仲間からメールが来て、私すぐ(母に)電話して。嘘でしょ、いや違う、嘘じゃない。ミサイルが来たって」

ウクライナ出身で岩手・北上市在住のトムシンスカ・ナターリアさん(39)

 
 北上市在住でウクライナ出身のトムシンスカ・ナターリアさん(39)です。2月24日にロシアの侵攻が始まった日のことをこう振り返りました。

ウクライナの状況を映像を使い説明するナターリアさん(左)


 北上市で10日に行われたチャリティライブは、ウクライナの支援を目的に北上市国際交流協会が企画しました。ステージでは花巻市在住のアコーディオン奏者・肥田葉子さんによる演奏が行われ、ウクライナ国歌など6曲が披露されました。

会場ではアコーディオンウクライナ国歌などが演奏された

「子どもたちが膝を…」友人から聞いたブチャの惨状

祖国の惨状を涙ながらに訴えるナターリアさん

 家族で登壇したナターリアさんは、住民総出で兵士のために食事の支援をしたり、武器を覆って隠すネットを作ったりしていると現地の状況を語りました。
 首都キーウ近郊の都市・ブチャの惨状を現地の友人から聞いたというナターリアさんは…。

(トムシンスカ・ナターリアさん)
「全部は話せない。子どもたちも聞いているので。できる範囲の話をします。広い地下に自分たちで布団を持ってきて(避難していた)。その地下の隣の部屋から一般人の死体が見つかった。手が後ろに結ばれた状態で。横にした時に膝に何があるんだろうって見たら白いチョークで丸が書いてあって。見たら膝が撃たれていて。子どもたちが膝をいっぱい撃たれている。逃げられないように。(ロシア兵に)『子どもたちがこの戦争を一生忘れないようにしてやる』と言われ、子どもの目の前で撃たれて殺された人がいたと聞いた。その後、子どもたちは歯を抜かれて。これからどうやって生きていけばいいのか」

 一般市民が犠牲になっている現状を涙ながらに語り、一刻も早い停戦を訴えました。

ナターリアさんの願いはただひとつ…。

 ライブの最後には、会費や募金によるおよそ51万円が寄付金としてナターリアさんに手渡されました。後日、ウクライナ大使館へ送られるということです。

(訪れた人は)
「ナターリアさんの(北上市の家の)近くでお店をやっていて、大変な思いをしているのを知っていました。ちょっとの積み重ねが大きな力になると思いますので、これからも応援していきたい」

 ナターリアさんの願いはただひとつです。

(トムシンスカ・ナターリアさん)
「今すぐ戦争を終わらせること。今すぐ私の故郷を傷つけるのはやめろと毎日言いながら、祈りながら本当にそう思っています」

募金を受け取り会場にお礼をするナターリアさん(左)

ザポロジエ原発「最後の1基」、ロシア軍砲撃で電力供給遮断

配信毎日新聞

ザポロジエ原子力発電所ウクライナで2022年8月22日、ロイター

 ウクライナ国営原子力企業エネルゴアトムは5日、南部ザポロジエ原発の6号機がロシア軍の砲撃により送電網から切り離されたと発表した。ロイター通信が報じた。同原発では6号機のみ稼働中で、原発内の電力をまかなっていた。ロイターによると、砲撃後も稼働を続けており、他の原子炉の冷却などに必要な電力は途絶えていないという。 【写真】「あえて片付けない」ロシア兵略奪の跡  5日の砲撃の規模や詳しい被害状況は明らかになっていない。同原発は3月からロシア軍の制圧下にあり、周辺では8月下旬から砲撃が激化。同25日には一時的に外部からの電力供給が途絶えたが、非常用の発電機で電源を確保したとされる。今月に入り、稼働していた5、6号機のうち5号機が砲撃により運転を停止し、6号機だけが運転を続けていた。  同原発では、1日に国際原子力機関IAEA)のグロッシ事務局長が専門家とともに現地を視察し、被害状況を調査した。専門家のうち2人は今も原発内にとどまっており、今後も常駐する見通しだ。  ロイターなどによると、ウクライナのゼレンスキー大統領は5日、マクロン仏大統領と電話協議し、原発の現状などを説明した。マクロン氏は協議後の声明で、原発の安全を確保する唯一の方法はロシア軍の撤退だと改めて訴えた。【金子淳】

