パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です  尚 転載はご自由に

このブログではチベット問題を扱っているがウイグル、モンゴルも同様な弾圧状態である



備忘録

東トルキスタンの現・近代史

日本ウイグル連盟のHPより

1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは、イギリスとロシアの勢力争いの場となっていました。また英露をはじめヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされました。
 また、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中からは、ロシアの圧迫への反発から、近代的改革の動きが生まれました。彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動といいます。
 これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きました。近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要となります。それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになりました。当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力しました。有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいます。彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになりました。ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいます。
 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれましたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立しました。このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国となり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となりました。そしてそれに遅れること約20年、東トルキスタンでも侵略者を追い出し、自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきました。
 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていましたが、実質は漢人軍閥によって支配されていました。清末期から続いていた東トルキスタンへの漢人の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間には不満と怒りが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていました。
 そして、1931年3月にクムル(ハミ)で起きた蜂起が、東トルキスタン全土に飛び火しました。その混乱の最中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタンイスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至りました。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立されました。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えました。
 1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わりましたが、この頃の東トルキスタン情勢について日本政府は強い関心を持っていました。国外に亡命した東トルキスタンイスラム共和国の指導者たちに対し、日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていました。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいました。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようですが、その後日本政府が東トルキスタンに対しての関心を失ってしまったため実現しませんでした。
 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族による民族解放組織がイリのグルジャ市で   東トルキスタン共和国の独立を宣言しました。主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていました。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握しました(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫りましたが、突然進軍を停止しました。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連中国国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためです
 武力による独立闘争に代わって和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年に東トルキスタン政府とウルムチの国民党政府との間に和平協定が締結されました。これにより、お互いの閣僚を出し合った新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言しました。
 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府中国共産党との協議を決定しました。8月に開催される会議に参加するため、政治的指導者たちは北京に向かいましたが、途中行方を絶つことになりました。一説にはソ連に連れ去られ殺害されたとも言われています。
(同様なことは1959年 チベットでも起きている。共産党将軍の招聘を断ったダライ・ラマ法王が避難し、その周りに数万の民衆が守っていた  ノルブリンカ(夏の宮殿)に対し、砲撃を開始、たくさんの民衆が死亡した。 そのとき法王は インドへの亡命と言う道を選んだ)

 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」され、1955年に新疆省から新疆ウイグル自治区へと名称を変え、現在に至っています
「解放」ではなく「占領」だとおもいますが。。。。