ロシア軍空挺(くうてい)部隊の元兵士、パベル・フィラティエフ氏(34)によると、3月初めにウクライナの都市ミコライウ周辺で行われた戦闘で、周囲に砲弾がさく裂した際、同氏は所属する小隊の他の兵士とともに森の中に逃げ込んだ。 部隊長は死亡した。ある兵士は叫び声を上げ、必死になって別の将校に指示を仰いだ。 「一体誰が知るか」という答えが返ってきた、と元下級軍曹のフィラティエフ氏は語った。
暗闇に包まれると、3人目の将校が新たな進撃を命じたという。疲れ果て、空腹で弾薬や医薬品が不足していた兵士たちは動くことを拒否した。1人の兵士が将校のあごを殴った。 フィラティエフ氏はその後、陸軍とロシアを去った。フランスに政治亡命を求める意向だという。同氏は、この戦争について最も率直に話す退役軍人の1人だ。
インタビューやオンラインで公開された141ページの文書で、同氏がウクライナにおけるロシア軍の失敗と呼ぶものについて詳述した。
ロシア外務省はフィラティエフ氏の証言を「明らかに信頼できない」と退け、同氏を「偽物の兵士」と呼んだ。ロシアの大統領府と国防省は、この記事に関するコメントの求めに応じなかった。 ロシアの第56親衛空挺連隊に所属していたこの元軍曹は、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)との4時間にわたる電話インタビューで、ミコライウ周辺での戦闘と戦争にまつわるその他のエピソードを明らかにした。ミコライウ周辺での戦闘は、ロシア軍が飛行場を占領しようとしたときに起こったという。
フィラティエフ氏の説明は、これまで明らかになったものの中で最も詳細なものの1つだ。同氏によると、侵攻開始から数週間、ロシア軍は混乱し、通信の不具合、貧弱な兵站(へいたん)、低い士気、そしてこうした戦闘環境に怒った兵士たちの不服従によって思うように動けなかった。
フィラティエフ氏が話した内容の詳細についてすべてを独立した立場から検証することはできなかった。しかし同氏の説明は、ロシア兵の捕虜やウクライナ兵による証言やウクライナ側が傍受し公表した通信の内容と矛盾しない。 フィラティエフ氏は、ネットに上がっている戦闘やその直後の様子を撮影した動画を挙げて、説明の裏付けをした。
同氏は兵役に関する書類のほか、「ウクライナで特殊任務に就いた」際に目の感染症にかかって4月に軍のクリニックに入院したときの書類も見せてくれた。
フィラティエフ氏が手記を掲載した1週間後、ロシア政府を支持するビデオブロガーが身元不明の兵士のインタビューを行った。この兵士はフィラティエフ氏と同じ連隊に所属していると述べていた。この兵士は同じ時系列で出来事を説明したが、もっと前向きな表現をしていた。
この兵士は装備や補給品の不足に言及せず、兵士の士気が下がっているとも言わなかった。兵士は、部隊が遠く離れていたために時々通信が不安定になることがあったと述べた。そして、飛行場での戦闘の際に連隊の部隊長が死亡した後、一時的に将校らの間で判断が下されない状態になったと話した。
フィラティエフ氏は、精鋭部隊として名高い第56空挺連隊に所属していた空挺兵の息子として育った。19歳のときにロシア国内軍(現在はロシア国家親衛隊として知られる国内向け治安部隊)に入隊した。同氏は3年近く、不安定な状態にあったロシア・北カフカス地方のテロ対策部隊で活動した。 フィラティエフ氏は、「このように自分は戦争にロマンを感じるような環境で育った」と話した。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が昨年、ウクライナ周辺に部隊を集結させていたとき、フィラティエフ氏は全面的な戦争が起きるとは思っていなかった。「政治家たちが互いに脅しをかけようとしているだけなのかと思った」 しかし、冬の間にロシアが侵攻するとの警告が目立つようになり、兵士たちは不安を募らせていったという。同氏らがクリミア半島とウクライナ本土の境界付近に向かう直前の2月半ば、司令官は彼らに妻たちを怖がらせないようにするため、自宅に電話するのをやめるよう告げた。 フィラティエフ氏の記憶によると、「彼は境界までの道を走行して、帰ってくるだけだと言っていた」という。
