パルデンの会

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尖閣ビデオ封印のほうこそ問え 続ーその2



【第149回】 2010年11月11日 上杉隆 [ジャーナリスト]

政府と一体化して尖閣ビデオの“犯人探し”に奔走する、矜持なき日本の記者クラブメディアを嗤う

 テレビ・新聞が「尖閣ビデオ」の犯人探しで喧しい。
 朝から晩まで、「どこから漏れた」、「誰が漏らした」かで大騒ぎである。日本のマスコミはいったい何をやっているのだろうか。もはや呆れるというよりも、相変わらずの記者クラブメディアの勘違いぶりを微笑ましくさえ思ってしまう。
 いとも簡単に官僚たちのスピンコントロールに乗っかるメディアを持って、日本政府はじつに幸せである。海外の政治家たちがこの状況を知ったら、さぞかし羨ましがることだろう。
 世界中探しても、政府と一体となって、貴重な「情報源」を探し暴こうとしてくれるメディアはそう多くはない。菅政権は、優秀なスピンドクターである記者クラブの存在をもっと大事にした方がいい。これは親身なアドバイスである。

権力監視は万国のジャーナリズム
共通の存在意義であるはずだが

 世界には様々なメディアが存在し、様々な分野を担い、それぞれがそれぞれの方法で情報の伝達を繰り返している。
 政治、経済、社会、科学、芸能、スポーツ等々、あらゆる分野で多くの記者たちが、それぞれの取材によって真実を伝えようと日々の努力を繰り返している。
 そこに法律など存在しない。あるのはテレビ、新聞、ネット、雑誌などそれぞれのメディアが独自の自由な方法によって、読者や視聴者に情報を伝えようとしていることだけだ。
 とはいえ、権力報道においてだけは例外だ。そこには世界共通のジャーナリズムのルールが存在している。
 ジャーナリズムの最低限の役割は、権力監視、換言すれば、政府の隠そうとする事実を暴き、国民の知る権利に応えようとすることである。
 それは、ペンタゴンペーパーズを暴いたニューヨークタイムズ紙も、ウォーターゲート事件を追ったワシントンポスト紙のウッドワード記者とバーンスタイン記者の仕事も変わらない。今回の「尖閣ビデオ」の一件でも当然にそうだ。
 またそれは、米国だろうが、中国だろうが、南米だろうが、中東だろうが一切変わりなく、万国共通のジャーナリズムのルールであり、存在意義でもある。
 ただし、日本の記者クラブメディアを除いてだが――。

 今日(11月10日)も、朝のテレビ番組ではキャスターやコメンテーターらが政府の情報管理がなっていない、と声を荒げている。普段ならば、「情報公開」や「国民の知る権利」を声高に叫んでいるのに、今回はそんなことはお構いなしだ。政府と一緒になって犯人探しに躍起になっている。

 そうしているうちにも、昨日(9日)、東京地検はユーチューブを管理するグーグルに対して、ビデオの投稿者とみられる「sengoku38」のIPアドレスなどの個人情報の任意提出を求めた。
 当然ながらグーグルは、「通信の秘密」、「個人情報保護」の観点からこれを拒否した。だが、東京地検は即日、捜査令状を取り通信記録を押収した。
 政府が、国家公務員法違反などの法律上の観点から、こうした措置に出るのはある程度、うなづける。だが、メディアが、言論の自由を踏みにじるような権力側のこうした行為に唯々諾々として認めてしまっているのには、どうしても納得がいかない。

メディアは30年前の
西山事件」を忘れたのか

 メディアは過去の教訓を忘れたのだろうか。約30年前、毎日新聞西山太吉記者が日米の沖縄密約を暴くスクープを放った後、政府は彼を逮捕し、記者クラブメディアは西山氏を事実上、言論界から追放した。
 だが、30年後のいま、それは間違いであったということが判明している。今年三月、岡田克也外務大臣の調査によって「密約」は存在していたということがわかったのである。
 つまり、政府の隠蔽していた不都合な事実を暴露したひとりのジャーナリストを、記者クラブメディアは守ることができなかったのだ。

 今回も同様だ。本来ならばメディアがやらなければならない政府の隠蔽情報をユーチューブに投稿した誰かが暴いてくれたのだ。その「sengoku38」を犯人扱いするばかりではなく、国民の知る権利に応えた人物として、敬意を払うメディアがあってもいいのではないか。残念ながら、産経新聞を除いて、そうしたメディアはないようだ。

投稿者の行為の否定は
メディアの自己否定でもある

 仮に、メディアが投稿者の行為を完全否定してしまえば、それは自らの仕事をも否定することにつながる。私たちジャーナリストの最低限の役割のひとつは、権力の隠す情報を暴き、それを国民に提供することであり、権力から得られるリーク情報なくして、その仕事は不可能なのだ。

 なにより、普段から、テレビ・新聞の記者クラブメディアも「独占スクープ情報」、「独占入手」としながらニュースを発信しているではないか。
 つまり、記者クラブメディアは自分たちの場合は「報道」であり、ネットなどの通信メディアの場合は「流出」としたいのであろう。それは単に記者クラブメディアの面子の問題であり、奢りに他ならない。

 少なくとも、米国では「ユーチューブ」はメディアのひとつとして認められている。そのメディアに権力側の捜査が入ったということは、言論の自由を脅かすことにつながるという危機感はないのだろうか。これでは、仮に今後、新聞社や放送局に東京地検の捜査が入った場合、なにもいえないということになってしまうのではないか。

 ちなみに筆者自身は、当初から、ビデオをリークしてでも事実を明らかにすべきで、それこそが国民の知る権利にも、国益にも適うという立場を取っている(第143回)
 これは魚住昭氏を除く、ほとんどすべてのフリージャーナリストたちの共通認識である。
〈ノンフィクション作家の魚住昭さんは投稿に否定的だ。(中略)「間違いを修正するために非公開という判断をしたのは仕方がない部分もある。外交には機密がつきもので、真実を知る権利が必ず優先するわけではない」〉(朝日新聞朝刊11月9日付東京版一面)
 こうした権力側の代弁者のような立場を取るのは例外的だ。残念ながら、魚住氏は西山太吉氏の仕事を否定し、沖縄密約事件の教訓を忘れているのだろう。
 繰り返すが、政府が「犯人探し」をするのは一向に構わない。だが、ジャーナリズム側はまったく違う。むしろ逆だ。
 メディアは、いまこそ一致団結して、政府権力による情報隠蔽に立ち向かわなければならないし、断固として事実を明らかにするための努力を続けなければならない。
 つまり、「sengoku38」が誰であるかを探すよりも、なぜこの1ヵ月もの間、菅政権は「尖閣ビデオ」を隠蔽しなければならなかったのかを追及すべき時なのである。