パルデンの会

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天長節。天皇陛下の傘寿を心よりお祝い申し上げる


 20131223日号。勝谷誠彦氏の有料ブログより

天長節天皇陛下の傘寿を心よりお祝い申し上げる>。

 2時半起床。
 天長節天皇陛下の傘寿を心よりお祝い申し上げる。
 朝日新聞ですら、なかなかいい記事を載せているのだが、いろいろと引用してみようと思って検索してもほとんどひっかかってこない。『スッキリ!!』に出なくてはいけないせいで、昨日といっていい時刻に書き始めているとはいえ、あまりにこのおめでたい節目に対する大マスコミの無関心さには腹が立って来る。
 さすがにこれからもう少し記事が出回ると思うので、気になるものがあれば明日にでも引用したい。
 紙の朝日新聞から。
 <「先の戦争、痛ましい」「皇后から安らぎ」/天皇陛下きょう80歳>
 という見出しで、陛下の記者会見の模様を伝えている。私が驚いたのはこのお言葉である。
 <天皇という立場は孤独とも思えるものだが、結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得た。>
 ああ、これが今の天皇陛下そのものなのだな、と感じた。まさに至尊としての上御一人であられるという地位を保ちながら、戦後の民主主義と折り合っていく。そのために、皇后陛下の存在がいかに大きかったか。国民もそのことをよくわかっていたから、お二人の姿を仰ぎ見て来たのだろう。
 申し上げるのも畏れ多いことながら、このことをもっともわかっておられるのが皇太子殿下であると拝察する。しかしわかっておられるだけに、後者の方にいささか重きを置きすぎておられはしないだろうか。「戦前を感覚として知る」天皇陛下は、後者にむしろ力を入れられても、自然とバランスがとれる。しかし皇太子殿下にはその「もともとの重石」がない。私などその重石を自分に課そうと子どものころから努力したので、右翼などと言われてきたのだが(苦笑)。
 朝日新聞は東京版だと33面でも天長節の特集を組んでいる。なぜ左に傾いて踊る『築地をどり』が、と思われるかも知れないが皇室をもっとも食い物にして部数を伸ばしてきたのが朝日新聞なのである。
 <天皇陛下きょう傘寿/分かち合う心、探り80年>
 食い物にしているくせに、見出しですら敬語を使わない無礼。<探られ>でしょうが。そもそも陛下に対して<探り>などということそのものが畏れ多い(怒)。しかし、逸話をよく拾ってはいる。
 ここでも私が感動してお伝えした、先日の水俣訪問。そこで両陛下は胎児性水俣病患者のお二人と会われたという。
 <面会は「お忍び」で行われた。>
 だからあの時には報じられなかったのである。うまく言葉が伝わらない患者さんに対して陛下は、
 <「いま何ておっしゃったの」と優しく聞き返し、じっと耳を傾けた。皇后さまは2人の手をとって「体に気をつけてね」。懇談は予定時間を超えて続いた。>
 くどいようだが、患者さんに対して敬語を使っておられる陛下のお言葉を引用しながら、その陛下に対しては敬語を使わない朝日というのは、何なのかね。
 史書を読むと、皇室の周辺にはときおり「奇跡」がおきる。ここでも。
 <この後、加賀田さんに変化が起きた。17年ほど前に車いす生活になって以来、リフト式の風呂が怖くて入れなかったが、面会の2週間後、「両陛下と会えたのだから乗ってみたい」と入れるようになったという。>
 そういうことなのだと思う。ひとは自分の心に縛られている部分が多い。それを解きほぐし、背中を押す「風圧」が天皇皇后両陛下にはあるのだ。
 もちろん「神ながら」としてのお力はもともと備えておられる。しかし一方で、政府こそ見習えと言いたいような「インテリジェンス能力」を両陛下はお持ちだ。やはり同じ記事から。
 <大変なことになりましたね。現地の状況で分かることはありますか」。2011年3月12日。東日本大震災の翌日、日本災害看護学会理事長の南裕子さん(71)の携帯電話が鳴った。皇后さまからだった。
 電話はそその後も続いた。赤ちゃんのミルク用の水は足りるのか。支援隊の動きは。皇后さまが心を痛めていることが、電話口からひしひしと伝わってきた。>
 直後、天皇陛下は私が『平成の玉音放送』と名付け、ありがたいことに人口にすこしは膾炙しつつあるあのビデオによるメッセージをお出しになられる。当時、私が書いたことを覚えている方もおられるかも知れない。陛下は独自のルートで、さまざまな学者を宮城にお招きになり、情報を収集された。おそらくは官邸に居すわってパニックになっていた、あの額にホクロのある暗愚の宰相よりも、はるかに現状を把握しておられた。
 そして「これはよくない」と判断されて、カメラの前に立たれたのだ。その後もさまざまな場面で「これは政治に対する関与ではないか」などとほかならぬ朝日新聞がよく叩いてきたが、あの『玉音放送』こそギリギリであった。私はテレビの前で息をのんだ。陛下にご迷惑が及ばなければと危惧した。それでも、陛下は、決断されたのだ。
 実はこの「情報収集」は常に行われていると、朝日は伝える。
 <両陛下はこれまでの活動で築いたネットワークを各地に持ち、こまめに連絡をとっている。被災地に何が必要か。両陛下はいまも情報を集めているという。>
 被災地だけではないだろう。さまざまなご公務でお出かけになる先々で「ネットワーク」は作られているに違いない。
 実はこれこそが皇室が存続してきた秘訣なのだ。武力を持たない皇室の最大の武器は「情報」だ。周囲にいた公卿などというのは「情報機関」であった。各地に荘園を持ち、しかし本人は京都にあってそれらを把握、分析する。ウェブも電話もない時代に、大和島根の全貌を把握していたのは、天皇にほかならない。それこそが力の源泉だった。
 平成の御代においても天皇皇后両陛下は、その「伝統」を受け継がれ、弱者への目配りを絶やさずいて下さる。
 ありがたいという言葉は、こういう時のためにあると心から思う。
 と、ここまで書いたら、読売新聞が天皇陛下のお言葉の全文をアップした。もう。
 <天皇陛下誕生日会見>
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131222-OYT1T00390.htm
 他も一斉に出しはじめた。なるほど。記者クラブの中でももっとも「縛り」がきつい宮内庁なのでウェブでも「解禁」の談合があったのかもね。
 熟読して、さきほども書いたように、明日にでもまた触れさせていただく。