2月24日の未明、軍用輸送トラックで寝ていたフィラティエフ氏は頭上を飛ぶミサイルやジェット戦闘機の騒音で目覚めた。彼の所属する部隊は北部へ向かい、クリミア半島を出てウクライナ南部のへルソン州に入った。侵略が開始された。
彼によれば、状況はすぐに悪化した。通信機器が作動しなくなり、部隊間の連絡が途絶えた。フィラティエフ氏の部隊は、ドニプロ川にかかる橋を占領する目的のため村の道を進む予定だったものの、ウクライナ側の激しい攻撃にさらされた。 兵士を輸送していた複数のトラックは道路から外れてしまい、そのうち数台は凍っていた表土が溶けた砂地の畑にはまり込んだ。兵士や指揮官らは車両の周辺をうろつき回り、そのうちの一部は立ち往生した車両を引き出そうとした。フィラティエフ氏は部隊長に指示を求めた。部隊長は罵声を浴びせながら、失せろと叫んだ。
フィラティエフ氏によれば、自発的に行動する様子を見せた兵士はほとんどおらず、指揮官らは無線で指示を待っているようだった。 フィラティエフ氏は「階級の低い兵士は、命令を受けるまでは何もしてはいけないと何年も教えられてきた。それによって兵士の自主性は失われ、一方で、われわれにとって、戦闘においては指揮官がほとんど存在しない状態だった」と語った。 翌25日朝方、動けなくなった車両を放棄し、残った車両になんとか乗り込んだフィラティエフ氏が所属する部隊は、破壊されたロシア軍の車列に遭遇した。既に2000人ほどのロシア軍兵士が前方で戦死しているとのうわさが広がっていた。
フィラティエフ氏は開戦前、米国とその同盟国はウクライナ側からロシアを攻撃する準備をしているとのロシア政府の主張を無視していた。しかし、彼は、士気の低い組織と聞かされていたウクライナ軍が、どのようにしてこれほどまでに抵抗が可能なのかを理解するのに苦労していた。 フィラティエフ氏は「そうした事態に衝撃を受け、『われわれが戦っている相手は誰なのだ? これをやっているのは本当にウクライナ軍なのか?』と思うようになる」と述べた。
ロシア軍の複数の部隊は、ヘルソンに通じるアントニフスキー橋にバラバラのタイミングで到着した。地図が配布されていない部隊もあったため、ある部隊は、川のより上流にある鉄道橋に行ってしまった。降り注ぐウクライナ側の砲火によって分散させられていた部隊は、道路沿いに再集結し、長い車列を作って指令を待った。
3月1日、ロシア軍は燃料を入れ直し再編し、戦車による支援を受け、橋を占領した。フィラティエフ氏によれば、士気が向上したロシア軍は、橋を渡ってヘルソンへと進撃した。ヘルソンは、開戦から6カ月を経た今回の侵略戦争でロシア軍が占領した唯一の州都だ。 ヘルソン港の放棄されたあるオフィスで、ロシア軍兵士らは、見つけられるすべての食料をかき集めた。フィラティエフ氏によると、ある将校は、オフィスにあったコンピューターと事務用椅子を持ち出して軍用トラックに積み込んだ。自身が当時軍曹だったフィラティエフ氏も、自分のバラクラバ(軍人用目出し帽)では頭部の暖かさを保てなかったので、帽子を1つ失敬した。
ロシア政府寄りのブロガーがインタビューした兵士は、ロシア軍兵士は港で何も盗まず、ウクライナ人の方がオフィスの品々を略奪したと述べている。
フィラティエフ氏によれば、2日後の3月3日、同氏の連隊は、ウクライナ軍の撤退先となった海沿いの港湾都市ミコライウに向かった。ロシア軍部隊は、ミコライウの南東部に進撃し、軍用空港への攻撃を開始した。
その攻撃が失敗すると、ロシア軍は退却し、互いに1キロほどの距離を置いて20のグループに分散し、塹壕(ざんごう)に身を隠した。フィラティエフ氏はその後1カ月間、ヘルソンとミコライウの中間地点の村に掘った塹壕の中で過ごした。4月になって、砲弾によって飛び散った泥が同氏の目に入り、それが目の感染症につながった。同氏の戦争はこれで終わった。
フィラティエフ氏は、クリミア半島のセバストポリにある軍の病院に収容された。WSJが確認した同氏の診断書によると、同氏は4月13~19日にそこで治療を受けた。彼が前線を去る前、彼は所属部隊の衛生兵からあることを頼まれた。それは、この衛生兵が管理する 注射器と鎮痛剤が底を突いている、と病院スタッフに伝えることだった。