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「言論の自由」抑圧、稚拙極まりない韓国 公人の“行方不明”批判は当然

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言論の自由」抑圧、稚拙極まりない韓国 公人の“行方不明”批判は当然

SankeiBiz 10月15日(水)11時42分配信



 韓国のソウル中央地検が8日、産経新聞社の加藤達也前ソウル支局長(48)が書いた朴槿恵大統領に関するコラムをめぐり、「朴大統領の名誉を傷つけた」との民間団体の訴えを認め、加藤前支局長を在宅起訴した。産経新聞社はただちにそれに抗議し、日本新聞協会と日本政府も国際標準としての「言論・報道の自由」を論拠にその不当性を指摘、欧米の主要新聞やメディア関連団体も同様の見解表明をしている。

ことの発端となった加藤氏のコラム「【追跡~ソウル発】朴槿恵大統領が旅客船沈没当日、行方不明に…誰と会っていた?」は、ウエブサイト(www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030034-n1.html)で今も誰でも読むことができる。

それは旅客船沈没事故発生当日の4月16日に朴大統領が日中7時間にわたって「連絡がとれなかった」ことを、韓国紙のコラムや国会での大統領秘書室長の答弁など引用しながら紹介し、「男性との密会」のウワサが流れていることに言及したものだ。上品な記事であるとはいえないが、世界中どこの新聞でも「緊急時に公人が連絡不能」となれば、メディアが批判するのは当然であり、日本でもいくつもの例(9月3日付のSANKEI EXPRESSを参照)がある。

国務省のサキ報道官も会見で、この件について質問され、「米国ではプレスの自由を保障している」と述べ、間接的に韓国の対応を批判した。

国家権力による「報道の自由」への干渉により、メディアが今後権力批判を萎縮するようない事態を招いてはならないという点でメディアの意見は一致している。

そうした状況を踏まえ、本欄ではプレスの自由は何のためにあるのかという原則論からこの問題を再考しておきたい。

文書として最初に国家や議会の検閲を批判したのは英国の詩人ジョン・ミルトンで、1644年に発刊された著書『アレオパジティカ』にはこうある。

「真理と虚偽とを組み打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしがない。真理によっての論駁こそ、最善のもっとも確実な反論となる」(岩波文庫)。つまり、「社会的対立点があれば、両者の言い分を公開し、人びとの判断を仰げ」ということだが、今回の韓国の対応について、私たちも心しておかねばならないことがいくつかある。

第1は、メディアが国家元首や権力を批判して圧力を受けることは日本でも戦前の治安維持法時代には当たり前であったことだ。
今はその批判が事実に基づき、公益性があるものであれば、法律上は原則処罰されない。

第2は、日本での名誉毀損による処罰は、それによって被害を受けた本人の訴えを基本にして捜査され、判断されるが、韓国では本人の訴えがなくとも、他人が名誉棄損だと思えば、告発することができ、今回はそれが起きた点である。

第3は、今回のケースは現在の日韓の歴史認識問題での対立がその背景にあり、しかも、日本のメディアのなかで激しい韓国への論評を展開しているのが産経新聞社であり、検察の在宅起訴の決定には、政治的意図があると思わざるを得ないことだ。

こうした点を踏まえると、韓国検察と政府の対応は稚拙極まりなく、狂気とさえいえる。先述したように、古今東西、政治と経済を問わず、権力者がメディアの自由な活動を許さない、もしくは何らかの形でそれに干渉し、抑えようとすることは珍しくない。同時に、メディア側にも覚悟が求められる。政治学者の丸山眞男氏は「言論と批判の自由は、有効批判でありえてこそ、いいかえれば、それが指導者の政策を改めさせ、あるいはそれが不可能な場合には、指導者を交代させる力をもたねばならぬ」(『講義録3』東京大学出版会)と記している。

私たち市民は、メディアが安全で公正な社会構築のために活動し、その力をできるよう、能動的な意思で応援すべきだということでもある。(同志社大学社会学部教授 渡辺武達(わたなべ・たけさと)/SANKEI EXPRESS)

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