パルデンの会

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4月18日、ポーランド国籍の男(ポーランド検察庁がパヴェル・Kと特定)が、ゼレンスキー大統領暗殺を計画していたとする容疑で逮捕された。ゼレンスキーはポーランドを訪問中だった。

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和六年(2024)4月21日(日曜日)
        通巻第8223号  
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 ポーランド訪問中のゼレンスキーを暗殺する計画?
   モスクワの差し金と西側メディアは報じたが。。。。。。。。
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 「奴は、鬱陶しい存在になったな」
 戊辰戦争前夜、薩長にとって、突然、坂本龍馬が邪魔になった。ひそかに統幕路線に傾いた両藩にとって、その時点でまだ公武合体を振り回す政治的存在は排除しなければならない。情勢は一夜で変わるものだ。
 竜馬の隠れ家の情報は京都見回り組にもたらされ、今井信郎ら腕利きが乗り込んだ。竜馬は暗殺された。情報を提供したのは薩摩だろうと推測するのは中村彰彦竜馬暗殺を追って』である。

 いま西側にとってゼレンスキーがまさにそうした存在になりつつある。ロシアのエージェントにゼレンスキーの行動予定、警備状況などの情報を提供するのだ。鬱陶しい存在がウクライナの大統領である。
「はやく停戦交渉を始めろ」、「武器供与は限界」と関係諸国はウクライナ支援に疲れ切った。

CIAのバーンズ長官は言い放った。「このままでは年内にウクライナは敗北しかねないだろう」
バーンズ長官はロシアのウクライナ侵攻以降、10回ウクライナ訪問した。現地情勢を詳しく観察し把握したうえで、「ウクライナは勇気を失っていないが、弾薬を使い果たしている」とした。(共同、4月18日)

 4月18日、ポーランド国籍の男(ポーランド検察庁がパヴェル・Kと特定)が、ゼレンスキー大統領暗殺を計画していたとする容疑で逮捕された。ゼレンスキーはポーランドを訪問中だった。

 ジェシュフ=ヤションカ空港からウクライナ国境までは約100キロ。この空港は岸田外相のキエフ訪問でも中継地点として利用された。欧米からの軍用機や貨物機が頻繁に同空港を利用している。

ゼレンスキー大統領も、外国訪問の際にこのジェシュフ=ヤションカ空港を使う。またバイデン米大統領ウクライナを訪問した時も、同空港を経由した。
 容疑者はこの空港の詳細を調べていた。

 元ロシア大統領ドミトリー・メドベージェフはこう発言した。「キエフの西側支援者らがウクライナ指導者を『清算』したいと考えている兆候である」

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<< 日曜随筆 >>
   寺山修司川内康範

 『月刊日本』に南丘主幹が寺山修司ジャック・ロンドンについての一文があり、懐かしく思った。川内康範との過去の交際が何故か走馬燈の影絵のように重なった。
 寺山と川内には接点も共通項もないうえ、たぶんイデオロギーは異なる。ところがなぜ二人の面影が重なったのか。考えてみてようやく得心した。

 そうだ。ふたりに共通したのは「反骨の精神」である。ナショナル愛国心ではなく母の国への愛着である。 

 さきに寺山修司のことを書く。筆者にとって早稲田大学教育学部先輩であり、おなじ「中退」組である。
 いまもすらすらと寺山の和歌で思い出すのは氏が十八歳で詠んだ、

 マッチ擦る束の間の海に霧深し
    身捨つるほどの祖国はありや

 寺山の孤独感、反戦歌的な逆説の諧謔。当時の日本の歌壇はこの和歌を受け付けず、新人排斥の性癖が強い既成歌人らは大いに批判した。
 筆者もなぜか反戦歌的な調べに違和感を持ったが、二歳で父が戦地で死亡、母は大車輪で働いてあちこち転勤のため寺山は幼き頃から両親の愛を知らず親戚の家をあちこちと、青森、弘前、三沢、八戸を転々とした。そんな境遇で失った父を慈しみ、価値紊乱の時代を嘆き、社会風潮を恨み、突き上げてくる感情を和歌で表現した。
 学生時代の筆者は寺山修司を詳しくは知らず、また「天井桟敷」から映画など前衛芸術の世界を驀進していた活躍を仄聞していたが、良い読者ではなかった。
 寺山修司と筆者が会ったのは三島由紀夫追悼の憂国忌の件で冊子に詩を書いて貰おうと、指定された渋谷の喫茶店だった。発起人は断られたが、詩は引き受けて呉れた、と記憶する。
 その後、浅川マキの♪「ときには母のない子のように」などを作詞した。外国で高く評価され始め、弐通ほど手紙か葉書を頂いたのだが、それも整理が悪いので行方不明となった。

 川内康範月光仮面の作者で森進一や青江美奈のヒット曲の作詩を手がけていたことくらいは知っていた。紹介する人があって会いに行くと「君たち学生運動君が代を歌うのは頼もしい」と時々カンパを呉れるようになり、昭和四十四年には民族派学生運動のために二曲を作詞ばかりか作曲家まで用意して披露会をやったこともあった。
氏の五十歳記念パーティにも呼んで頂き、「北海道のケネディだ」中川一郎を紹介してくれた。手動の印刷機を寄付して貰ったこともあった。

 氏はその後、♪「この世を花にするために」の「機動隊」の歌も作られた。
 キーワークは常に「花」と「愛」、そして「真実」である。氏は大物政治家や、一方でフィクサーたちのつきあいがあり、「助っ人人生」をモットーとしていた。
 三島事件直後は筆者の提案で追悼会を行うというと自ら司会を買ってでられた。寄付金もいただいた。ところが運営を巡ってお互いに気に染まないことがあり、爾来、プッツンとなってしまった。
 再会はじつに三十年後、それも『月刊日本』の十周年記念パーティの席だった。なくなる数ヶ月前に突然電話を貰った。八戸に居を移し、入退院を繰り返していた頃だった。
 ここで八戸、三沢が重なった。
寺山も川内も青森で生活したという共通項、あの独特の方言と土地柄、純朴な人々。大昔、このあたりは縄文文明がもっとも繁栄した地域であり、縄文時代の情念でも重なる。

 そして二人に重なるのは「母」である。
愛国心がないことを悩んでいたら」という『人生処方詩集』のなかで、寺山は「祖国は何処」という問いに「我は母の子」と答えている。寺山修司にとっての「祖国」の意味が見えてくる。
 川内の代表作は「雨に降られりゃ傘になり」と、あの「おふくろさん」ではないか。
                     (「月刊日本」三月号から再録です) 
     ◎◎み○☆や◎☆ざ○☆き◎☆◎ま○☆さ◎☆ひ◎◎ろ○☆