 というように、この時点まで日本国の大マスコミが沈黙を守っているにもかかわらず、本当の愛国心が化石的に保存されている場所ではきちんと報じられているのだ。そもそも天長節が私のパソコンでは変換されない。「店長説」と出た時には、ぶん殴ってやろうかと思ったが、日記が出せなくなると思い止まった(笑)。
 ブラジルである。来年はW杯開催でぐっと身近になると思うが、その時には、こういう方々がおられることを思い出して欲しい。
 <ブラジル日本会議天皇誕生日祝賀会>
 http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/15891/menu/8/cat/105
 <ブラジル日本会議(小森広理事長)主催の今上天皇誕生祝賀会が、22日午前10時から午後2時までサンパウロ市リベルダーデ区のニッケイパレスホテル(Rua Galvao Bueno, 425)で開催される。
 当日は2部形式で行われ、1部は日伯国歌斉唱、来賓紹介、森昇名誉会長あいさつ、在サンパウロ総領事館代表祝辞、「皇室の20世紀」(40分)DVDを上映後に万歳三唱。2部では、場所を地下レストランに移し、昼食会が開かれる。>
 先んじてこういうこともあったようだ。
 <「天皇誕生日祝賀会」/傘寿の記念と皇室の弥栄祝し>
 http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/15769/cat/105
 <園田昭憲県連会長が皇室の弥栄(いやさか)を願って万歳三唱の音頭を取り、菊地義治援協会長の発声で乾杯が行われた。その後、会場奥に飾られている天皇皇后両陛下の肖像画を前に軽食を取りながら記念撮影を行うなどして誕生日を祝した。>
 日本本国の各地で、今日あたりはこういう催しが行われるのが本当だと私は思うんですけどね。『スッキリ!!』では私に気を使ったか(笑)ちゃんと取り上げるようなので、それなりのコメントをしたいと思う。

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天皇陛下80歳…「先の戦争」最も印象に

読売新聞 12月23日(月)5時4分配信

http://amd.c.yimg.jp/amd/20131222-00000904-yom-000-3-thumb.jpg
皇居・宮殿のベランダから庭を眺められる天皇、皇后両陛下(11月14日)=宮内庁提供

 天皇陛下は23日、80歳(傘寿(さんじゅ))を迎えられた。

これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見し、80年を振り返り最も印象に残っていることとして「先の戦争」を挙げられた。天皇という立場について「孤独とも思えるもの」と自ら明かしつつ、「結婚により、皇后が寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています」と述べられた。

陛下は、即位10年の記者会見で、「私は戦争のない時を知らないで育ちました」と話されている。3歳だった1937年7月に盧溝橋事件が起き、終戦は11歳の時だった。

今回の会見で陛下は、昭和戦争で310万人の日本人が犠牲になったことに改めて触れ、「夢を持って生きていた多くの人々が若くして命を失ったことを思うと本当に痛ましい限りです」と述べられた。戦後、平和と民主主義を守るべき大切なものとして憲法を作り、荒廃した国土の復興に尽くした人々に「深い感謝の気持ち」を示された。

陛下は皇后さまと、沖縄や硫黄島、米サイパンなどへ慰霊の旅を続け、被災地にも多く訪問されている。会見では、「大きな災害にも人と人との絆を大切にし、冷静に事に対処する人々が育っていることを本当に心強く思っています」と話された。

これからの人生についてとの質問に対し、「すでに80年の人生を歩み、やや戸惑っています」と話した上で「年齢による制約を受け入れつつ、できる限り役割を果たしていきたいと思っています」と述べられた。

宮内庁は、陛下の80年の歩みを振り返るDVDを、初公開映像も盛り込んで製作。23日から「政府インターネットテレビ」で公開するほか、DVDは販売もされる。

◆傘寿=「傘」の略字が「八十」と読めることから、80歳のことを指す。77歳の「喜寿」や88歳の「米寿」などと並んで、長寿の節目の年としてお祝いが行われることが多い。

会見全文はこちら。

最終更新:12月23日(月)5時9分
読売新聞