 

ウクライナ軍、南部と東部で3集落を奪還…大統領府長官「一歩一歩」と写真投稿

配信

 

読売新聞オンライン

3日、ウクライナ東部ドネツク州で、ロシア軍の砲撃を受けた市場の消火活動にあたる消防士ら(ロイター)

 【キーウ=梁田真樹子】ウクライナウォロディミル・ゼレンスキー大統領は4日のビデオ演説で、ウクライナ軍が南部と東部ドネツク州で露軍から計3か所の集落を奪還したと宣言した。ウクライナ軍は8月29日にヘルソン州など南部の領土奪還に向け反転攻勢に乗り出しており、戦果を強調することで士気を鼓舞する狙いがあるとみられる。 【動画】ウクライナ軍、米国が供与した榴弾砲で東部戦線のロシア軍陣地を攻撃

 ゼレンスキー氏は南部で2か所、ドネツク州では1か所の集落を「解放した」と述べ、ウクライナ軍の奮闘を称賛した。南部の集落はヘルソン州内とみられる。ドネツク州は露軍が全域制圧を目指しているものの、攻略に手を焼いている。

 大統領府長官や副長官は4日、それぞれのSNSに、自国兵士が建物の屋上でウクライナ国旗を掲げる写真を投稿した。大統領府長官は「一歩一歩」とのメッセージを付けた。写真は、東部ドニプロペトロウシク州と隣接するヘルソン州北部の集落で撮影されたとみられている。

 ウクライナ軍は、露軍が3月に全域制圧を宣言したヘルソン州を中心に多方面で反撃を強化しているが、領土奪還作戦の進展状況については情報統制を敷いている。ゼレンスキー氏もビデオ演説で奪還した集落の詳細には触れなかった。

 露国防省は4日の戦況に関する発表で、ウクライナ軍の反撃を「成功しない試み」と表現し、領土を奪還されたことを認めていない。露軍はミサイル攻撃や砲撃で対抗している。

 ウクライナ国営通信によると、ヘルソン州に隣接する南部ミコライウ州の穀物貯蔵施設が4日、砲撃を受け、穀物数千トンの被害が出た。ウクライナ参謀本部は4日、露軍がミサイル14発を発射し、15回以上の空爆を行ったと説明した。

元ロシア兵が明かすウクライナ戦争の内幕

配信

ウォール・ストリート・ジャーナル日本版
 

 ロシア軍空挺(くうてい)部隊の元兵士、パベル・フィラティエフ氏(34)によると、3月初めにウクライナの都市ミコライウ周辺で行われた戦闘で、周囲に砲弾がさく裂した際、同氏は所属する小隊の他の兵士とともに森の中に逃げ込んだ。  部隊長は死亡した。ある兵士は叫び声を上げ、必死になって別の将校に指示を仰いだ。  「一体誰が知るか」という答えが返ってきた、と元下級軍曹のフィラティエフ氏は語った。  

暗闇に包まれると、3人目の将校が新たな進撃を命じたという。疲れ果て、空腹で弾薬や医薬品が不足していた兵士たちは動くことを拒否した。1人の兵士が将校のあごを殴った。  フィラティエフ氏はその後、陸軍とロシアを去った。フランスに政治亡命を求める意向だという。同氏は、この戦争について最も率直に話す退役軍人の1人だ。

インタビューやオンラインで公開された141ページの文書で、同氏がウクライナにおけるロシア軍の失敗と呼ぶものについて詳述した。  

 

