パルデンの会

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天安門事件被害者 に対して 日本より 合掌


天安門事件被害」者
に対して 日本より
合掌

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天安門虐殺の写真は本文とは関係ありません

勝谷誠彦氏の有料ブログより

1989年6月4日の天安門大虐殺六四天安門事件)から25周年の日を迎えた。亡くなられた人々冥福を祈るとともに、今なお海外で亡命生活を続ける勇士たちを讃えたい。錦州監獄で戦っている2010年のノーベル平和賞受賞者、劉暁波先生も。受賞を知らされた時、彼は「この賞は天安門事件で犠牲になった人々の魂に贈られたものだ」と呟いて泣いたと伝えられている。
 まもなく始まるG7で支那の暴虐は自由主義列強によって厳しく断罪されるだろうが、ふりかえって見ればこの2010年の劉さんに対するノーベル平和賞授章と、支那の猛反発というのは、今日起きていることへの予見性に富んでいたのではないか。
 支那はまず「内政干渉だ」とさんざんわめいた。最近ではすべてのことにこう言っていて、すっかりオオカミ少年状態だが。次にノルウェーにいる各国大使に、授賞式に参列しないようにという書簡を送った。オノレに対して内政干渉といっておいて、よその国を代表する特命全権大使にモノを言うというのは、やはり当時からアタマがおかしかったとしか言いようがない(嘲)。
 同じころ運の悪いことに支那の三亜市で開催された「第60回ミス・ワールド」コンテストでは選考委員に支那の当局が圧力をかけまくり、本命と言われていたノルウェー代表はベスト5にも入れなかった。
 やることなすこと外交儀礼云々以前に、イヤガラセとしても低レベルであって、国際社会は嘲笑して眺めていたものだ。
 しかし、あの連中はそうやって「放置」されると「容認された」と考えるんですね。そしてツケあがる。この時はまだしもプロパガンダで横車を押していた。しかし見よ。それから4年がたった今、支那が押す横車には武器が乗っている。言論ではなく態度で他国の領土を侵略している。私たちは少し奴らをあの時、甘やかしすぎたようだ。
 甘やかしたと言えば、天安門事件についての自由主義陣営の態度も、今となっては私は反省しなくてはいけないと思う。あそこで徹底的に共産党独裁政権に対して制裁を続けていれば、今の惨状はなかったかも知れない。そして、猛省を込めて言えば、制裁解除の先鞭を切ったのは日本国であった。
 1992年の宮沢喜一内閣の時である。まことに痛恨事ながらこの解除は天皇皇后両陛下の訪中とセットで行われた。後に当時の支那の外相は「それが西側の解除のきっかけとなった」と自らの外交工作を回想録の中で誇っている(泣)。日本国の「妄想的平和主義」が歴史的に世界に、あるいは支那民主化を望む人々に大きな迷惑をかける結果になったことは反省し、覚えておくべきだ。
 集団的自衛権憲法を巡って「平和主義」の論議が賑やかだが、今日という日にこうして天安門事件のあとの対支外交について考察し、はたして当時の日本の「楽観」が正しかったのかどうかに触れる大マスコミの報道を私は寡聞にして知らない。
 朝日新聞などは一面で、
 <「戦地に自衛隊」可能性/非戦闘地域、枠外す/政府基準案>
 http://digital.asahi.com/articles/DA3S11171624.html
 と、わけのわからない見出しで大騒ぎしながら、天安門事件の記念日については社説のほかに国際面にわずか3段の記事を載せているだけだ。あんた方の金科玉条の自由と人権と平和がいまこの時も踏みにじられているんですぜ。
 ちなみに<戦地に自衛隊」可能性>には笑った。いつかは戦地に行くから自衛隊なんでしょうよ。もうそういう偽善はそろそろやめようよ。支那の独裁体制に対しても偽善報道を続けた結果が、現状でしょう。日本国を含む周辺諸国が困っているだけではない。13億の人々のほとんども抑圧のもとにあるのだ。チベットウイグルについていえば、抑圧どころか弾圧の。

 当時の私は『週刊文春』の記者だった。綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の実名報道をしたりして、今思えばゾッとするほど怖いもの無しの時代だった。まだ30歳少し前である。いきなりフィリピンにのべ1年ほど放り込まれたりしていたので「ひとり外信部」と付け上がってもいた。
 天安門に学生たちが集まり始めたのはそんな時である。「これは大事件になる」と私は直感した。しかしその大事件の方向性としては、民主化が始まり、独裁政権が倒れるのではないかと、なんと楽観していた。
 編集部には執筆のためのブースがあった。私はそのひとつに立てこもり、人民解放軍の編成図や共産党幹部の名簿などを大量に持ち込んで勉強した。まだウェブなど機能してない時代である。資料室から持って来る本や、書店から買ってきたものばかりだった。
 学生たちの名前も次々と覚えた。いずれも当時の私の中ではヒーロー、ヒロインだった。リーダーの王丹さんは私よりも10歳近く歳下で驚いた。女性闘士の柴玲さんは美しく、広場のヒロインだった。ウアルカイシさんはその名前でまず覚えた。彼の出身地のウイグルがいかにひどい弾圧のもとにあるかなど、まだそのころはよく知らなかった。
 今なおあの闘士たちの姿を私はありありと思い出すことが出来る。虐殺の後、支那政府は彼ら彼女らを指名手配した。手配名簿には順位がついている。1位王丹、2位劉剛、3位ウアルカイシ、4位柴玲。まあこれも支那のひとつの文化なのだろうが、ちょっと水滸伝の好漢の序列みたいである。
 4年前、日本で開かれたある会合で、私はウアルカイシさんと会うことができた。
 https://www.facebook.com/katsuyamasahiko

 独裁者と戦う各国のリーダーたちが集った場であっ

て、写真で私の左にいるのは北朝鮮難民救援基金の理事長であり私の師匠のひとりである、おなじみの加藤博さんである。彼も中朝国境で支那の公安に逮捕され、拷問を受けたことがある。支那朝鮮からすればこの場に爆弾でも投げ込みたいような、凄い写真なのだ(笑)。