ロシア外務省はフィラティエフ氏の証言を「明らかに信頼できない」と退け、同氏を「偽物の兵士」と呼んだ。ロシアの大統領府と国防省は、この記事に関するコメントの求めに応じなかった。  ロシアの第56親衛空挺連隊に所属していたこの元軍曹は、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)との4時間にわたる電話インタビューで、ミコライウ周辺での戦闘と戦争にまつわるその他のエピソードを明らかにした。ミコライウ周辺での戦闘は、ロシア軍が飛行場を占領しようとしたときに起こったという。

 フィラティエフ氏の説明は、これまで明らかになったものの中で最も詳細なものの1つだ。同氏によると、侵攻開始から数週間、ロシア軍は混乱し、通信の不具合、貧弱な兵站(へいたん)、低い士気、そしてこうした戦闘環境に怒った兵士たちの不服従によって思うように動けなかった。  

フィラティエフ氏が話した内容の詳細についてすべてを独立した立場から検証することはできなかった。しかし同氏の説明は、ロシア兵の捕虜やウクライナ兵による証言やウクライナ側が傍受し公表した通信の内容と矛盾しない。  フィラティエフ氏は、ネットに上がっている戦闘やその直後の様子を撮影した動画を挙げて、説明の裏付けをした。

同氏は兵役に関する書類のほか、「ウクライナで特殊任務に就いた」際に目の感染症にかかって4月に軍のクリニックに入院したときの書類も見せてくれた。

 フィラティエフ氏が手記を掲載した1週間後、ロシア政府を支持するビデオブロガーが身元不明の兵士のインタビューを行った。この兵士はフィラティエフ氏と同じ連隊に所属していると述べていた。この兵士は同じ時系列で出来事を説明したが、もっと前向きな表現をしていた。

 この兵士は装備や補給品の不足に言及せず、兵士の士気が下がっているとも言わなかった。兵士は、部隊が遠く離れていたために時々通信が不安定になることがあったと述べた。そして、飛行場での戦闘の際に連隊の部隊長が死亡した後、一時的に将校らの間で判断が下されない状態になったと話した。  

フィラティエフ氏は、精鋭部隊として名高い第56空挺連隊に所属していた空挺兵の息子として育った。19歳のときにロシア国内軍(現在はロシア国家親衛隊として知られる国内向け治安部隊)に入隊した。同氏は3年近く、不安定な状態にあったロシア・北カフカス地方のテロ対策部隊で活動した。  フィラティエフ氏は、「このように自分は戦争にロマンを感じるような環境で育った」と話した。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が昨年、ウクライナ周辺に部隊を集結させていたとき、フィラティエフ氏は全面的な戦争が起きるとは思っていなかった。「政治家たちが互いに脅しをかけようとしているだけなのかと思った」  しかし、冬の間にロシアが侵攻するとの警告が目立つようになり、兵士たちは不安を募らせていったという。同氏らがクリミア半島ウクライナ本土の境界付近に向かう直前の2月半ば、司令官は彼らに妻たちを怖がらせないようにするため、自宅に電話するのをやめるよう告げた。  フィラティエフ氏の記憶によると、「彼は境界までの道を走行して、帰ってくるだけだと言っていた」という。  

2月24日の未明、軍用輸送トラックで寝ていたフィラティエフ氏は頭上を飛ぶミサイルやジェット戦闘機の騒音で目覚めた。彼の所属する部隊は北部へ向かい、クリミア半島を出てウクライナ南部のへルソン州に入った。侵略が開始された。  

彼によれば、状況はすぐに悪化した。通信機器が作動しなくなり、部隊間の連絡が途絶えた。フィラティエフ氏の部隊は、ドニプロ川にかかる橋を占領する目的のため村の道を進む予定だったものの、ウクライナ側の激しい攻撃にさらされた。  兵士を輸送していた複数のトラックは道路から外れてしまい、そのうち数台は凍っていた表土が溶けた砂地の畑にはまり込んだ。兵士や指揮官らは車両の周辺をうろつき回り、そのうちの一部は立ち往生した車両を引き出そうとした。フィラティエフ氏は部隊長に指示を求めた。部隊長は罵声を浴びせながら、失せろと叫んだ。