 5月半ばには私には学生たちの方が政府を押しているように思われた。ウアルカイシさんは李鵬などと面会したが、ハンスト中止を求めるのに対して「決めるのは我々だ」などと突っぱねていた。この光景は全世界に流れた。私は快哉を叫んだが、今となっては、このあたりで共産党守旧派は「面子を潰された」と感じはじめていたのかも知れない。
 しかもそのあとゴルバチョフが北京を訪れた。50万人近い人々で天安門はあふれ、ゴルバチョフが移動に齟齬をきたすほどだった。ここでも当時の独裁政権は国際的に恥をかいたことになる。
 この時、私はちょっとわが国の60年安保を連想したことを覚えている。あの時は国会をとりまくデモ隊の前に、アイゼンハワー大統領の来日が中止された。しかし権威だけでおさえこむ支那の独裁者にはゴルバチョフが来ることをやめてもらうという選択肢はなかっただろう。結果としてここでまた学生たちとの間で感情的な対立が深まったのではないか。60年安保闘争がそのあと消滅していったことを考えると、岸信介の方がはるかに狡猾だったと言えるかも知れない。
 このあたりから事態は後戻りできなくなる。学生たちは「自由の女神像」を造り広場の中央に置いた。一方で戒厳令が布告され、各地の人民解放軍が北京に続々と集まり始めた。首都の軍隊だと学生に同情して銃口を向けられないのではないかと、ウイグルなど辺境にいた軍を呼び寄せたという情報も飛び交っていた。
 フィリピンでクーデターをさんざん経験していた私はこれは面白いと心の中で思っていた。学生たちに同情的だったせいもあるだろう。今思えば楽観的だが独裁者たちは判断を誤ったのでは、と感じたのだ。首都の軍は確かに学生に縁者がいたりして銃口を向けにくいかも知れない。しかし独裁者の足もとを固めているのは、もっとも忠誠を誓っている部隊でもあるのである。
 支那の歴史では、強いが裏切るかも知れない将軍は必ず辺境に飛ばされる。都に変事が起きて仕方なく呼び戻すとそのまま政権を倒してしまうということは、何度も繰り返されてきた。それが起きるのではないか。
 6月3日夜、軍が投入された。その少し前から私は編集部に泊まり込みだった。もっとも早い情報でもテレビに頼るしかない。隔靴掻痒だった。すると、あれは4日の早朝だったか。「学生側についた軍があらわれた」というニュースが飛び込んできたのである。「第26軍」(記憶、あいまいです)だという具体的なデータまであった。しかも複数のメディアが報じている。
 自分の予測が当たったと快哉を叫んだ私だったが、ほどなくそれが誤報であるとわかる。いや、事件のあと完全な情報統制が行われ、ご存じのように犠牲者の数すらいまだ確定していない中で、ひょっとするとそういう動きもあったのかも知れない。とすれば、独裁者としてはもっとも隠蔽したい事実だろうから、歴史から抹消されているのだろう。
 私が信じかけた理由に、日本の大マスコミが歩調をそろえて間違ったニュースを短時間ながら流したことがあるが、それは後に「談合によるもの」だと聞いた。私の記者クラブに対する不信感の根底には、この体験があるのだ。
 万事休すであった。あとは闘士たちがなんとか逮捕されずにすむことを祈るしかなかった。疲れ果てた身体を引きずってバイクで帰宅したことを覚えている。
 あれから25年かあ。あのころ間接的にしか対峙できなかった支那の独裁者たちと、日本国の覚醒と支那の暴走によって、ようやく私は直接向かい合う日々を迎えつつある。
 あるいは本望なのかも知れない。

 それにしても。素晴らしい時代になったものだ。いや、私が頑張って素晴らしい環境を作ってきたのかな、と少し自分で自分を褒めておこう(笑)。
 まるで闇の中に手をつっこんでいるような感じで情報を集めていた25年前と違って、いまはあまたの工作員のみなさんが支那の各地にいる。6月4日を前にした、あるいは当日の「空気」を逐一伝えて下さっているので、整理して紹介したい。
 政治的軍事的動きは別にして街で暮らしたり働いたりしている日本人には、ふたつの大きなことが感じられているようだ。
 ひとつは徹底した情報遮断。社内メールでグーグルを使っている会社は仕事に齟齬をきたしていると聞いた。グーグルそのものを遮断することもあるらしい。
 もうひとつは反ベトナムのキャンペーン。国内の不満を外に向けるためか、以前の反日を思わせるように行われているという。
 ということは、ここへ来ての無茶苦茶なベトナムへの挑発は6月4日を控えての国内対策もあったのかも知れない。日本に対してやりたいところだが、優秀なる海上保安庁自衛隊尖閣諸島海域を完全掌握している。だからせめて空でちょっかいを出してきたということだろうか。
 しかし、これは危険な賭けだ。<「戦地に自衛隊」可能性>と「日本を代表するクオリティペーパー」(嘲)が6月4日の一面に書くようなトボけた国が相手ならともかく、ベトナムは国全体がバネのような軍事的反射神経を持っている。どこで局地的な紛争が勃発するかわからない。
 先日GPSのおかしさについて書いたら、同じことに気付いたというメールをいくつも頂戴した。首相動静を見ているとここ数日の間に、安全保障の最高幹部だけでなく、統合幕僚長までもが官邸に呼ばれている。地域の緊張はいま、かなり高まっている。

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発行:株式会社 世論社
天安門事件については

天安門事件は: http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/48108245.html
を参考にしてください。 すばらしいブログです