 フィラティエフ氏によれば、自発的に行動する様子を見せた兵士はほとんどおらず、指揮官らは無線で指示を待っているようだった。  フィラティエフ氏は「階級の低い兵士は、命令を受けるまでは何もしてはいけないと何年も教えられてきた。それによって兵士の自主性は失われ、一方で、われわれにとって、戦闘においては指揮官がほとんど存在しない状態だった」と語った。  翌25日朝方、動けなくなった車両を放棄し、残った車両になんとか乗り込んだフィラティエフ氏が所属する部隊は、破壊されたロシア軍の車列に遭遇した。既に2000人ほどのロシア軍兵士が前方で戦死しているとのうわさが広がっていた。

 フィラティエフ氏は開戦前、米国とその同盟国はウクライナ側からロシアを攻撃する準備をしているとのロシア政府の主張を無視していた。しかし、彼は、士気の低い組織と聞かされていたウクライナ軍が、どのようにしてこれほどまでに抵抗が可能なのかを理解するのに苦労していた。  フィラティエフ氏は「そうした事態に衝撃を受け、『われわれが戦っている相手は誰なのだ? これをやっているのは本当にウクライナ軍なのか?』と思うようになる」と述べた。

 ロシア軍の複数の部隊は、ヘルソンに通じるアントニフスキー橋にバラバラのタイミングで到着した。地図が配布されていない部隊もあったため、ある部隊は、川のより上流にある鉄道橋に行ってしまった。降り注ぐウクライナ側の砲火によって分散させられていた部隊は、道路沿いに再集結し、長い車列を作って指令を待った。

 3月1日、ロシア軍は燃料を入れ直し再編し、戦車による支援を受け、橋を占領した。フィラティエフ氏によれば、士気が向上したロシア軍は、橋を渡ってヘルソンへと進撃した。ヘルソンは、開戦から6カ月を経た今回の侵略戦争でロシア軍が占領した唯一の州都だ。  ヘルソン港の放棄されたあるオフィスで、ロシア軍兵士らは、見つけられるすべての食料をかき集めた。フィラティエフ氏によると、ある将校は、オフィスにあったコンピューターと事務用椅子を持ち出して軍用トラックに積み込んだ。自身が当時軍曹だったフィラティエフ氏も、自分のバラクラバ(軍人用目出し帽)では頭部の暖かさを保てなかったので、帽子を1つ失敬した。  

ロシア政府寄りのブロガーがインタビューした兵士は、ロシア軍兵士は港で何も盗まず、ウクライナ人の方がオフィスの品々を略奪したと述べている。

 フィラティエフ氏によれば、2日後の3月3日、同氏の連隊は、ウクライナ軍の撤退先となった海沿いの港湾都市ミコライウに向かった。ロシア軍部隊は、ミコライウの南東部に進撃し、軍用空港への攻撃を開始した。

 その攻撃が失敗すると、ロシア軍は退却し、互いに1キロほどの距離を置いて20のグループに分散し、塹壕(ざんごう)に身を隠した。フィラティエフ氏はその後1カ月間、ヘルソンとミコライウの中間地点の村に掘った塹壕の中で過ごした。4月になって、砲弾によって飛び散った泥が同氏の目に入り、それが目の感染症につながった。同氏の戦争はこれで終わった。

 

 フィラティエフ氏は、クリミア半島セバストポリにある軍の病院に収容された。WSJが確認した同氏の診断書によると、同氏は4月13~19日にそこで治療を受けた。彼が前線を去る前、彼は所属部隊の衛生兵からあることを頼まれた。それは、この衛生兵が管理する  注射器と鎮痛剤が底を突いている、と病院スタッフに伝えることだった。